Je t'aime

47


 一瞬にして教室内が騒然とした。
「はっ、な、何よそれ!」
 呆然とするあたしの横で彩芽が叫んだ。
「分からないから聞いてるんじゃん!」
 芳香も負けないくらい叫び返した。もしかしたら一番パニックになっているのは芳香かもしれない。いつもは何だかんだと冷静に言葉を返して、こんなふうに感情をぶつけるように叫んだりするところを見たことが無い。
「だってあのヤマト君だよ!? ありえないよ」
「いやわたしだってそう思うけど、でも実際見ちゃったんだもん」
「どこで」
「非常口を出たところで。6組の隣の」
 6組の隣の非常口と言えば、ここからすぐ近くの距離だ。しかも2階だから人通りも多い。ましてや今は休み時間だ。大胆というかわざとらしいというか……。しかも3年のクラスが集まる場所でというのが、すごい。度胸があるというか肝が据わっているというか。
「やるわね、そのイチミちゃん」
 彩芽も同じことを思っていたらしく、感心したように呟いた。芳香はきょとんとして首を傾げる。
「何、知ってるの、相手のこと」
「椿がね」
 彩芽からあたしへと芳香の視線が向けられ、あたしは悪行を犯した罪人のようにどぎまぎした。あたしが慌てる必要なんてどこにもないのだけれど。
「や、違うよ。飛鳥ちゃんが……」
「飛鳥ちゃん?」
 芳香が反復する。どうしてそこで飛鳥ちゃんが出てくるのだと言いたげな口調だった。
「飛鳥ちゃんの友達らしくて。その、一宮さんっていうんだけど」
「飛鳥ちゃん……って何組だったっけ」
「さぁ?」
 あたしが首を傾げると、彩芽も「知らない」というふうに首を横に振った。芳香は腰に手を当てて考え込む仕草をする。
「しょうがない。今日部活に顔出すか」
 小さく聞こえたその独り言にぎょっとした。
「飛鳥ちゃんに聞くの?」
 すると芳香は当然でしょとでも言うようにあたしを見る。いやまぁ、流れからしてそれしかないと思う。
 だけどどうも、釈然としないこの感覚は何だろう。
「本人に聞ければ一番いいけどね」
 芳香が答える。
「けど飛鳥ちゃんがアレの引き金になってるなら問い詰めなきゃ」
「私も行く!」
 彩芽もそれに賛同した。二人に問い詰められるのは怖そうだ。一瞬飛鳥ちゃんの立場を想像して、鳥肌が立った。
「あたしも、行く」
 飛鳥ちゃんを守らなくちゃ。
 あたしたち3人はそれぞれ目を合わせて、うん、と頷き合った。

 芳香が自分のクラスへ戻ってしばらくしてから、藤崎君が一人で戻ってきた。ドアのところですぐに目が合ったけれど、あたしが逸らせずにいる間に森岡君から声を掛けられた彼は森岡君の方へ顔を向けた。
「おいヤマト、何だったんだよ?」
「何が?」
「さっきの呼び出した子に決まってるだろ。告白? 受けたわけ?」
「バカ、修司。藤崎さんがいるだろ」
 森岡君の頭を叩きながら篠原君が嗜める。けれど森岡君は「だってさぁ」と恨めしげに彼を見た。好奇心には勝てないのだとその目が語っている。
「告白はされたわよ」
 不意に藤崎君が言った。え、と声を上げたのは森岡君と篠原君だけじゃなかった。
 驚く周りのクラスメイトたちをよそに、当の藤崎君は何事も無かったかのように言ってのける。
「でもアタシには椿ちゃんだけだもの。皆知ってるじゃない」
 凛とした態度ではっきりとそう言ってくれた藤崎君に、あたしは涙が出そうなくらい嬉しかった。きっとそう言ってくれる間は何があっても大丈夫な気がする。
「椿ちゃんもそうよ、ね?」
 へっ、あ、あたしに振りますか!?
 一斉にクラス中の視線を浴びてあたしは思わず俯いた。顔が急に熱くなるのが分かる。きっと耳まで赤くなっているに違いない。
 どうしたものかと固まるあたしの前に、誰かが近づいてきたのに気づいた。そろそろと視線だけを上げると、藤崎君がいて、余計に熱が上がる。
「ね?」
「……う、ん」
 蚊よりも小さな声で答えたけれど彼の耳にはしっかり届いていたようで、途端に頭から抱きしめられた。
 ひえーっ! 何の羞恥プレイですか!
 それでも少し速い藤崎君の鼓動を聞くと、周りではやし立てる声々も、どうでもいい気がした。
「それでね、椿ちゃん。今日の帰りなんだけど」
 あたしの頭を胸に抱きかかえたまま藤崎君が自然に話しかけてきた。どうしてこの状況で平然としていられるのだろうか。
「あ、あのね、あたし今日は」
 あたしも頑張って平然と答えようとして、けれどそれは彼の言葉に遮られた。
「今日は一緒に帰れないの。たぶん、暫くは先に帰ってもらうことになる」
「あ……、うん」
 今日はあたしも一緒に帰れないと言おうとしていたので、彼から言ってくれたことには少しほっとしたけれど。
 なんでだろう。このもやもやした感じは、何だろう。

 芳香と彩芽とあたしは、久しぶりに放課後の化学室へと入った。ドアを開けた瞬間、文芸部の全員が驚いたように振り向いた。
「う、わぁ! 久しぶりですね!」
 最初に声を上げたのはやっぱりというか、飛鳥ちゃんだった。
「まぁね。夏祭り以来だから。――ところで、飛鳥ちゃん」
 芳香は答えながら、がしっと飛鳥ちゃんの肩を掴んで微笑む。あたしには悪魔ヨッシーの再来としか見えないのだけれど、あたしたちが来た意味を分かっていない飛鳥ちゃんは「はい?」と可愛らしく微笑み返していた。案外心臓の強い子なのかもしれないと思えた。
「チヂミちゃんについて聞かせてくれない?」
「はい?」
 もう一度飛鳥ちゃんが首を傾げる。
「違うって。チヂミじゃなくてイチミ」
「じゃなくて一宮さん」
 芳香に訂正した彩芽に、あたしがもう一度訂正した。飛鳥ちゃんはすぐに思い当たったらしく、「ああ」と声を上げた。
「イチミっちゃん、ヤマト先輩のこと本気だったんですね」
「そうよ。ヤマト君のこと、飛鳥ちゃんがその子に教えたんでしょ? 詳しく教えてくれない?」
 肩をがっしりと掴んだまま迫る芳香に怖気づくことなく、飛鳥ちゃんは思い出すように小首を傾げてみせた。
「うーん……、教えるって言っても、ヤマト先輩はフジ子先輩とラブラブってことくらいしか」
「本当にそれだけ?」
 彩芽も芳香の横から彼女に迫る体制になり、あたしは後ろでオロオロとするだけだ。飛鳥ちゃんがまだ平然としてくれているのでいいけれど、この気迫にあたしだったら耐えられていないかもしれない。
「はい、それだけです」
 きっぱりと言い切る飛鳥ちゃんに隠し事をしている様子はなかった。
「あ、でも」
 不意に飛鳥ちゃんは何かを思い出したふうで、芳香の肩越しからあたしを視線に捕らえて言った。
「今日ヤマト先輩と帰るって言ってましたけど」
「……へ?」
 間抜けな声を出して、あたしは顔の筋肉が引きつるのを感じた。
 何を、言ってるの。
 確かに今日は一緒に帰れないと、藤崎君から言ってきたけれど。
 でも彼はちゃんと、あたしだけだとも言ってくれたのだ。
 皆の前で、言ってくれたのだ。
「どういうこと?」
 芳香が問いかけるようにあたしを見る。
「どういうこと?」
――そんなの、あたしが知りたい。