Je t'aime

48


 一宮さんと藤崎君が一緒に帰った。たったそれだけのことが気になって、あたしは上手く眠れないまま朝を迎えた。
 こんな日はとても世界がくすんで見えて、鏡を見ると自分自身のヒドイ顔に項垂れた。しっかりしなくては。顔を洗って、気を引き締めなくては。何もなかったのだと。誰かに心配させるかもしれないこんな顔で、学校には行けない。
「何してるのー? もう時間よ!」
「はぁい!」
 あたしは慌てて蛇口を捻り、水を止めた。拭いたタオルを洗濯機に放り投げる。
「行ってきます!」
 ケイタイのディスプレイを見ると、既にいつもより10分も過ぎていた。

「おはよう」
 教室に入るとすぐに彩芽の席へ寄った。彩芽はおはよう、と言って少しだけ俯いた。
「あ、ねえ、椿」
 顔を上げて彩芽があたしの顔を覗きこむように首を傾げる。
「あの後ヨッシーとも話したんだけど、やっぱりヤマト君に直接聞くべきだと思うの」
 そうして彩芽は立ち上がると、あたしの両手を掴んだ。励ますようにぎゅっと握り締められる。
「大丈夫。進路の事だってヤマト君とちゃんと話したんでしょ? 二人のことは二人でちゃんと話せるんだから」
「や、進路のことは……」
 あれは話し合ったわけではなくて。そう言おうとしたけれど、彩芽は首を横に振ってそれを遮った。
「ううん、別問題なんかじゃない。イチミのことだって進路のことだって大事な問題よ」
 あー、なんだか誤解だと言い出しにくい感じだ。あたしは困って握られた手を見つめた。
「――……うん。わかった、聞いてみる」
 とにかくは、彩芽たちを巻き込んでいいことじゃないのだ。それだけはよく分かった。いつまでも頼ってちゃだめなんだ。
 思えばいつも彩芽に、芳香に、背中を押してもらってばかりだった。藤崎君のことに関しては、最初からそうだ。
 だけど本当はあたしから動かなくちゃいけなくて。ちゃんと話さなくちゃいけなくて。
 告白する勇気があたしにはあったんだから、真実を聞く勇気も持たなくちゃいけない。何を信じるかは、藤崎君の言葉次第だけれど。そうしなくちゃいけないから。
 信じるのはあたしなんだから。

 とはいうものの。
 そう決めたときに限って藤崎君はなかなか捕まらなかった。篠原君や森岡君の前で話す勇気はさすがになかったから、一人になったときに話しかけようとタイミングを伺っていたのだけれど、タイミングを計れば計るほど、どれだけ普段彼の周りに人が集まっていたのかを実感していく。あたしは今、あの輪の中の中心にいる人に話しかけようとしている。それがなぜだか、不思議な気がする。
 けれど。
 それに。
「あれ、ヤマト?」
「ごめん、ちょっと職員室行ってくる」
「おう」
 まただ。また、前にも増して彼はこうして教室を出て行くことが多くなった。
 K大に決めたんじゃなかったの? それとも違うこと?
 あたしは未だ何も聞けずにいた。あれから既に二日は経っていた。
 何も知らずにいると、もやもやとした感情は日に日に増していって、胸の中がパンクしてしまいそうだった。せめて飽和して全て無くなってしまえばいいと思うけれど、上限らしい限度はまだ越えていないらしく、不快感が積もっていくだけだ。
 あれから、一宮さんはあたしの前に現れなくなった。芳香たちは変わらず飛鳥ちゃんに現況を聞きに部活へ顔を出しているみたいだけれど、あたしはあの日以来行っていなかった。藤崎君とも都合が合わなくて、というか噂によると進路のことで個人指導を受けているようで、一人で帰る日が続いていた。
 知らず溜め息が漏れる。そろそろ、動いた方がいいのだろうけれど、どうしていいかが分からない。
 一宮さんと何があったのか、ちゃんと聞かなくちゃ。
 聞かなくちゃ――。
 ……聞いても、良いんだよね。
 それよりも、答えてくれなかったらどうしよう? 考えたことも無かったけれど。秘密にされたらあたしは、どうしたらいいんだろう。
 そこまで考えて、いやいやと頭を振る。そんなこと、きっと無い。あったとしても、それはきっと、理由があるからで。
 例え理由があっても秘密にしてほしくは無いけれど。ううん。全ては聞いてからだ。それを間違ってはいけない。
 よし。
 あたしは意を決して立ち上がった。
「え、椿? どうしたの?」
 急に立ち上がった彩芽が驚いたようにあたしを見上げる。
「ちょっと行ってくる」
「トイレ?」
「うん!」
「はっ?」
 あたしは拳を握り締めて教室を出て行く。後ろで彩芽が驚いた声を出していたけれど、それに構っていられる余裕は正直言って持ち合わせられるほど残っていなかった。あたしは心臓を高鳴らせながら職員室の前で立ち止まる。
 数人の先生や生徒に見られながらも、十数分、あたしは壁にもたれながら藤崎君が出てくるのを待った。その間彩芽に見つかって少し話してから、また一人で待つ。休み時間の長さをこれほど実感した瞬間はないだろう。何度も呼吸を整え、ドアが開く音がするたびに背筋を伸ばした。
「失礼しました」
 それから藤崎君が出てきたのは、休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴るほんの5分前だった。
「あら、椿ちゃん?」
 あたしが声を掛けるよりも先に、彼があたしを見つけてくれたことにほっとしつつ、けれど鼓動は早くなるばかりで、あたしは緊張しながら藤崎君の傍に寄っていった。
「あの、ちょっといいかな」
「うん?」
 人が行き交うのを気にしながら、当たり障りの無い表現を考える。間違っても一宮さんと何かあったかなんて直接的なことは、ここでは言えないような気がした。
「あ、その……、藤崎君は、K大に、行くんだよね」
「あぁ。まぁ一応は、受けるけど」
 その言い方にあたしは首を傾げた。
「国公立も挑戦してみようかなと思ってるの。受験もタダじゃないからそんなにはできないけど、受けられるところは多い方が良いかなと思って」
「そっか。が、がんばってね」
「うん、ありがと」
 にっこりと笑う藤崎君に、あたしも反射的に微笑み返していた。違うの。聞きたいことはそれじゃないでしょ、と笑っている自分に叱咤する。
「それとね、あの、2年生の子のことなんだけど」
 言いかけて、タイミングを計ったようにチャイムが鳴り響いた。見事に遮られたあたしの言葉は上手く伝わっていなかったらしく、藤崎君は「もう戻らないとね」と教室へ向かうように促した。あたしは仕方なく頷く。
「あ、そうだ」
 不意に振り返った藤崎君があたしに向かってそっと囁いた。
「今日は一緒に帰りましょ」
 それだけであたしは嬉しくなる。
「う、うん!」
 思わず即答したあたしを見て、藤崎君も優しく微笑んでくれる。ああ、あたしはこんなにも好きなのかもしれない。そう思う瞬間だった。

 進路資料室へ寄って、幾つかの大学のパンフレットを鞄の中に入れる。そんな彼の手元を横目に見ながら、どこの大学の資料を取ったのかさり気なく確認する。それはどれもよく聞く名前の有名大学ばかりで、あたしは内心の驚きを隠せないでいた。
 それから二人揃って廊下を歩く。ロッカーのある玄関口まで来ると、数日振りの一宮さんの姿を見ることになった。彼女は藤崎君が来るのを待っていたらしい。けれどこの前と違うのは、彼女の表情は嬉しさを満面に出しているものではなくて、藤崎君自身はそのことに少し困った表情をした。その様子を見て、あたしは一時の優越感を得た。嬉しそうな彼を見なくて良かった、と心の底から安堵する。
「もう話はしたでしょう?」
 二人の間にどんな会話がされていたとか、あたしに分かるはずもないけれど、藤崎君の言い草からして、一宮さんから一方的なものだということだけは察しがついた。
「でも私、納得できません。どうしてヤマト先輩の隣がその人なんですか?」
 真っ直ぐと藤崎君を見る一宮さんの視線は真剣そのもので、あたしはその気迫に思わず一歩下がりそうになった。唯一とどまることが出来たのは、あたしの腕をしっかりと握っている彼の手があったからだ。
「だからそれは――」
「私なのに! 私の方が先に会ってたのに!」
 藤崎君の言葉を遮るように一宮さんが叫んだ。その声に一瞬周りの生徒も何事かと振り向く。居た堪れなくなったあたしが藤崎君を見上げると、その視線に気づいた彼もあたしと一宮さんを交互に見て軽く舌打ちした。
「とりあえず場所を移そう。椿ちゃん、来て。あなたもよ」
 藤崎君はあたしの腕を掴んだまま降りてきた階段を上る。あたしが後ろを確かめると、表情を固くした一宮さんはちゃんと着いて来ていた。
 放課後は割りとどこの教室も空いている。藤崎君が入ったのはあたしたちのクラスの隣の教室で、3年の選択授業で使われるだけの空き教室だった。教室の真ん中辺りの席で立ち止まり、一宮さんがドアを閉めると、彼は彼女と向き合うように体を回転させた。つられてあたしも彼の隣に立ち、一宮さんと向き合う形になる。
「それで、最初に会ったからアタシがあなたを選ぶ理由なんて、いったいどこにあるのかしら?」
 まるで感情が無いみたいに冷ややかな声音で言葉を紡ぐ彼は、あたしの全然知らない藤崎君だった。一宮さんは顔を強張らせたまま、瞳を潤ませる。
「アタシは椿ちゃんがいいの。何度も言ったわよね?」
「だって。でも、……どうして、その人なんですか? 私を好きだったんじゃないんですかっ?」
 ドクッとあたしの心臓が激しく打った。ズキッと胸が痛む。頭も痛くなった。
 あたしと会う前に一宮さんと会ってた? それで藤崎君は彼女が好きだったって?
 泣き出しそうな彼女の様子を見つめながら、あたしの目頭も熱くなってきた。数度瞬きをすれば簡単に涙は落ちそうだった。
「アタシが好きなのは椿ちゃんだけよ」
 静かに言葉を返す藤崎君の声がやけに冷たく感じた。でも腕から伝わる彼の手の感触は、あたしに暖かさをくれている気がした。たぶん彼に触れられているあたしの腕が熱くなっているだけなのだろうけれど。
「それだけじゃ納得できないです!」
 負けじと一宮さんは彼を見つめる。
「いい加減にしないとキレるわよ」
 何も変わらない口調。
 きっとそこにある意味を理解したのはあたしだけで。
 だけど彼の口調に、雰囲気に、一宮さんも何らか感じるものがあったのだと思う。すっと顔色が変わったのが分かった。
 今にも泣き出しそうな彼女はぐっと口を結んで、藤崎君だけを見つめて。あたしはこんな場面になって彼女を綺麗だと思った。一宮さんの瞳が濡れているのはこの教室に入ってきてからで、それでも声を震わすことも無く、ちゃんと前を見て立っている。その姿が強さを表しているように思えた。あたしよりも一つ年下なのに、あたしよりもずっと強く自分を持っている人なのだと。
「椿ちゃんの良いところはアタシだけが知っていればいいの」
 一宮さんはそれだけを聞いて教室から出て行った。
 しばらく沈黙が続く。彼女が開けていったドアを見つめ、彼を見上げる。
 視線が合って、最初に口を開いたのはあたしだった。
「……一宮さんの言ってたことって、本当なの?」
 彼女を見習ってあたしも真っ直ぐに彼を見上げた。それでも長くは見つめていられなくて、俯きがちになる。それでも、上目遣いになりながらも、逸らさないようにだけ頑張る。
 ふっと藤崎君は困ったように微笑む。
「反則だわ、そのカオで聞くのは」
 そうしてあたしの腕を掴んでいる反対の手でそっとあたしの頬を撫でて。
 あたしには自分がどんな表情をしているのかは分からないけれど。困らせてしまっていることは確かで、それでもどんなカオをすればいいかなんて知らなくて、ただ藤崎君の視線を受け止めていた。
 だんだんと近づいてくる距離にあたしはどうすることもできない。
 そっと触れ合う唇は、まだ答えを聞かせてくれなかった。