Cette Place

15


 山道を登っていくとようやく道が開けてきた。そこから見えたのは小さなホテルだ。白い外観がなかなか森林に溶け込んでいて、どこかの別荘と言ってもおかしくはない。4階程しか高さはないが、広い敷地をふんだんに使ったように横に長く、近くには2面ほどのテニスコートもあるようだった。
「荷物を置いたらレストランで集合だ。そこに先生もいるはずだから」
 東原の指示で、まずは各自部屋に向かう。部屋割りは既に決まっており、3人のうち1人が代表してフロントから鍵を預かってきた東原から受け取っていく。大和は尚志ともう1人の1年生、生涯福祉学部の松本という男と同じ部屋に泊まることになっていた。
「おー、意外に綺麗な部屋じゃん」
 鍵を開けた松本が感心したように部屋に入るなり呟く。しがない学生の資金だけで運営しているサークルの合宿先にしては、なかなか上等な部屋だといえた。さすがに広さはそれほどないが、ダブルベッドにソファにテーブルと収まるものは余裕のゆとりを持って収められる程度にはあったし、外観と同じく白に統一されたそれぞれの家具のデザインも好感の持てるものだった。嬉しいことにはしっかりとユニットバスが部屋内にあったことだ。
「つうか俺、顧問の先生の存在まったくの初耳だったんだけど」
 荷物を置きながら笑うように尚志が言った。そういえばと大和も記憶を辿れば、顔どころかどこの学部の教授が顧問かも知らないことに気づいた。
「一応同好会だけど顧問の先生はフツウにいるだろ。確か僕のとこの学部だったと思うよ」
 松本は既に部屋を出る準備が整ったらしく、ドアのところで背中を壁に持たれかけるように立ったまま答えた。ということは名も知らない我がサークルの顧問は生涯福祉学部の教授らしい。地球環境研究会という名にこれ以上ないくらいに似合った肩書きだなと思う。
 レストランは宿泊部屋がある棟から渡り廊下を進んだ先の建物の中にあった。1階にはレストランのほかに喫茶店や土産物売り場なども設けられている。案内板を見ると、2階から上は宴会場やパーティールームという表記がある。どちらも同じ意味合いに思えるが、おそらく和室か洋室の違いを言っているのだろうと結論付けることにした。
「揃ったか?」
 食事を始める前にレストランの前で一度集合し、東原が点呼を取る。彼の隣には初老の男が立っていた。白髪が目立ち始めた年のその男が顧問なのだろうと尚志と共に視線で確認し合う。顔の大きさに似合わないほど大きな眼鏡を掛けた顧問はただ黙って東原の言葉に頷くだけで、特に発言することもないまま、点呼が終わると後は任せたと東原に断って先にレストランへと入っていった。
「なんか、俺が今まで顧問の存在に気づかなかった理由が分かった気がする」
 ぼそっと尚志が呟く。え、と大和が振り向けば、尚志は脱力したような表情で視線を大和に向けた。
「だってありゃ、どう見てもやる気ないだろ」
「……確かに」
 大和も顧問の態度を思い出してくすりと笑う。挨拶はおろか注意事項さえも東原に任せているあたり、やる気の欠片も見当たらない。
「まず今日の予定だが、昼食のあとは特にない。長旅で疲れているだろうから今日のうちに休んでおくこと。土産があれば買うなら今日だぞ。明後日にホテルを出るが土産を買う時間は入れていないからな。それから夕食は6時にここに集合。風呂は部屋で済ませてもいいし、大浴場に行っても構わない。ただし就寝が10時だから、それまでに済ませておくこと。点呼しに部屋を回るから勝手な行動はするなよ。明日は6時に起床して、30分に玄関前に集合。明日以降の予定はそこで言うから。以上。質問は?」
 東原が一気に言い終える。誰も何も言わなかったので、そのまま昼食、そして解散することになった。
 大和が尚志とともにレストランへ入ろうとすると、後から麻耶と良子もやってきて、4人で同じテーブルに着く。基本的にここのレストランはバイキング形式らしく、中央に何品もの料理が並べられており、それらをぐるりと一周するように人が並んでいる。
「ヤマトくんは何食べる?」
 後ろに並ぶ麻耶がトレイを片手に聞いてきたので、大和は振り返りもせずに料理を眺めた。
「んー、見ながら決めていこうかな」
「じゃあさ、少しずつとって一緒に食べていこうよ」
 楽しそうに話す彼女に、大和は思わずくすっと笑った。
「女の子ってそういうの好きだよね」
「だめ?」
「ううん、いいよ。半分ずつね」
 大和も男だから量からすれば足りないかもしれないが、それはまたお代わりでもすればいいだけの話だ。大和はにっこりと笑って答えた。そしてふと、椿もバイキングに来たらこんなふうに自分を誘ってくれるだろうかと考え、それはないかもしれないと思う。一生懸命に迷って選んだものを一生懸命美味しそうに食べるのだろう。そんな姿が想像できて、自然に表情が緩む。いつだって見るものはすべて椿に繋がってしまう自分に呆れながらも、緩む口元は隠せなかった。
――あのメールは届いているだろうか。
「なあ、お前らこの後どうする? 今日はもう飯食って終わりだろ。土産でも買うの?」
 更に山のように料理を盛って来た尚志が、箸を突くなり良子たちに聞いてきた。彼女たちはお互い顔を見合わせてから、困ったようにどうしようかと首を傾げあう。
「まぁ時間もあるし、そうしようかな。尚志とヤマトくんは?」
「僕もお土産買おうかな」
 椿を思い浮かべながら大和が答える。
「それよりさ、ちょっとこの辺り散策しねえ? まあ山しかないけど、どうせ夕方まで土産選ぶわけじゃないし」
 尚志の言うことにそれも面白そうだと3人は頷いた。ただ少し散歩するだけでも気持ち良いと思える。特に麻耶はそう感じていた。
 確かにバスに酔った直後の山登りは、いくら緩やかな道が続いていてもつらかったけれど、この土地の新鮮な空気と緑豊かな景色を眺めるだけでも、気分は落ち着いてきたからだ。ホテルに着く頃にはすっかり足取りも軽くなっていた。
「たまには尚志も良いこと言うじゃん」
 麻耶が笑って言うと、心外だとばかりに尚志がむくれて見せた。
「たまにはって何だよ」
 そうして、特に土産物を買う予定のない尚志を置いて3人で過ごしてから、改めて4人でホテルの周りを歩こうということになった。

 メールの返信はなかった。買ったものを置きに部屋へ戻った大和は落胆しながらも、もう一度同じような文面を作り、椿へ送信する。ただ読んでくれさえすればいい。自分の気持ちを知っていてくれればいい。そう思うことにした。初めて会ったときから好きだったのだ。椿も自分を好きだと言ってくれたことが嬉しくて、最近は欲張りすぎていたのかもしれない。――そう思わないと、自分を保てそうになかった。
「どうかした?」
 突然声を掛けられ、一人の世界に浸っていた大和は驚いて振り向いた。そこにはドアから部屋の中を覗く麻耶がいた。このホテルはしっかりした外観の割には築年数はかなり経っているらしく、今や当たり前のように設備されているオートロック式ではなかった。
「びっくりした。坪井こそどうしたの?」
 携帯電話を閉じ、立ち上がった大和は彼女の方へ向き直る。麻耶はおずおずと部屋の中へ入り、手を後ろに回してドアを閉めた。
「ん、待ってたけど遅かったから様子を見に」
「ごめん、そんなに時間かかってた?」
 メールを送信したのは部屋へ戻ってからすぐのことだったが、思いを巡らせていた時間が長すぎたのかもしれない。大和が慌てて部屋を出ようと彼女の後ろのドアへ手を伸ばす。
 それを止めたのは麻耶の右手だった。急に動きを止められ、勢いの余った体を止めようともう片方の腕を伸ばし壁に手をつければ、自然とドアの前に立つ麻耶を両腕で挟む格好になる。
「……坪井? 離してくれないと、出れないんだけど?」
 できるだけやんわりと注意を促す。しかし麻耶は掴んだ手を放す気配も見せずに、ただじっと大和を見上げていた。
 この状況は、やばい。大和の脳が瞬時に判断を下す。誰かがこのドアを外から開けてくれさえすればいいのだが、それもあまり期待できそうにない。こういう時に限って他人の行動は己の願いに反するものだ。
「ごめん。嘘」
 そっと俯いて、視線をはずして、麻耶が呟く。
「え、何が?」
「本当は良子が先輩に捕まったから来ただけ」
「ああ、そう……」
 だからといってこの状況が改善されるわけでもない。大和は困って、けれど男である自分が彼女を力ずくで突き放すのも躊躇われて、ただ俯く彼女の腕を見つめるしかない。これが男なら遠慮なく腕を振り上げられるのに、と情けなく思う。ふざけるな、の一言で済むのに。
「ねえ、どうしても彼女じゃなきゃ、だめなの?」
「え?」
 驚いて、喉に言葉を詰まらせたような声で聞き返す。
 急に何を――何を、言っているのだろう。
「ただでさえ遠距離なのに簡単に電話もメールも無視するような彼女、本当にヤマトくんのこと好きなのかな」
 ぐっと大和の腕を掴む彼女の手に力が込められる。
 見上げる目は真っ直ぐに大和の瞳を捉える。
「あたしの方が絶対ヤマトくんのこと大切にできるし、好きだと思う」
「は……?」
 大和は自分の表情が険しくなるのが分かった。本当に、何を言っているのだ。どうしてそんなことが言えるのか。
「彼女、傍に居ないヤマトくんより傍にいる人の方を選んだんじゃない? だから簡単にヤマトくんからの電話も無視できるんじゃないの?」
 麻耶の背中に冷たい汗が流れる。酷いことを言っているのは自分なのに、鋭く細められた視線を受けるのは、想像以上に怖かった。
「何言ってんの。それ以上言ったら怒るよ」
 聞いたことのないほど低い声で囁かれるように脅される。けれど麻耶は口元を引きつらせ、それでも笑顔を作った。覚悟を決めたのだ、と自分に言い聞かす。大和に好きだと告げてから、覚悟してと布告してから、麻耶はもう彼に友人として接するのをやめた。だからここで簡単には引き下がれない。
 ほんの一瞬だけ、勇気を振り絞り、麻耶は片手を掴んだまま背を伸ばした。
 暖かな感触を確かめたのも束の間で、次の瞬間ガツン、と思い切り後頭部に衝撃が走る。
 反射的に閉じた目を開ければ先ほどよりも幾分も厳しい表情の大和が見下ろしていた。
「――いい加減にしろよ」
 地の底から響くような声音にゾクリと体を震わせた。……完全に怒らせてしまった。そんな絶望感にも似た恐怖が麻耶を襲い、彼女の体は崩れ落ちるように床に座り込んだ。
 大和は先ほど触れた唇を袖で拭うと、麻耶をそのままにして部屋から出て行った。男とか女とか、そんなことはどうだって良かったのだ。大和は後悔と自己嫌悪を抱きながらドアを閉めた。
「……ふざけんじゃねえ。クソッ」
 呟き、もう一度唇を拭う。それでも麻耶の言葉が耳から離れない。
 鳴らない携帯電話がひどく重く感じた。