Cette Place

17


 午前中はホテルの周り一帯の花壇に花植え作業をし、昼食を挟んで午後は山を少し下った河川での清掃作業をすることになっていた。本当に地球環境研究会は福祉ボランティア団体のようだと、今年入った1年の全員が感じた内容だった。しかし東原の説明によれば、地球環境研究会の夏の合宿は毎年この場所でこのメニューから始まるらしい。なるほどそれでも、作業をしていると先輩たちの手が慣れていることも納得が出来た。
「藤崎くん、一緒に食べへん?」
 昼食の時間、大和がホテルで作ってもらっていた弁当を広げようと午後からの作業場所である河川敷で座る所を探していると、後ろから望に声を掛けられた。他の部員は各々散らばって腰を下ろしていた。
「先輩は?」
 いつも彼女と一緒にいる東原や横田、2年の朝倉の姿が見当たらず、大和は驚きを隠せずにそう聞いた。すると望は可笑しそうに笑みを浮かべた。クスクスと肩を震わせる。
「うちは藤崎くんと食べたいから誘ったんよ? それとも2人だけは嫌かな? 藤崎くんも1人やしちょうどええと思ってんけど」
「あ……いえ。それじゃあ」
 大和はようやく笑みを浮かべて頷いた。確かにその通りで、尚志は松本と食べに行き、もちろん麻耶と良子に大和が近づくはずもなく、今大和は1人だった。
 大和と望は2人で河川敷から少し離れた山道との境目に腰をかけ、川を眺めながら持って来た弁当を広げた。温かな風が吹きぬけ、辺りを騒がす。ビニール袋に包まれていた中は具が隙間なく詰められた幕の内弁当だった。
「うん、おいしい!」
 望は一口食べると本当に美味しそうに笑みを浮かべて味わう。その様子を見て大和も箸を付けた。確かにホテルの料理人のお手製というだけあってコンビニで売っている弁当とは全く違い、冷たさもなく美味しかった。
「そや藤崎くん、バイトはどう? 家庭教師って大変やない?」
「んー、まあ、晴太くんは良い子ですし、特には。ただ教えるのって意外に難しいんですね。言葉を選ばないと偉そうだったり怒ってるようになったりして、そういうのは少し困ってます」
「藤崎くんは昔から何でも卒なくこなしてそうやもんなあ。何でこんなんも分からんのかって感じになるんとちがう?」
 ニヤリと口の端だけ持ち上げて望は笑う。大和は肩を竦めて苦笑した。
「そんなことないですよ。僕だって天才じゃないんですから、皆が分からない所は僕も分からなかったです」
 それでも学校の友人達より理解する時間は比較的早かったと自覚していた。それは中学の時から高校2年で転校するまで通っていた塾での講義のおかげかもしれなかった。そこで定期的に行われていた強化講習会にいつも参加していたほど、実は大和は努力型の人間だったのだ。
「ふふっ。藤崎くんが言うと嫌味にしか聞こえんー」
「あのねぇ……」
 カラカラと笑う望に大和はがくりと頭を垂れる。
 気の済むまで笑い続けると、望はふと優しげな目で大和の顔を覗き込む。小柄な、少し童顔の彼女が、その瞬間ひどく大人びて見えて、大和は少しドキリとした。そういえば望は東原の同級生で、2年も年上なのだと思い出す。
「あのさあ、言いたくないなら言わんでもええんやけど」
 静かに風が吹いて、一つに結わいでいる彼女の髪が揺れるのが、視界の端で見えた。
「千田くんたちと喧嘩でもした?」
 大和はキョトン、と目を丸くして望を見つめ返す。
 ゆっくり視線を弁当の白飯に落とし、何とも言えない笑みを浮かべた。笑みを浮かべようとして失敗したような、そんな表情だった。
「えー、あー、分かります……よね」
 ポーカーフェイスには自信があったつもりだったけれど、それでもこの状況は誤魔化せない。結局望と昼食を取っていることでいつもどおりではないのだ。
「正確には千田じゃなくて、坪井なんですけど」
 ぼそりと呟くように吐き出した大和の答えに、今度は望が驚いた。
「麻耶ちゃんと?」
 大和は答える代わりにただ口を閉じた。何も言わないことが答えだとでも言いたげにする態度を見て、望は「そっかあ」と呼吸をするみたいに呟き、空を見上げる。今日はとても良い天気で。青い空にゆったりと流れる白い雲が見ていて気持ちいい。それに山の中だから空を遮るのは灰色のビルではなく、緑色の木の葉たちなのも、望の好きな景色だった。
「付き合っている子がいることを知っているのに、僕が坪井をそんなふうに見る気さえないことも知っているのに」
 ぽつりぽつりと紡ぎだされる胸の内に溜まっていた困惑。大和は望ならそれを黙って聞き流してくれるような気がして、視線を弁当の具から下に広がる川の水面に移し、口を開いていく。年上だからだろうか。彼女の隣はとても居心地が良くて安心できた。
「どうしてあんな事ができるのか僕には分からなくて」
 思い出すだけで胸糞悪い。大和は自然と顔を歪ませていた。あの感触を早く消したくて、何度も椿の体温をを思い浮かべようとしたのに、それさえも難しくて。それは今に始まったことではない。思えばここ最近ずっとだった。椿の笑った顔や少し困ったような顔、頬を赤らめて自分を見上げる顔は思い出せるのに、すべてがどこか冷たくて、彼女の温度を思い出せないでいた。
「けど本当に分からないのは――」
 本当に分からないのは、分からないから知りたいのは――椿の心だ。今はそれだけが欲しいくてどうしようもない。
 どうしてメールさえも返してくれないのだろう。確かに届いているはずなのに。どうして?
 大和の目が細く鋭くなる。苦痛に耐えているような彼の目に、望自身も苦しそうに表情を歪めた。
 望はそっと腕を持ち上げる。
「っ?!」
 ふわりと彼女の指が大和の髪に触れる。驚いて大和が視線を上げると、望が優しく彼の髪を、頭を撫でていた。子供をあやすように何度も触れ、撫でていく。小さな手と細い指から暖かな温度が伝わってくる。
「よしよし。ええ子やねえ、藤崎くんは」
 笑うでもなく、慰めるでもなく、ただ「今日は良い天気だね」と話すかのような口調で望が大和の髪をくしゃくしゃと撫で回しながら言った。大和は困ったような、戸惑うような、それでも悲しい表情ではない笑みを浮かべた。
「そんなに思われてる彼女サンが羨ましいわあ。幸せモンやね、藤崎くんの彼女サン」
 望は言って、撫でる手を離した。パクリとご飯を口に運んで思い出したように食事を再開した。
「うちの彼氏もそれくらい優しかったらええんやけど……。ああ、でもあの人がそんなんやったらちょっとキショイかもしれん」
「キショイって……」
 呆れた表情を浮かべる大和に望は笑った。
「だってそんなんやったらあの人ちゃう、別人やもん。それにうちな、最近気づいてんけど、ギャップに弱いらしいねん」
 望は「何て言ったらええんかなぁ」と考える仕草をして、もう一度大和の方に顔を向けた。
「ギャップっていうか、二面性? 普段意地悪いっちゅうか俺様なクセにちょっとした優しさを見せられた時とかな、くらっときてしまうんよ。何気なく車道側を歩いてくれたり、うちの前ではタバコ控えてくれたり」
 大和は不思議そうに彼女の話を聞いていた。好きな子には対して優しくする行動は当たり前だと思うのだが、頬を若干赤らめて嬉しそうに話す望を見ていると、それは彼女にとって特別なことらしいと分かった。尤も、喫煙者ではない大和からすればタバコを控える件の話は理解できそうもなかったが。
「って、別にうちのタイプの話なんかどうでもええねん!」
 自分から振った話を慌てて放り投げ、望は気を取り直してもう一度大和の方へ視線を移す。しっかりと彼の瞳を捉えた望の視線は暖かく、力強かった。
「何が言いたいかというと、藤崎くんはほんとに優しくてええ人やねん、うちの彼氏と違ってな」
 そう言われてありがとうと返すべきか、大和が返答に困っていると、望は何を気にするふうでもなく言葉を続けた。
「だから麻耶ちゃんが藤崎くんを好きになるのも分かる」
「……でも、だからって」
 思わず大和は反抗的に視線を鋭くした。望は臆することもなくそれを受け止める。
「うん。うちには麻耶ちゃんが藤崎くんに何をしたかなんて知らんし、知る必要もないんやろうけど、これだけは言わせて?」
 望の瞳はいつだって優しく大和を映していた。大和はだから、彼女の言葉がこれほどまでにすんなりと体の中に入っていくのだと思った。彼女の隣が心地よいのだと思った。それはあの日、椿が「藤崎くんは藤崎くんだよ」と言ってくれた時に感じた力強さに似ていた。
「人が人を好きになるのって理屈やないんよ。だから藤崎くんに彼女がいようと、麻耶ちゃん、動かなどうしようもなかったんちゃうかな。相手のことが好きすぎて自分を止められんってこと、うちも経験あるから分かんねん。藤崎くんにだってどうしようもないんよ、こればっかりは。だって本人さえどうすればええか分からんもん。理性では分かってても、止められへんってこと、あるんよ」
「……それでも……」
「うん。それでも、やってええこととあかんことの区別くらいは、せなあかん」
 きっぱりと言い切って、望は満面に笑みを浮かべ、もう一度大和の頭を掻き回した。
「麻耶ちゃんにはうちからもそれとなく言うとくから、藤崎くんもあんま思い詰めんときよ? まあ、ええ男はどんなカオでも様になってるからええんやけど」
「ふふ。僕、別にイイ男じゃないですよ」
「だから藤崎くんが言ったら嫌味にか聞こえんて」
 初めから変わらない調子で交わす会話に、大和は声を漏らして笑った。麻耶のことで悩んでいたことが急にバカらしくなる。
 椿のことは――相変わらず気に病むけれど。
「彼女サンのことは、藤崎くんやったら逆に思い切って動いてみたらええと思うし。まっ、頑張り」
 大和の髪をくしゃりと撫でていた望の手は、最後に軽く彼の背中を叩いた。渇を入れられたようで、大和は特に何も言わず頷いた。
「そうしてみます」
 いつだって大和の中心にいるのは椿だけで。
 だからきっと動こうと思うのは、彼女からの返信があってからだろうと、そんな気がする。
 離れることを選んだ自分が勝手に戻るのはなんだか躊躇われて。