Cette Place

14


 途切れないコール音に大和は軽く舌打ちをした。無機質な機械音に苛立ちだけが募っていく。
「やーまとっ。何やってんだよ。もうすぐバス来るからお前もこっちで待ってろよ!」
 大和が携帯電話のボタンを押すのと尚志が後ろから大和の首に腕を絡ませたのはほぼ同時だった。大和は思わず「うっ」と低く唸り声を上げた。
「分かったから、腕放せ。苦しい」
 大和が彼の腕を叩くとすんなりと尚志はその腕を放した。息苦しさから開放されて深く呼吸をする。鳴る筈もないケイタイを見つめていた大和だが、急かす尚志に振り向くと下ろしていたバッグを持ち上げ、ケイタイを閉じた。もう夜も遅い。今夜も諦めるか。大和は自分に言い聞かせるように呟いた。椿と連絡が取れなくなってから既に1週間が経っていた。
 東原登が会長を務める地球環境研究会の夏季合宿は、ゴールデンウィークの真ん中の3日間に渡って行われる。ちなみに夏休みに行われる合宿が秋季合宿で、冬休みは正月を挟むので帰省する学生も多いため行われず、春休みに行われるのが春季合宿だ。そして今回の宿泊地は内陸にある、避暑地として有名な場所だった。まだメインシーズンではないものの、まとまった休みを田舎で長閑に過ごそうという人は多いのだろう。目的地行きの夜行バスを待つ停留所は、特に金のない大和たち程の若者で賑わいを見せていた。
「それにしても東原センパイ、すごい荷物っすね」
 一人だけ一回り以上の大きさになったバッグを下ろしている東原に、尚志が言った。東原は特に気にするふうでもなく黒縁眼鏡を中指で押し上げ、まあな、と答える。
「だいたい合宿の時はいつもこれくらいだ」
「うへえ。いつも? 何入ってるんすか」
 尚志が素っ頓狂な声を上げる。それからもう一度まじまじと東原のバッグに目をやった。凸凹と歪な形をした彼のバッグは旅行カバンとは思えないほど尖ったものが所々でビニールを押し上げていた。大和はその形からバッグの端に詰められているものがこの間買ったヤカンだと分かった。
「東原君が皆の分の道具も全部持ってくれてるからね」
 尚志の問いに答えたのは望だった。そういえばレシートを渡した時に、買ったものは全て東原へ渡すようにと指示したのも望みだった。あれだけの量の雑貨と自分の荷物を一つにまとめているのだから、当然一人だけ荷物が多くなるのも頷ける。
「どうして分担しないんですか?」
 麻耶が首をかしげて聞いた。
「東原君、エムやねん」
「バカ、違う!」
 二人のやり取りに周りがどっと笑う。どうも望は東原をからかうのが楽しいらしく、こういった漫才じみたやり取りも珍しいものではなかった。
「分担してしまうと誰かしら忘れ物をし兼ねないからな。自分で確認した方が確実だ」
 もう一度中指で眼鏡を押し上げながら東原が取り直したように答えた。それは誰も信用していないということを含んでいるようにも聞こえるが、望を始めとした1年以外の部員はそれで納得しているように頷いた。
「うちらが2年の時、タオル忘れた人がいて、そりゃもう苦労したんよ。それからは全部東原君に任せることになってんねん」
 望が得意げに言えば、くすりと東原が口の端を持ち上げて笑った。
「あー、それって日高センパイのことっすか! そりゃ東原センパイに任せますよね」
 納得したように尚志が頷けば、ムッと大きな目を吊り上げて望が彼を見上げた。
「なにおう、センパイに向かって生意気な!」
 望が尚志の首を目掛けて飛び掛ろうとするところを、寸でのところで東原が止めた。ちょうどライトをこちらに向けてバスがやって来たのである。
 バッグを持ち上げてバスへ乗り込んでいく。座席は指定されているのでそれほどの混雑も見せなかった。窓際の大和の横に尚志、その後ろに麻耶と良子が座る。東原は通路を挟んだ斜め前に座り、望はその二つ後ろ――良子と通路を隔てた隣の座席だ。
「俺、夜行バスって初めて」
 座るなり尚志が言って、そわそわと何度も座り位置を確認する。大和は頬杖を突きながらクスリと笑った。大和も初めてだった。
「だからそんなにテンション高いんだ」
 大和が言えば、悪いかよ、と怒るふうでもなく尚志が答える。そこへ後ろから望が声を掛けた。
「はしゃぐのはええけど、今のうちに寝ときよ。寝心地は最悪やけど、明日は体力要るから」
「はぁい」
 尚志は礼儀良く返事をし、ごそごそと腰を落ち着かせる。確かに寝心地は悪そうだ。固いシートと狭い空間で体がきつい。
「坂ちゃん、椅子倒してもいい?」
「うん、いいよ」
「サンキュ」
「ヤマトくんは大丈夫?」
 麻耶が気遣うように前の席に座る大和に声を掛ける。大和は振り向きもせずに「大丈夫」と返事をする。
 そうしているうちに静かにバスが走り出した。明りのない風景が動き出し、大和はそれをただじっと見つめる。考えることはバスが走り出す前と変わらず、椿のことだった。いくら何でも1週間以上も連絡が取れないのはおかしい。電話もメールも何度かしたが、どれも返事は得られなかった。明らかに避けられているのは分かるが。それとも着信拒否にされていないだけマシなのだろうか。
 目を閉じれば広がるのは暗闇ばかりで、けれど目を開けても窓越しに映るのは陽の光を失った世界だけだった。どうしたの、椿ちゃん――。傍にいないことがこれほどもどかしいことを、知っていたようで初めて気づかされたように思えた。

 いつの間にか眠っていたらしく、大和が眩しさに目を開ければ、既にそこは知らない場所だった。
「おはよう、ヤマトくん」
 不意に麻耶が声を掛けてきた。いつから起きていたのか、その声は寝起きのようなくぐもったものではなく、静かにはっきりと響いた。
「おはよ。あまり寝てないんじゃない?」
 望が今日は体力が要ると尚志に言っていたことを思い出しながら、大和はそっと振り返った。彼女も大和と同じように頬杖をついたままだったらしく、目が合うと小首を傾げたまま「大丈夫よ」と微笑んだ。
「つらくなったら言うから」
 麻耶は何でもないというように言い、大和もそれ以上は口を開かなかった。

 バスから降りると、さらに市営バスに乗って中心街から離れていく。どれくらいだったのかはっきりしないまま長時間バスに揺られ、大きな荷物を抱えてたどり着いた場所は、まさに田舎と表現するに相応しいと言える風景の中だった。見渡す限り田と山しかなく、民家らしい民家はぽつぽつと思い出したようにあるだけだった。
「ここから少し歩くけど、つらい人は居ない?」
 東原と共に先にバスから降りた横田が声を掛けていく。彼は望や東原と同じ3年で、地球環境研究会の副会長である。
「先輩、麻耶が……」
 良子が心配そうに一緒に降りてきた彼女へ視線をやった。横田も同じように目を向ければ、麻耶の顔がやや青ざめているのが分かった。東原も一緒に彼女の方へ近づいていく。
「少し酔ったか。大丈夫か?」
 覗きこむようにして横田が尋ねる。麻耶は弱弱しく首を縦に振った。誰から見てもそれは気を遣ったものだということが分かる。横内は困ったようにそっと息を吐き出す。
「麻耶、俺、荷物持つから」
 ふと尚志がひょいと彼女のバッグを持ち上げた。驚く麻耶に尚志は安心させるように二カッと微笑みかけた。
「あんまり寝れなかったんだろ? 無理するなって。確かにありゃ寝心地最悪だったしさ」
「……ありがとう」
「いや、いいよ。ってことでセンパイ、麻耶は俺たちで見てるんで、行きましょう!」
 尚志がそう言うと、横内は東原を伺う。東原は腕時計で時間を確認すると、それもそうだな、と誰よりも大きくなったバッグを持ち直した。
「時間もあまりないし、行くか。坪井はゆっくりでいいからな。気持ち悪いようだったら遠慮なく言え。いいな?」
「あ、はい……すみません」
 戸惑いながらも頭を下げる麻耶に、東原はただ首を横に振っただけで、緩やかな山道を歩き出した。他の部員もそれに続いていき、自然と麻耶たちは最後尾になる。
「にしても、あの荷物を軽々と持って先頭歩くんだもんな。東原センパイってすげー」
 ひょろ長いだけの体格である彼は意外と筋肉もあるのだろう。そんな会長を尚志はただ感心したように呟いた。大和も良子も、確かに、とその背中を見つめながら頷いた。
 彼らが歩くのは山道と言ってもきちんと舗装された道路で、歩き難いというほどではなかった。それが救いだったろうか。青ざめた麻耶も逸れない程度には歩けるようだった。大和はそのことにほっと安堵しつつも、心はやはり椿のことが離れない。
 どうして彼女は自分を避けるのだろう。近くに居ない分、こうすることでしか相手の言葉を、存在を、確かめることは出来ないのに。大和はそっとポケットからケイタイを取り出してみる。三本立っている電波のマークが気分をいっそう複雑にさせた。こんな山の中でさえ声だけでも繋げる手段を持っているというのに。
 自然に彼の手はメールを打っていた。内容は今までとあまり変わらないものだったけれど、それでも伝えなければと思う。
「……ヤマトくん」
 突然、冷たい感触がケイタイを持つ手とは逆の手に当たる。驚いてその正体に目をやれば、つらそうに俯く麻耶の右手だった。するりと柔らかな肌が、彼の空いた掌を包み込む。
「……坪井?」
 彼女は体調が悪いということを感じ、無下に振り払うことも出来ずにいた大和だが。
「ごめん――でも、少しだけ……」
 俯いている麻耶の表情は見えない。震える声だけ、伝わる低い体温だけが、彼女の体調を訴えている。
「……ごめん」
 大和は送信したケイタイの画面を見つめながら、そっと麻耶の手を離した。

『会いたい』
 ただ伝えたいだけの言葉は、どうしてこんなにも虚しく感じるのだろう。