Je t'aime

43


 藤崎君が東京へ行く。それを聞いたあたしは繋いだ手をなかなか離せずにいて、たぶんそれは彼も同じで、あたしたちはずっと指を絡ませあったまま動けなかった。だけど進める足を止めることはなくて。
「ちょっと寄り道していかない?」
 藤崎君の提案にあたしが頷くとそのまま駅を越えた。着いた先は夏祭りの時にクラスの皆で行った河川敷だった。今はもう人気のないただの静かな場所が、あの時はとても賑やかだったと思い出す。あの時も落ち込んでいたけど、またそんな気分でここに来るとは思わなかったな。
 傾斜になっている草原の上に腰を下ろす。それでもまだ手は繋がれたままだ。包み込むように彼の手があたしの手を優しく撫でる。
「どうして、東京なの?」
 喉の奥が熱くなるのを感じた。けれどそれに気づかない振りをする。
「別に東京に拘るわけじゃなくて。どこだって良いの、ここから離れるなら」
 離れたいの、と聞こうとして躊躇った。
 そんなあたしに気づいたのか、藤崎君は柔らかい笑みを浮かべてあたしを見た。
「椿ちゃんから離れたいわけじゃないのよ? むしろずっと腕の中に閉じ込めておきたいくらい。でもここに居たらアタシはだめな気がするの。誰もアタシのことを知らない、そんな場所で何もかもを一人でしてみたいの。そりゃあまだ経済的には親の援助を受けると思うけど、それも極力なくして生きてみたい」
 そこまで言って彼はあたしの手を離した。
 あ、と思う瞬間もなく、次に感じたのは彼の全身の温もりだった。藤崎君は上半身を捻ってあたしを抱きしめた。
「大丈夫よ。東京って言ったって新幹線で2,3時間もあれば帰ってこられるわ。遠距離なんてアタシの趣味じゃないけど、椿ちゃんは自分の将来に向かってちゃんと頑張ってるんだもの、アタシも頑張れる。頑張らなきゃいけないのはアタシの方」
「藤崎君――」
 胸が詰まって思わず彼の名前を呼ぶ。
 すると藤崎君は体を離してぷにっと人差し指であたしの唇を押さえた。驚くあたしに彼はにっこりと微笑む。
「それで2回目よ、椿ちゃん?」
 へ?
「まぁさっきは周りに人が居たから何も言わないでいたけど。今は二人きりなのに、それでもまだ“藤崎君”なわけ?」
 え。あ。
 ああ……!
「はい、やり直しね」
 そう言って指を離すと今度は両手で頬を挟まれた。
 やり直すのはいいけど、この体勢は何?
 恥ずかしいのに顔を背けることが出来なくて、視線だけを逸らす。それでも藤崎君からの視線が痛いほど感じられて、あたしの心臓は壊れそうだ。
 小さく深呼吸をして意を決する。
「ひ、大和くん……」
 吐息のような微かなあたしの声は確かに彼の耳へ届いたようで、見上げた視界には嬉しそうに微笑む藤崎君が居た。そしてゆっくりと降りてくる優しい暖かさに、あたしはそっと目を閉じた。藤崎君の温もりを感じるたびに涙が出そうになる。幸せなのに、寂しい。
 藤崎君が東京に行っちゃうんだ。
 春には、この町から居なくなるんだ――……。


 週を開けた月曜日の朝はいつもよりどこか騒がしかった。
「思い切ったわねー、ヤマト君」
 感心した声を出す彩芽の隣で、あたしは呆然と彼を見る。何を思っていいのか分からなかった。
 どういう心境の変化なのか、藤崎君の長めの髪はばっさりと切り落とされていて、少し光が当たると赤茶気味に照っていた色は真っ黒に染められていた。
「ヤマト、その頭どうしたんだよ?」
 森岡君が聞くと、藤崎君は屈託のない笑みを浮かべて無造作に自分の髪を掻いた。その仕草は彼自身もその髪型にまだ慣れていないようにも見える。
「なんていうか、卒業に向けて心機一転?」
「早くないか。卒業って」
 篠原君の言うとおり、まだ今は体育祭が終わったばかりの9月の半ばだ。
「だからその準備だってば。準備は早めにしておいた方がいいでしょ」
「じゃあ卒業までずっとその頭でいくのか?」
「まあね、そのつもり」
「ふうん。まぁ、似合ってるし、良いと思うけどさ」
 整った顔立ちの彼にはその短髪も、どんな髪型だって似合うだろう。頭の形が綺麗だからかもしれない。さすがにスキンヘッドは想像したくないけれど。
 だけどさ、と森岡君はまじまじと藤崎君の髪を見て呟いた。
「ますます似合わなくなるよな、ヤマトの口調と外見が」
 一瞬、ピシッと音を立てて教室の空気が凍った気がした。
 たぶんそれは、誰もが思っていても口には出せないことだ。
「修司……、そんな今更」
「それもそうね」
 苦笑しながらフォローに回ろうとした篠原君の言葉を遮るように藤崎君が頷いた。え、と思わず声を上げそうにあったのはあたしだけではないはずだ。
「社会に出たら我侭も言ってられなくなるだろうし、せっかくの機会だからこの口調は直そうかしら」
「嘘だろ!?」
 誰よりも驚いたのは似合わないと指摘をした森岡君だった。
 あたしはただその光景を見ているしかできなくて。交わされている会話に耳を立てることしか出来なくて。

「椿ちゃん!」
 昼休みに教室を出て行こうとすると、いきなり後ろから呼び止められた。
「藤崎君?」
 振り返るとコンビニの袋を手にぶら下げて彼が近づいてきていた。
「一緒に食べよう」
 にっこりと笑顔を見せる藤崎君に、返事を考える前にあたしもつられてへらっと微笑み返していた。
 藤崎君の後についていくと、着いた先はいつもの非常階段の上だった。一応校舎の外側にあたるここは、今の季節だとちょうどいい涼しさだ。二人とも壁に背をもたれかけて並んで座る。
「あー、おなか空いたぁ」
 そう言いながら袋から出したパンの数は2個や3個どころじゃなかった。そのことに驚きつつあたしも自分のお弁当を広げる。やっぱり育ち盛りの男の子の食欲は信じられないくらいすごいなあ。
「卒業するとこういうことも無くなるのよねぇ」
 不意にしみじみと呟く声が聞こえて、あたしは危うくご飯を喉に詰まらせそうになった。いきなり何を言い出すのか。
「……東京に、行くんだもんね」
 あたしは言いながら、そういえばこのことを彩芽たちにはまだ言ってないなと思い出した。
「そうよー、離れ離れになっちゃうのよー」
 おどけた調子で藤崎君はそう言って、あたしの頭の上に自分の頭を乗せてきた。自然とあたしの頭は彼の肩に乗ることになる。重いけど、その重さが妙に心地いい。
「でも頑張らなくちゃねぇ。アタシにはそれしかないから。椿ちゃんに負けないくらいちゃんと前を向かなきゃって思うの」
 明るい彼の声を聞きながら、あたしの心はなんだかモヤモヤとするものがあって。それは今朝森岡君たちの会話を聞きながらも感じたものだった。
 ねえ、藤崎君。それって藤崎君の本心なのかな。
「あ、そうだ、話し方も直さなきゃね。東京には皆みたいに優しい人ばかりとは限らないし」
――本気、なのかな。
「……ひっ、大和、くん?」
「うん?」
「無理、してない?」
「うん……?」
「自棄になんか、ならないでね?」
「椿ちゃん……」
 あたしは知っているから。
 きっと皆より藤崎君のことを知っているつもりだから、こんなことを思ってしまうのかもしれない。
 だけど、不安なんだ。変わっていく藤崎君を見ているのが、どうしようもなく不安で仕方がない。
 これって我侭なのかな。迷惑、かな。
「大丈夫よ、大丈夫」
 宥めるように優しい声音がして、背後から回された腕があたしの頭を抱きかかえた。
「平のことは関係ないわ」
 だから心配は要らないのよ、と藤崎君は言った。