Cette Place

16


「バカね、麻耶。まだ早かったのよ」
 部屋に戻るなりベッドの隅で膝を抱えて丸くなる彼女に、良子はいたって優しく声を掛けた。
 1階のロビーで土産物を買っている途中、良子が東原と日高の相手をしている間にどこかへ行った麻耶が、しばらくして部屋へ戻ってきてからずっとベッドの隅で落ち込んだように顔を伏せていた。結局動こうとしない麻耶に、良子は尚志に散策へ行けないと別の理由をつけて断った後、彼女に落ち込んでいる理由を聞きだしたのだ。その内容にただ息を吐き出すしかなかった。いつも麻耶は猪突猛進というか、慎重さに欠けるというか、後先考えないというか。
「ね。ヤマトくんに謝ろう?」
 それで簡単に許してくれるかは分からないが、そのことは敢えて言わなかった。まだ彼と出会って1ヶ月しか経っていないが、怒らせると恐い大和が根は優しい性格であることを知っているし、少ない希望があるのなら、麻耶を不安にさせることを言う必要もない。良子は努めて明るく言った。
「大丈夫だよ。私も付いているから」
「……うん」
 僅かに顔を上げた麻耶は弱々しい笑みを浮かべて、小さく頷いて見せた。良子の言うとおりにしていればどうにかなるかもしれない。そんな気がしてきた。いつも彼女は、予備校で出会ってから今までずっと、自分を支えてくれていたのだ。

 尚志は顔を顰めながら一人、ホテルの周りを歩いていた。既に夕刻と言うには闇すぎる空だが、眠るにはまだ早い時間だった。結局麻耶と良子だけでなく大和さえも散策の約束をすっぽかしたのだ。いったいあの短い間に何があったのだろうか。いくら尚志と言えど 三人の間に何かがあったことくらい気づいている。そうでなければ3人ともが約束を放るはずがないのだ。少なくとも大和が何も言わず自分との約束を破るなど……理由がない。
「千田?」
 不意に声を掛けられた。顔を上げると向かい側から見知った顔が近づいてくる。今まで尚志の思考の中心にいた大和だった。
 思わず尚志は憤慨した感情を顔に出し、大和を睨みつけた。
「ヤマト、お前なあっ」
 けれど当の大和は苦笑を浮かべ、静かに「ごめんね」と呟くだけで、特に言い訳らしいことを口にしない。それがなぜだかとても癪に障る。相手が言いたくないことを無理矢理口にさせようとするほど尚志も子供ではないつもりだ。それでも、何だろう、この疎外感は……。
 大和にもそれが伝わったのだろうか。僅かの間浮かべていた苦笑はすぐになくなり、尚志の瞳を見つめ返した。
「――ちょっと、話そうか」
 大和は尚志の答えを待たずに再び歩き出した。尚志も慌ててその後に着いて行く。
 大和の後に着いて来た場所は、ホテルから少し離れた、公園とも広場とも呼べない小さな空いた場所だった。散策コースの一部なのだろうと思わせるようにベンチが二つ、間隔を空けて並んでいる。大和は手前のベンチに座り、尚志はその傍に立つ。大和は少し小首を傾げて彼を見上げた。
「座らないの?」
 大きくはないが、男が二人座ることに躊躇わせるほど小さくもないベンチの端は、待ち構えるように空けられている。尚志は少し考えてからドカッと腰を下ろす。足を組んで両腕をベンチの背に掛けた。空を見上げれば、小さな電灯だけが丸い月の光を援助し、二人を照らしていた。 「で? 何かあったんだろ」
 不機嫌な声に大和が隣に座る尚志の顔を覗き込むように見上げた。困ったような笑みは、少し悲しそうだった。
「坪井に襲われた」
「は?」
「なんてね、言ったら驚く?」
 冗談めいた口調に尚志は思い切り表情を険しくし、上から大和を睨みつける。
「けっ。本気に聞こえるから笑えねえ。麻耶の気持ちなんて最初から分かってたじゃねえか」
「だよねえ」
 大和はほう、と溜息を吐いて、膝に肘を当てて頬杖を付いた。その目はどこか遠くを見つめて、その先は闇に呑み込まれていた。尚志はただその口元から吐き出されるであろう二人の間にあった事を待つ。
 しばらくして、唇が動いた。
「僕もう、坪井とは関わらない」
 それは尚志が望んでいたような言葉ではなかった。変わらず大和の視線の先は闇の向こうだ。
「あ? 何だよそれ。何でそうなるんだ。本当に襲われたわけじゃないんだろう?」
 尚志は咄嗟に大和の全身に視線を向ける。どこにも外傷らしいものはないし、服を着替えたわけでもないようだ。けれど、麻耶が大和に何かをした、ということだけは確からしいことは分かった。
「キスだけね」
 丸めていた背を正し、大和は再び尚志を見た。尚志は驚いたまま固まってしまっていた。
「キッ――? って、さ、されたのか?」
「……だから、もう関わりたくない」
「それは……でも……」
 言いよどむ尚志を見つめていた大和はいたって真剣な表情で、きっぱりとした口調で言った。
「今は椿ちゃんのことしか考えたくないの。千田も、協力してね」
 有無を言わさない雰囲気がそこにはあり、けれど尚志は首を立てに振れなかった。協力をするということはつまり、大和の傍にいることを選べば尚志も麻耶たちとは関わりを絶ち、麻耶たちの傍にいることを選べば大和との関係を完全とはいかないまでも少なからず絶つことになる。尚志にはそのどちらの選択肢にも手を出せなかった。
「話はそれだけ。あ、安心して。サークルの中ではちゃんとするから――坪井とも」
 最後は擦れるような声で言い、大和は立ち上がる。話はこれで終わりだと尚志も後に続いた。変わらない背丈だが、実際は大和の方が若干身長がある。華奢ではない体躯が、柔らかな雰囲気とは不似合いな気がして、どうして今更そんなことを感じるのだろうかと不思議に思う。
 大和が軽く尚志の肩を叩く。そこで、ああ、と気づいた。今は少ない月の明りが、自分の知らない彼の表情を照らしているからだ。優しく人を見る目ではなく、ただ遠い場所にいる恋人を思うフツウの男の目をしている彼を、尚志は初めて目の当たりにしたのだ。

 翌日早朝、ホテルの前に呼び出された彼らは、東原を先頭に朝の散歩をすることになった。ホテルの周りの山道を1時間ほどかけてゆっくりと歩き、部屋へ戻るとその30分後に朝食を取った。そこで東原から今日の予定を聞かされた。その間もずっと大和は尚志と共に居て、麻耶と良子を近づけさせなかった。
「ヤマトくん」
 東原は予定を言い終えると朝食を再開する。その後すぐに大和の元に良子が来た。散歩の時も何度か麻耶が話しかけたが彼がそれを拒否し、その光景を見ていた良子は麻耶が直接話しかけても無理だろうと理解していた。けれど大和は良子にさえも、冷たい視線を投げかける。それは暗に傍に来るなと言っている。
「ヤマトくん、麻耶のことは許してあげてね」
 静かな良子の声に、大和と尚志と一緒に席に着いていた松本が不思議そうに彼らを見上げた。
 大和はそっと息を吐き出し、もう一度良子に顔を向ける。サークル内では普通に接することに決めたのだと思い出す。
「ここではその話、なしにしましょ」
 柔らかな、そして彼らが知っているいつもの優しげな笑みを浮かべた。尚志はほっと安堵したが、良子は難しい顔をしたまま「ありがとう」と静かに言っただけだった。良子は心配そうにこちらを見守る麻耶に、何と声を掛けようかと、席に戻る数秒の間に思考を巡らせた。