Je t'aime

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 体育祭も無事終わって、あたしたち3年は本格的に受験モードへと変わっていった。
「おめでとう」
 あたしが封筒を片手に報告しに行くと、芳香は自分のことのように笑顔を見せた。
「ありがとう。正直ホッとした」
「ヨッシーは一般だからまだまだ先だね」
 一緒に来ていた彩芽が言うと、「まあね」と芳香は答える。彩芽も公募推薦を狙うらしいから受験がまだ先のことだというのは同じだけれど、センター試験を通っての一般入試は年を越えてからが本番なのだ。専願である指定校推薦とは雲泥の差である。まぁ今日の報告は校内で選ばれたというだけだけど。
「わたしも早く終わらないかなぁ、受験勉強」
 思わず嘆くヨッシーの気持ちは痛いほどよく分かる。分かりすぎて、つい彩芽と二人で笑いを零した。
「そういえばヤマト君はどうするって?」
 ふと芳香が聞いてきた言葉にあたしは笑うのを止めた。
「え?」
「どこの大学行くの?」
「えっと、さあ……、知らないけど」
 そういえばどうするんだろう。進路の話は聞いた事がなかった。……就職は、ないだろうけど。藤崎君の成績ならどんなところにだって行けそうな気がする。
「知らないの? ってかそういう話って普通真っ先に出てくるものじゃないの?」
「うん……」
 驚く芳香と彩芽に、あたしは何と答えていいか分からない。
「あんまり二人で話すことってないし」
 最近は一緒に帰ることもない。彩芽は気を使って先に帰ってくれるけど、藤崎君の方が森岡君や篠原君と帰っていく。あたしから声を掛ければいいだけなんだけど、楽しそうに話しているのを見ると、せっかくの雰囲気を邪魔するのも悪いかと思って結局いつも一人で帰っていた。
「何よそれ。ついこの間まで目も当てられないほどくっついてたじゃないの。挙句には道端で熱い抱擁だし?」
 ニヤッと二人が一斉に笑みを浮かべる。
「も、もうっ、いいじゃん、その事は」
 思い出しただけで顔が赤くなるのは仕方がないだろう。
「まぁいいけどね。見てる分には相変わらずだし」
 いやスキンシップはむしろ激しくなってる気が――なんて言ったら二人の反応が怖いので絶対に言わないけど。
「とにかくさ、わたしらが言うのもなんだけど、全然話さないってのはマズイと思うよ。今度絶対聞いてみなさい」
「……はい」
 どうしてあたしが説教されているんだろう。

 放課後になって帰り支度をしていると彩芽がやって来た。
「今日聞くんだからね」
 一瞬何のことだか分からなくて、けれどすぐに思い当たった。
「それはちょっといきなりじゃ」
「頑張れ」
 聞いてないし。
 彩芽は言うだけ言うと、さっさと教室を出てしまった。辺りを見回すとまだ藤崎君たちは篠原君の席に集まって談笑している。
 あの輪の中に行くのって結構勇気要るんだけどなあ。何せクラスだけじゃなくて校内でも目立つのだ、彼らは。知らず、溜め息が出る。
――よしっ。女は気合だっ。
 あたしは自分を奮い立たせて席を立った。
「あの、藤崎君」
 声を掛けると3人が一斉にこちらに振り向く。思わず何を言おうとしていたのか忘れてしまった。藤崎君の整った容貌ばかりが先行して目立つけれど、篠原君と森岡君だって決してかっこ良くないわけじゃない。藤崎君が来るまでは二人の人気はそれはもうすごかった。それに加えてこんなシチュエーションを経験したことが無いあたしは、この3人に見られることに本当、怖いくらいに緊張してしまう。
「どうしたの、椿ちゃん?」
 声を掛けたまま黙ってしまったあたしを覗き込むように藤崎君が首を傾げる。
 ……逃げ出したい。
「や、その、……一緒に帰れないかな、と思って。無理なら、別にいいんだけど」
 顔が赤くなるのを隠すために俯きながら言うあたしの髪をくしゃっと撫でる手。見上げると藤崎君が笑みを浮かべてあたしの髪をかき回した。
「無理なわけないでしょ。すごく嬉しいのに」
 あたしはほっとして、肩の力が抜けるのが分かった。まだ心臓はバクバク音を立てているけど、あたしも自然と口元が緩む。
「――甘い」
 呆れた森岡君の声がして二人の方にも視線を向けると、苦笑気味の曖昧な微笑を浮かべる篠原君と目が合った。
「可愛いね、藤崎さん」
 その一言にあたしの髪に触れていた藤崎君の指先がピクリと反応し、それが離れたかと思うといつの間にあたしは彼の腕の中に納まっていた。ええ!?
「椿ちゃんは可愛いのよ。アンタ達指一本触れるんじゃないわよ」
 そんな無茶な。
 だけど驚いたのはあたしだけじゃないようで、シン、と教室中が静かになった。この沈黙を最初に破ったのは森岡君の笑い声だった。
「あっはは、なんだよそれー」
「アタシは本気なんだからね。行こう、椿ちゃん」
 そう言って引っ張られるあたしに、篠原君の声が聞こえた。
「またね藤崎さん、ヤマト」
「ば、ばいばい」
 あたしが返事をすると不機嫌な声で藤崎君に怒られた。なんで……?

「何かあったの?」
「へ?」
 繋がれた手を意識していたら急に藤崎君に声を掛けられた。顔を上げるとあたしを見下ろす藤崎君がいて、もうさっきの不機嫌さはなくなっているようだ。
「椿ちゃんから誘ってくれるなんて、何かあったのかなぁって」
 そういえばあたしから何かを誘うなんて、今までなかったかもしれない。
「どうして一緒に帰ってくれなくなったのかなって……」
 って、違うだろう、あたし。
 確かにあのことをからかわれてから誘われなくなったのは不思議に思ってたけど。
「あぁ、それは」
 少し考える素振りを見せながら、藤崎君は進行方向に視線を逸らした。
「椿ちゃんは嫌だろうなと思って。ああやって目立つの、嫌いでしょ?」
 それからまたあたしの方に目をやって、困ったように笑う。
「でもまたやっちゃったわね、教室で。ごめんね?」
 どうしても我慢できなくて、と苦笑する藤崎君の手を、あたしは思わず強く握り締めた。どうしよう。よく分からないけど、すごく嬉しい。胸が締め付けられた。
「そんなこと、全然っ」
 勢いよく否定しようとしたあたしの方へ藤崎君は更に歪めた笑顔で向いた。
「それで、本当のところはどうしたの?」
 彼は真っ直ぐにあたしを見て、小さな子どもを諭すような優しい声音でそう言った。再びあたしは「へ?」と間抜けな声を出す。
 どうして分かっちゃうのかな。あたしは軽く頭を掻きながら、困ったような嬉しいような恥ずかしいような、いろんな感情が沈んでいくのを待った。
「実はその、進路のことなんだけど」
「うん」
「ふ、藤崎君はどうするのかなと思って。あたしはほら、O大だから、地元って言えば地元でしょ」
「あー、そっか、そうねぇ」
 藤崎君は前へ向き直って間延びした声を出した。これから言う言葉を選んでいるようにも見える。
 だからあたしはそれなりに覚悟を決めていたのだけれど。
「アタシは東京に行こうかなと思ってるの」
 貰った答えは全く想像していなかったもので、ガツン、と殴られたような衝撃を受けた。東京なんて――遠すぎるよ……。