Je t'aime

49


 日が傾き始める放課後。あたしと彼しか居ない教室。それだけであたしは心臓が壊れるほど緊張してしまうというのに。
 涙を溜めて教室から一宮さんが出て行った後、藤崎君はゆっくりと味わうように、あたしに口付けた。あたしはされるがままになり、彼があたしの体を支えているおかげで立っていられるような状態だった。これはこれでとてつもなく恥ずかしいことである。
 息を吸うたびに、甘い吐息が混じる。僅かに目を開けると、優しい笑みを浮かべる藤崎君と視線が絡まった。呆ける頭で、この状況に至るまでの過程を必死で思い出し、あたしはようやく彼から離れることが出来た。
「ふ、藤崎君……!」
 こんなことをしてる場合じゃないでしょ、とあたしが見上げれば、彼は少し不機嫌な顔を見せた。
「違うでしょ。二人のときは名前で呼ぶって、椿ちゃんが言ったのよ?」
 ああ、今はそんなことで揉めている場合でもなくてっ。というか慣れないんだから少しくらい見逃してくれたっていいと思う。
 けれど自分で言い出したのだと指摘されれば言い返すことは出来ないので、あたしはそんな藤崎君を軽く睨みつつ、小さな声で「……大和君」と言い直す。
「――質問に、答えて」
 彼の名前を呼ぶ事に未だ高鳴る鼓動を耳の後ろで感じながら、あたしはもう一度真っ直ぐと藤崎君を見上げた。
 一宮さんの言っていたことは本当なの? あたしと出会う前――転校してくる前に一宮さんと出会っていて、彼女のことが好きだったというのは、全て本当のことなの?
 緊張しつつ彼の答えを待っていれば、はぁ、と当の藤崎君は盛大な溜め息を吐いた。軽く髪をかき上げ、呆れたように視線を流し、またあたしの方へ向き直る。
「本当に、自分で自分が情けないけど」
 そうしてぎゅっとあたしを抱きしめ、彼はあたしの頭の上に自分の顎を乗せた。
「アタシが椿ちゃんだと思ってた駅で会った子。あれがさっきの一宮って子だったらしいのよね」
 それはあたしをパニックにさせるには充分すぎる真実だった。
 藤崎君が一目惚れしたという、転校前に偶然会った女の子。彼はそれがあたしだと思っていたらしく、けれどそれが誤解だったと知ってもあたしを受け入れてくれて、今のこの関係があるのだ。
 だけどずっと怖かった。いつか本物の子が現れて、あたしへの気持ちが“違う”と気づいたとき、あたしは絶対平気ではいられないから。だから一度あたしは彼を拒絶した。受け入れてくれた今でも、もし目の前に現れたらと考えるだけで、ずっと怖かった。
 それが今、現実として起こっているのだ。怖くて怖くて、だけど抱きしめられているのに抱きしめ返すことはできなくて、ずっと彼の制服の袖を掴んでいた。
 それで。さっき藤崎君は、何て言っていたっけ……?
「本当、情けないったら。どうして彼女と椿ちゃんを間違えてたのかしら。全然似ていないのに」
 一宮さんは可愛いけど、ただそれだけじゃなくてずっとしっかりした、芯の強い女の子だった。最初はいきなり何てことを言うんだろうと思っていたけれど、最後までずっと力強い心を持っていて、魅力的な女の子だった。あたしとは全然違う、綺麗な人だ。
「さっきも言ったけど、アタシには椿ちゃんだけ居てくれればいいの。それだけを信じて」
 どうして?
 そっと体を離されて、あたしはその真意を確かめるように藤崎君を見上げる。
 どうして、そこまで言ってくれるの? あたしにはそこまで言ってくれるようなものは何もないのに。
 外見が可愛いわけでも美人なわけでもなくて、精神的に強いわけでもない。自慢できるような、誇れるような大した物は何も持っていない。一人じゃ何も出来ない弱い人間なのに。
 ……そして、そうしたこともなかなか聞けない、臆病な人間なのだ。
「椿ちゃん?」
 困ったように微笑む。そんな顔をさせてばかりの自分に、あたしは涙を我慢できなかった。
 視線を逸らして俯く。瞬きをするたびに雫がぽろぽろと頬を伝って落ちる。藤崎君がぎょっとするのを気配で感じた。
「ごめ、ごめん……。あたし……。どうして……」
「泣かないで、椿ちゃん」
 俯くあたしの頬をそっと指で撫でて涙を拭ってくれる。その優しさにまたあたしの胸は締め付けられた。
「――かないで」
 あたしの頭はきっと動揺しすぎておかしくなっていたんだ。思わず漏れた本音に、あたしはどうしようもなくなる。
「え?」
 聞こえなかったのか、藤崎君は顔を、耳を近づけて何? と聞き返す。
「行かないで……」
 そしてはっと息を飲み込んだ。
「……ごめんね、椿ちゃん」
 この時の泣きそうな藤崎君の表情を、あたしは忘れないだろう。
 分かっていたのに。本当はとっくに分かっていたのだ。
 だけど、言わせてしまった。
「ごめん」
 それはもう、きっと近い未来のこと。



 そろそろ吐く息が白く見える季節になる。既にあたしの受験は終わって、結果も出ていた。あとはセンター試験利用組みと一般入試組が年越しを目指してスパートをかけるくらいで、受験シーズンは大詰めを迎えようとしている。
「椿ぃ! 今年はどうする?」
「ん、何が?」
 彩芽が嬉々として問いかけるので、何事かとあたしが尋ねれば、彩芽は信じられないとでも言いたげにあたしを見た。
「何って、この時期でどうするかって言ったらクリスマスしかないじゃん」
「ああ、そっか」
「そっかって、ねえ、ヤマト君とそういう話題はしないわけ?」
 呆れたように溜め息を吐く彩芽に、あたしは苦笑を浮かべるしかない。はっきり言ってそういう話題は出なかった。――なんて言った後の彩芽の反応は分かりきっているので言わないけれど。
「だってほら、藤崎君、今それどころじゃないし」
 公募推薦で彩芽も既に進路は決まっていた。だから思い出したかのように頷く。
「そっか、K大だっけ? そういえばヨッシーも大変そうだったわ」
 芳香も最近は見ていないなぁ。センター試験も近いし、色々と追い込みの時期なのだろう。
「でもクリスマスの一日くらいは、せめて恋人らしいことをするべきだと思うのよね」
「彩芽はそういう予定があるの?」
 ふと疑問に思って聞いてみると、彩芽は途端に面白くなさそうな顔をして睨んできた。
「あったら真っ先に自慢してやるわよ」
 彩芽の性格からしてそうだろうなと思う。そういう日がいつか来るのだろうかと、少し楽しくなった。きっとあたしはその自慢話を嫌々聞かされるんだろう。
「とりあえず椿はヤマト君に聞いてみて。断られたら今年もわたしとデートだからね」
「うん、分かった」
 どっちにしてもあたしにとっては楽しい日になるのかと嬉しくなる。彩芽と友達で良かったと心から思う瞬間の一つだ。
「ふふふ。椿には悪いけど、わたしの念でヤマト君には勉強を取ってもらうわ」
「……彩芽」
 念というより、すでに呪いがかっている気がしなくもないんですけど。

 というわけで。終業式も過ぎた25日。あたしは駅の改札前に立っていた。
 今日は待ちに待ったデートである。
「あれ、椿さん?」
 約束の時間よりだいぶ前に着いてしまっていたあたしは、不意に声を掛けられて驚く。
「え、わ、香苗さん!」
 ふと見ると嬉しそうに手を振る香苗さんと、その後ろにあたしと同じように驚いた表情の棚口の姿があった。棚口とも何だかすごく久しぶりな気がする。
「と、棚口も。どうしたの?」
「僕はついでかよ」
「付き合いの長さはお兄ちゃんのが上かもしれないけど、深さが違うもの」
 ねー、と笑う香苗さんが、なんだか妹のように可愛らしくて、あたしも同じになって笑う。棚口がいない時はむしろ年を感じさせないくらいしっかりした美人さんなだけに、その差が新鮮な気がした。
 それよりも二人は本当に兄妹だろうかと思うときがある。棚口は眼鏡を掛けていても外していても別段どうってことのない顔立ちをしているのに、妹の香苗さんは後ろ姿でも美人だと分かるほどの容姿をしているのだ。何せ1学期は謎の美少女として藤崎君と噂にもなったくらいだし。
「お兄ちゃんとは買い物にね。クリスマスケーキを奢ってくれるっていうから」
「仲良いよね。棚口にはもったいない」
「あのさ、榎本もそうだけど、文芸部の3年は僕に対して冷たくないか?」
「気のせいじゃない?」
 なおも不満そうな棚口を放って、そういえばと香苗さんは言った。
「椿さんこそ待ち合わせですか?」
「うん、そう。今日は」
 言いかけて、突然伸びてきた腕に後ろから抱きしめられた。目の前の二人はポカンと驚いていて、それからしょうがないかと諦めのような苦笑に変わる。
 なんだか前にもあったような――?
「アタシとデートなのよ。悪いわね」
 それは藤崎君の声で。あたし自身も苦笑するしかなく。
「いや、お構いなく。行くぞ、香苗」
「あ、うん。じゃあまたね。椿さん、藤崎君」
 足早に去っていく二人を見て、あたしは思わず溜め息が漏れる。うん、確かに、同じようなことが前にあった気がする。
「ん、どうしたの、椿ちゃん?」
 あたしの溜め息の意味に気づいていない藤崎君が不思議そうに顔を覗いてくる。あたしは何でもない、と首を横に振って、何気なく腕から抜け出した。
「あの、今日はありがとう。勉強で忙しいのに」
 すると藤崎君はおかしそうに笑う。
「そんなの当たり前じゃない。アタシだって一人よりは椿ちゃんと過ごしたいもの。こんな神聖な日には」
 そして今度は正面からあたしの体を包み込んだ。その場所は暖かくて気持ちよくて、心地良い。
 だからつい忘れがちなんだけれど。
「ちょっ、藤崎君!」
 ここは公衆の場なんです! 恥ずかしいんだってば!
「椿ちゃん……、名前……」
「な、なまえ?」
 こんな時に何だ?
 キョトンとしていると、さらに力を込めて抱きしめられる。
 うぎゃー!?
「名前で呼んでくれるまで離しません」
「……っ!」
 前にもこんなことがあったような気がする。絶対。
 空気は10度以下のこの季節に、あたしは逆上せそうになった。