Je t'aime

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 数週間ぶりに雨が降った日、藤崎君は昼休みに呼び出された。
「おー、ヤマト。何だったんだ?」
 教室に戻ってきた彼に森岡君が声を掛ける。藤崎君は何事もなかったようないつものキレイな笑みを浮かべた。
「大学どうするのかって個人面談。学校名は書いたけど学部までは書いてなかったから」
 それは学期初めに配られた進路希望調査票のことだろう。
「ふぅん」
 森岡君は音を立てながらストローでジュースを吸い上げ興味なく相槌を打った。
「で、どうしたの?」
 今度は篠原君が聞いた。藤崎君はサンドウィッチの入った袋を破りながら「うん」と答える。
「とりあえず成績見て、法学部と工学部と薬学部を勧められた」
「何それ。バラバラじゃん」
「それでヤマトは?」
「んー、まぁなんとなく、法学部ってことにしたけど」
 藤崎君の答え方になんだそれ、と森岡君がもう一度呟く。
「やる気ねーなー」
 藤崎君は困ったように笑う。その通りなのかもしれない。
 そんな会話を数列挟んだ席から聞いていた彩芽は「ねえ」とあたしの方へ向き直る。あたしはまだ藤崎君が東京へ行きたいと思っていることを言っていなかった。
「それで、どこの大学へ行くって言ってたの?」
「……聞いてない」
 ウインナーを一口かじりながら答えた。何となく東京云々のことは言いたくなかったし、具体的な学校名を聞いていないのは本当のことだ。そう自分に言い聞かして後ろめたさを感じないようにした。彩芽は呆れたようにあたしをまじまじと見る。
「気にならないの、椿はヤマト君の進路」
 ゴクッと音を鳴らしてウィンナーを飲み込む。思わず咳き込んでしまった。
「そんなことないけど……」
「じゃあ怖いんだ?」
「え」
 不意をつかれた。そんな気がした。
「進路先を聞いて離れる実感をするのが怖いんでしょ?」
 確かめるように目を覗き込まれ、あたしはどう答えていいものか分からなかった。困ったまま、結局は何も言い返せない。肯定も否定もできず、黙ってマヨネーズも付けていないブロッコリーを口に運ぶ。
「まー分からなくもないけどぉ。卒業を機に自然消滅なんて珍しくもないしね」
 確かによく聞く話ではある。だけど誰もが望んでその結果を招いたわけではないだろう。あたしは彩芽を睨んでみたものの、何の効果も生み出さなかった。彩芽は何事もなく再び視線を藤崎君のほうへ向けた。
「どうするんだろうね、ヤマト君」
 その彩芽の呟きは果たしてあたしに向けられたものだったのだろうか。

 朝から降り続く雨は放課後になっても止む気配を見せない。まだお昼と言ってもいい真冬でも明るい時間帯のはずなのに、外は灰色と言うよりはドス黒い雨雲に覆われた空のせいで薄暗い。途切れることのない雨の音を聞いて、その憂鬱になる空を見上げて、玄関の所でビニール傘を片手にあたしは思わず溜め息を吐いた。雨は嫌いだ。
「なーんか、朝よりヒドくなってるわね」
 隣に立った藤崎君が間延びした声を出して同じように雨を落とす空を見上げた。あっけらかんとしたその言い草に、あたしほど雨は嫌いではないのだと思った。
「……だね」
 あたしの低い声にキョトンとした彼の視線を感じながら、あたしは傘を広げて雨の中へ進む。
「椿ちゃん、機嫌悪い?」
 おずおずと聞いてきた藤崎君にあたしは少し焦った。せっかく二人で帰るというのに、顔に出てたのかな。あたしは慌てて笑顔を作って見せた。
「そんなことないけど」
「そう?」
 それならいいんだけど、とまだ腑に落ちていない様子の彼に、あたしはもう一度笑顔を向ける。だめだな、これじゃ。
「でも……雨は嫌いなの。濡れるし、ベタつくし、湿気臭いし」
「アタシは嫌いじゃないけどな。雨が窓に当たる音とか割と好きよ。子供の頃はわざと濡れて帰ったりしたし、水溜りで遊ぶのも楽しかったわ」
「えー、そうなんだ」
「傘をわざとひっくり返して水を溜めて友達とかけあったり。今思うとかなり悪ふざけしてたのね」
 その時のことを思い出したのか、ふふっと楽しそうに笑う。
 あたしにも小さな頃の藤崎君の姿は簡単に想像はついた。きっと活発な男の子だったんだと思う。――だから高坂さんも、必要以上に彼の話し方を気にしていたのかもしれない。
 やっぱり藤崎君の髪型とか、進路のこととか、そういうのは全て高坂さんから影響されているようにしか思えない。あたしはそういう変化を怖がっているのかな。そういうことで不安に感じているんだろうか。それは世間で言うところの余計なお世話というやつなんだろう。あたしが口出しすることじゃないのだと思う。……分かってはいるんだけれど。
「……やっぱり、変だよ」
 色々考えて、あたしはとうとう口にした。言ってしまった。
「え、そうかな。確かにかなり怒られはしたけど、そんなに変かしら?」
「じゃなくて」
 あたしは視線だけで彼を見上げた。
「へ?」
 キョトンとした藤崎君があたしを見下ろす。
「なんか、無理してるように、見える」
 言ってあたしは隠れるように傘をずらした。どうせビニールなんだから隠れられるはずもないのに。
 雨の音がやけに大きく聞こえた。


 翌日は打って変わっての晴天で、だけどあたしの気分は昨日の雨のままだった。
 ああ、どうしてあんなこと言っちゃったんだろう!
 確かに少しだけ藤崎君らしくないなとは思ったさ。髪型は別にしても、話し方まで変えようなんて今までと正反対のことを言い出してるし。だからってあんな――全てを否定するようなことを言う事はなかったと思う。
「藤崎先輩?」
 はあぁ、と盛大な溜め息を吐き出したところで誰かに呼ばれた。声のした方へ振り返ると、知らない女の子が小首を傾げてあたしを見ている。
「あ、はい……?」
 とりあえず返事はしてみたものの――誰だろう。
 センパイ、とあたしのことを呼んだということは1年か2年生だろう。でも文芸部でもないのに、どうしてあたしを知っているんだろうか。同じ藤崎なら藤崎君の方が断然に有名人だけれど、まさか間違って呼び止められたってことはないだろうし。
「あの私、一宮祥子といいます」
「一宮さん?」
 彼女はにっこりと微笑んだ。女の子らしく肩まで伸ばし髪を二つに結わえて、目も大きくパッチリ二重で、口も可愛らしい小ささで、何よりそのパーツが揃う顔自体が小さい。童顔、というよりは本当に可愛いと称するに相応しいような感じの子だ。香苗さんはどちらかと言えばキレイなんだけれど。
「突然で悪いんですけど、ヤマト先輩と別れてくれません?」
 にっこりと微笑む彼女は本当に可愛らしくて、そこに悪意とかの醜い感情は浮かんでいなかった。