Je t'aime

46


 一宮さんはにっこりと微笑んだ。
 その顔に他意があるようには思えなくて、逆にそれが怖くなった。ただ綺麗に微笑むその表情が訳の分からない不安感をあたしに与える。思わず一歩下がり、隣に立つ彼の制服の裾をぎゅっと掴んでしまった。
「話って、椿ちゃんに?」
 藤崎君が静かに尋ねる。少し顔が強張っているのはあたしの気のせいだろうか。それともあたしが裾を掴んでしまったからかもしれない。でも離す気にはなれなかった。
「二人にです」
 決して大きくはない声だけれど、はっきりとした口調で一宮さんは言った。目をキラキラと輝かせた彼女は、確かに憧れの先輩を目の前にした女の子で、きっと待っている間もドキドキと心臓を鳴らしていたんだろう。緊張しているようには見えないけれど、でも本当は。
 そう思えば何となく可愛らしく見えるから不思議だ。それでもやっぱり、あたしは一歩下がったまま動けないけれど。
「椿ちゃん、聞く?」
 あたしの方を向いて藤崎君は優しくそう尋ねてくれた。あたしに迷いはなかった。
「うん」
 頷いて答える。
 一宮さんを真っ直ぐと見つめる。
「何?」
 裾を握る手に、うまく力が入らない。
「あの私、先輩と仲良くなりたいんです」
「仲良く?」
 聞いたのは藤崎君だった。はい、と可愛らしく頷く一宮さんの真意がよく分からない。だって彼女はあたしに、藤崎君と別れてほしいと言ってきたのに。
「文化祭の時にヤマト先輩のことを知って、ずっと好きだったんです。せめて友達に、なってくれませんか?」
 遠慮がちに、でも主張は曲げない強い視線で一宮さんは藤崎君をじっと見つめる。あたしは眼中にないみたいだ。
「……まあ、いいけど」
 藤崎君は少し考えた素振りを見せて頷く。
 やだ。
 と思った感情は素直に現われ、あたしの手に力が入り、藤崎君の裾の皺が深くなった。慌てて手を離す。
 だめだ。握り続けてたら皺でめちゃくちゃにしてしまいそうだ。
「でもアタシ、椿ちゃんが一番だからね」
「分かってます。じゃあ今日はこれで」
 一宮さんは礼儀正しく、手を前に出してお辞儀をした。顔を上げると満面の笑みで、そのまま玄関口から出て行った。
「アタシたちも帰ろ」
 振り向いた藤崎君の笑みに、あたしはどうしてか泣きたくなって。
 それでも自然と繋がれた手を離すなんて、あたしにできるはずもなくて。


 昼休み、藤崎君は内緒話をするようにこっそりと近づいてきた。座ってるあたしの視線を合わすように、彼は少し屈んで一枚の用紙を机の上に乗せて見せた。
「アタシね、東京に行かないことにしたの」
「へ?」
 唐突な告白にあたしは間抜けな声しか出なかった。東京に、行かない?
「無理して遠くに行かなくても自立はできるって、場所は関係ないって先生にも言われてね。とりあえずここを受けてみたらって。ここだったら一人暮らしも納得してくれる距離にあるんじゃないかって」
 ここ、と指された用紙の上には大学名と学部名が彼の字で書かれていた。ここ……って。
「K大?」
 芳香が目指している大学と一緒だった。学部は違ったけれど。
「そう。知ってる? ここって結構伝統あるらしいのよ。場所もね、隣の県なんだけどそこそこ掛かるし、そうしようかなと思って」
「それで最近先生のところに行ってたんだ?」
「ん? うん、まあね。いろいろと説得させられたけど、結果的にはそれで良かったのかも。資料もかなり貰えたしね」
「いいと思うよ。頑張ってね」
「うん。ありがとう」
 にっこりと笑う藤崎君を見ると、既に意志は固まっているみたいだった。たぶんK大が第一志望の進路先になるんだろう。
「あたしはね、O大にしようと思ってるの」
 ここからO大へは、K大とは反対の方面に位置している。どっちにしろ、分かれてしまうのはしょうがないのだ。
 それなら今できる応援を、精一杯しよう。
「ヤマトー、後輩が呼んでるぞ!」
 クラスメイトの声に顔を上げると、ドアの外から顔を覗かせていたのは。
「あ……昨日の」
 一宮さんだった。あたしたちと目が合うと、ペコリとお辞儀をしてみせる。
「アタシ?」
 藤崎君が一宮さんの傍へ寄っていく。それをあたしは、席に着いたまま見ていただけだった。だって呼ばれたのは彼だけだし。
 二言三言話すと、藤崎君は一度だけあたしの方を振り返って軽く謝る仕草をしてから、二人で教室を出て行った。
 机の上に残ったのは彼の進路調査用紙だけで。
 あたしはそれをゆっくりと持ち上げた。
 あたしは今できる応援を精一杯――。
 だけど、目の前から居なくなるのは、いやだ……。
「椿?」
 溜め息を吐いていると、不意に声を掛けられた。見上げると彩芽だった。
「どうしたの?」
「あー、うん……」
 再び視線を落とすあたしに、彩芽は膝を床に着いて顔を覗きこんでくる。そして彼女の視線は当然というか、あたしが手にしている彼の進路調査用紙へと向けられた。
「何、それ?」
「藤崎君の進路希望」
 答えると彩芽は目を丸くしてその用紙を凝視した。
「藤崎君ね、K大に行くんだって」
「K大――って、確かヨッシーもK大だったよね」
「うん」
 それからしばらく沈黙が流れ、ややあっと彩芽が言った。
「良かったじゃん、教えてくれて。そんなに離れてるわけでもないしさ。まぁ少し遠いけど、会えないわけじゃないし」
 東京行きのことを知らない彩芽はほっとしたようだ。だけどあたしはそんなふうには思えなかった。会えないわけじゃないことは分かっているけど。感情が上手くついていかない。だって彼はきっと、独りになりたがっている。自立が一人になることじゃないことは、頭では理解しているのに、心のどこかで、彼は一人になることを選ぶと、思ってしまう。
「でもK大って簡単に言うところがヤマトくんらしいっていうか」
 あたしがあまりに湿っぽい顔をしていたからだろうか。彩芽が冗談っぽくそう言ってくれて、あたしは少し笑った。確かに簡単に言って入れるほど、K大の入試は甘くない。というか難関大学として名を売っているのだ。簡単なわけがない。それを距離だけで決めてしまう藤崎君は、らしいと言えばそうなのだろう。
「ふふフジ子、何、今の!?」
 突如教室へ入ってきた声に驚いて振り向けば、珍しい芳香の姿があった。これには彩芽も驚いていた。
「今の何って、どういうこと?」
 彩芽が聞けば、芳香は「それはこっちが聞きたいわよっ」と叫ぶのを無理矢理抑えたような声で叫んだ。
「ヤマト君が知らない子と抱き合ってたんだけど!?」
 一瞬でクラスが騒然となった。
 けれどあたしはそのざわめきさえも聞こえなくて。
 ただ呆然とそんなことを報告した芳香を見つめていた。