Je t'aime

45


 憂鬱な朝にはとことん落ち込めと神様は意地悪をする。
「突然で悪いんですけど、ヤマト先輩と別れてくれません?」
 他意のない笑顔でさらりとそんなことを言ってのけた彼女は、それだけを言うと校舎の中へ入ってしまった。あたしはただそれを呆然と見ているだけで、足どころか思考も止まっていて。
「おはようございます、フジ子先輩!」
 突然声を掛けられて驚いたけれど、あたしをフジ子と呼ぶのは限られた人間だけだと気づいた。
「あ、飛鳥ちゃん。おはよ」
 引退してから久しぶりに見る飛鳥ちゃんに微笑みかけるが、彼女はすぐに視線をずらして校舎の方を見やる。
「今のイチミっちゃんですよね。知り合いだったんですか?」
「いち……?」
 誰だろう、それは?
「え、イチミっちゃんですよね、さっきフジ子先輩と話してたの?」
「ああ――、飛鳥ちゃん知ってるの?」
 そういえば彼女の名前はイチミヤだった。そして飛鳥ちゃんが付けるあだ名は少し着眼点が不思議なんだった。
「友達です。クラスも同じだし。あ、そういえばヤマト先輩のこと聞かれました?」
 彼の名前が出ただけであたしはドキリとした。
「藤崎君がどうかしたの?」
 嫌な予感がする。こういうときの人間の予感というのはほぼ本能的なもので、たいていは外れない気がする。思い過ごしであってほしいけれど。
「イチミっちゃんってすごいヤマト先輩のファンなんですよね。文化祭の時からみたいですけど、ほんと、すごくて。ついフジ子先輩のこと話しちゃったんです」
「話したって?」
「ヤマト先輩はフジ子先輩にラブラブだって――」
 飛鳥ちゃんがそう言い終わる前にチャイムが鳴り出し、あたしたちは慌てて校舎へと向かった。だから一宮さんに何が伝わったのかよくわからないまま打ち切りになってしまった飛鳥ちゃんの話を、あたしはその日ずっと気にする羽目になったことは言うまでもない。

 急いで教室に入ると、教室の中はまだざわめきだっていて先生は来ていないことにほっとする。
「おはよう。椿がギリギリなんて珍しいね」
 席に着くと彩芽が声を掛けてきた。あたしもおはよう、と言葉を返す。
「いろいろあって」
 詳しく話すと長くなりそうで曖昧に返事をすると、同時に教室のドアが開かれて先生が入ってきた。彩芽は慌てて自分の席へ戻ろうとして、けれどすぐに振り返って足を止める。
「1時間目終わったら詳しく聞かせてねっ」
 それだけを言ってバタバタと他の皆と同じように席に着いていった。
 ふと視線を移すと、すぐに藤崎君の姿が視界へ入ってきた。彼はぼんやりと頬に手を突いて教卓の方へ顔を向けている。
 昨日は本当に、生意気なことを言ってしまったと思う。あたしは藤崎君の考えていることなんて何も知らないのに、完全に自分のエゴだ。ちゃんと謝らなくちゃ。一緒に帰ろうと誘って、その時にちゃんと謝ろう。そして話を聞きたい。藤崎君のこと、全部を知りたい。
 そうして結局、彩芽に一宮さんのことを話したのは昼休みだった。というのも2時間目が移動教室だったからで、4時間目も視聴覚室でビデオを見る事になったたため、午前中の休み時間は全て移動のために潰れてしまったからだ。さすがにこういうことはゆっくりと話したいからと昼休みまで延ばして、化学室で昼ごはんを食べることにした。元文芸部員の特権で化学室の鍵はいつでも手に入るのだ。
「……なんか、すごいね、そのイチミちゃん」
「イチミちゃんじゃなくてイチミっちゃんだよ」
「んなことはどうでもいいのよ。それよりどうするの? そういうタイプの子って、放っておくと行動がエスカレートしそうだけど」
 彩芽の言葉にあたしははぁ、と溜め息を吐く。
「問題はそこなんだよね。どうしよう? 別れて下さいなんて言われても……」
 まさかこんなことで悩むなんて思いもしなかった。確かに藤崎君はモテそうな人だけれど、今まではクラスの皆の反応が全てだったから、予想すらしていなかった事態だ。それを思うとあたしはなんて恵まれた環境にいたのか実感する。そして本当にあたしと藤崎君は“付き合ってる”関係なんだな、と今更ながらに思うのだ。
 それに、仮にあたしが藤崎君に「別れよう」と言って、果たして彼は受け入れてくれるのだろうか。というかそもそも、それだけのことであたしが別れようなんて言葉を口にするという事は、所詮はそれだけの気持ちだってことにならないだろうか。あれだけ悩んで気づいた感情が、たったそれだけのことで崩れるのは違う気がする。あたしは、本当はもっとずっと、自分が思っている以上に彼のことを想っているんだと思う。
「まぁでも、ヤマト君に相談するのが一番手っ取り早いと思うよ。ヤマト君がそう簡単に椿を手放すはずないし」
 手放す、のくだりであたしの顔は一気に赤く染まる。
「そ、そうかな」
「……」
 え。なんで黙るの。
 やっぱり本当はそんなこと微塵も思ってなかったってことなのだろうか。
「椿さ、もっと自信持った方がいいよ?」
「へ?」
 見上げると、彩芽はものすごく哀れそうな表情であたしを見つめる。あたしにはどうしてそんなカオで見られているのかが分からない。
「椿がそんなふうだと、ヤマト君に同情してしまうよ、わたしは」
 彩芽はやれやれ、と首を力なく横に振る。
「なんで?」
「なんでって、本気で言ってる?」
「へ?」
「……。とにかく、そのイチミちゃんのことはヤマト君に相談しなさい」
 彩芽はあたしの肩を叩き、あたしから視線を外すともう一呼吸置いて肩を叩く。
 本当に彼女は藤崎君に同情を示しているようだ。まったくもって意味が分からないのですけれど。

 なのに、放課後になると藤崎君はまた呼び出しがかかった。
 だから「一緒に帰ろう」と言うことも出来なくて、あたしは仕方なく教室で待つことにする。
 次々と教室を後にするクラスメイトにバイバイと手を振りながら、あたしはやることもないので机に今日出された宿題のプリントを広げた。
「あれ? 残ってるのって藤崎さんだけ?」
 不意に声が聞こえて、プリントから顔を上げると教室は見事にあたし一人だけで、ドアのところに篠原君が立っていた。
「ヤマトはまだ……みたいだね」
「そう、だね」
 気づけばそろそろ4時半だ。プリントはまだ半分ほどしか埋まっていないけれど、時間はだいぶ進んでいたらしい。それでも藤崎君の鞄は彼の机の横に掛かったままになっているので、まだ彼も先生から解放されていないのだろう。
「じゃあ気をつけて送ってもらいなよ。また明日」
「うん、バイバイ」
 篠原君の姿が見えなくなって、あたしはプリントや筆記具を片付けることにした。なんだか気分が反れたし、そろそろ藤崎君が戻ってくる気がした。
 さっきまでは聞こえなかった時計の秒針の音が静かな教室内ではやけに響く。授業中でも感じることのないこの異様な静けさの中で藤崎君を待っているのが、なんだか不思議な気がする。彼を待つということが、こんなにも緊張するものなのだろうか。
 片付けた机の上に頭を乗せる。目を閉じると自分の心臓の音が余計にはっきりと聞こえる気がした。ドクドク、という規則正しく響く鼓動が、とても心地良い。
「椿ちゃん?」
 突然耳元で聞こえた優しい声音に、あたしは思わず飛び起きた。
「あっ、あれ?」
 頭がぼんやりする。それにどうして目の前に藤崎君の顔があるのだろう。
 そこで自分が寝てしまっていたという事に気づいた。うわ、何やってんだ! よりによって待ってる間に眠るなんて!
「あ、えっと、あの、その」
 言葉が見つからずに焦りばかりが募る。もはや自分が何を言いたいのかさえ分からない。けれど何か言わなければと脳をフル回転させた。
「……終わった?」
 結局出てきたのはそんな仕様もないもので。
 けれど藤崎君はふわりと笑って「終わった」と答えてくれた。
「待っててくれてたのよね。ありがと」
「ううん。話したいこともあったし……」
「そう? じゃあ早く帰りましょ」
「うん」
 既に藤崎君は帰る準備が出来ていたみたいで、あたしたち二人はそのまま電気を消して教室を出た。廊下も薄暗く、外もすっかり夜になっていた。どれだけ寝ていたんだろう、あたし。
「話したいことって?」
 階段を降りながら藤崎君が聞いた。いきなりですか。
「あのね、今朝のことなんだけど」
 ア、でもその前に昨日のことを謝るのが先なのかな。だけれどもう切り出してしまったので、あたしは昨日の事は後にしようと判断した。今も普通に話せているのだし、その優しさに少しだけ甘えよう。
「一宮さんっていう2年生にね」
 階段を降りきるとすぐそこにロッカーが並ぶ玄関口になっている。
「いきなり藤崎君と別れて下さいって言われて」
「え?」
 ……あ。
 藤崎君の声が漏れるのと同時に、あたしの足は自然と、急ブレーキをかけられたように止まった。
「椿ちゃん?」
 そんな不自然な動きをしたあたしに、藤崎君は不思議そうに声を掛ける。けれどあたしは何も言えず、ただ目の前にいる人物に思考を停止させていた。どうして。
 あたしの視線の先をゆっくりと辿っていった彼は、今度はその人に声を掛ける。
「――誰?」
「一宮さん……」
 それに答えたのはあたしで。
 一宮さんは可愛らしくにっこりと微笑みかけた。
「お話があるんですけど」
 こんな時間まで待っていたらしい彼女は、なかなかに手強いのかもしれない。