Cette Place

18


 大和が夕食を終えてレストランから戻ると、既に尚志と松本の姿もそこにあり、二人はベッドに腰掛けてテレビを見ていた。松本が先に大和に気づき「おかえり」と声を掛ける。けれど尚志は横目で一瞥しただけで何も言わなかった。大和は俯き加減でドア側のベッドに足を崩して座る尚志の近くに寄る。
「あ……千田、この前はごめん。無理なこと言った」
 テレビから賑やかな笑い声が部屋に響く。似合わない張り詰める空気に松本は居心地の悪さを感じたが、ふと尚志の口元が歪んだのを見て、そのまま気にしないことに決めた。二人の間に何があったのかは分からないが、事は良い方向へ転がるようだ。
「まったくだよなあ。俺はヤマトとも親友だし、麻耶ともダチだし。ああいう協力はできねえんだよ」
 テレビの画面を見つめたまま不貞腐れた声で尚志が答えた。大和の顔を見ているわけでもないのに彼の表情がどんなふうに変化したのかを何となく分かってしまう。きっと大和は笑ってなどいない。散策の約束を破ったことに不満をぶつけた時も困ったような笑みを浮かべていたけれど、今はきっと違う。整えられた直線を描く眉は見ていてつらくなるほど垂れ下がっているのだろうと感じる。それは何も言わずにただ自分の隣に突っ立っているその空気からも分かることだった。はあ、とこれ見よがしに溜息を吐いて、尚志はようやく顔を大和の方へ上げた。
「もう二度と言うなよ?」
 ニッと口を横に広げて笑う。尚志のその顔を見て大和もほっと肩を下ろした。
「うん。これから坪井にもちゃんと言ってくるよ」
 ちゃんと、二度とあんな事はするな、と釘を刺してくるよ。大和がそう言うと尚志は難しい顔をする。
「いや、それは逆効果じゃねえかな。傷口に塩を塗るようなもんじゃん?」
「そう……かな」
「そうだって。ただでさえヤマトに振られてるのにさ、ダメ押しされちゃあな。見てらんねえもん、俺」
 そう――だろうか。大和は腑に落ちない感じがしたが、それを尚志に言うことはなく、ただ黙って聞いていた。ここで反発しても同じことだ。
 大和には麻耶がどれほど傷つこうが椿が大丈夫ならそれで良いと思っている。だが尚志にとっては、会ったこともない大和の恋人よりは、友人の麻耶の方が大切なのだと思う。それはとても自然なことなのかもしれない。
 だけれど、それではやはり意味がないのではないか、とも思うのだ。尚志にとっては友人である麻耶は、大和にとってはもう友人ですらなくなった。そう仕向けたのは麻耶自身で、いくら友達に戻ろうと言われたところで大和にはそれは到底難しいことのように聞こえる。それに今はまだ麻耶からは何も言われていないのだ。動きようがない。だからきっと麻耶とは――。
 結構何でも言い合える良い奴だと思っていたんだけどな……。

 再び麻耶と良子が大和と三人で対面することになったのは、合宿最終日の昼食を終えた時だった。最終日の作業は午前中で終わり、昼食を取った後はホテルをチェックアウトし、帰るだけである。
 結局椿からのメールは来ないままで、さらに麻耶との関係もぎくしゃくしたまま、ホテルを後にすることになりそうだった。
 それを察してか偶然か、大和と共にレストランへ入った尚志が選んだ席が彼女たちの近くだった。麻耶が明らかに動揺していたのを背中で感じながらする食事は、決して美味しいものではなかったけれど、唯一の救いは良子だっただろう。彼女が無理矢理にでも麻耶との会話を繋げてくれていたから、こちらとしてもそれほど意識することもなく済んだ。
「あのさ、どうして藤崎は坪井と付き合わないの? 坪井って結構美人だしさ、明るいし、いいと思うんだけど」
 状況を把握し切れていない松本が、それでも気を遣って小声で尚志に尋ねる。尚志は背中に冷たい汗を感じながら、無反応の大和を気にしながら松本を睨んだ。それをここで聞くのか、こいつはっ。
「気持ちの問題だろうが、そういうのは」
 早口で答える尚志に松本は、今度は大和に視線を向けて納得できない顔をした。
「彼女一筋だから」
 大和の一言に松本は驚き、尚志はさらに大量の汗を背中に流した。表情は変わらないが完全にキレている。それがありありと分かる。
「あー、なるほど」
 そりゃあ彼女くらいいるよな、藤崎なら。松本は頷いて食べることを再開した。
 大和が怒るのも無理はないが、松本の言うことにも確かに一理あるのだ。麻耶は客観的に見て美人の部類に入る。モデルの綺麗さというよりはアイドルのような凛とした可憐さが彼女にはあるのだ。望も美人だが、彼女の場合はその童顔が小動物のようなマスコット的な可愛さを相手の印象に与えすぎて、本当にある美人さというのが隠れてしまっている。その点麻耶はバランスが取れた美人と言ってもいい。性格もサバサバとしていて、男女関係なく話を盛り上げられる明るさもある。気の強いところも長所と見れば気軽に付き合ってもいいような気がするのだろう。けれど大和にしてみればその気の強さが厄介なのだった。
 大和の好みのタイプは昔からそれほど変わらない。初恋の相手は高校のときに同じクラスだった女の子で、見た目は大人しい感じの子だったけれど話してみれば無口と言うわけでもなく、笑顔を絶やさない優しい子だった。それは椿にも通ずるところがある。椿は見た目どおり話していても大人しい性格なんだろうと分かるほど控えめで、けれど優しく欲しい言葉は必ずくれるのだ。少し鈍感なところも彼女の魅力で愛しい。
 ――会いたい。そう思っているのは自分だけかもしれない。声を聞きたい。それも自分だけが願っているのかもしれない。けれど、それでも。
 会いたい。会って抱きしめて、それから。
「ヤマト」
 尚志の声に大和の志向が中断された。
 顔を上げると既に食べ終えていた尚志が松本と立ち上がっている。
「先に部屋戻ってる。お前はゆっくり食べとけ」
「ああ、分かった」
 特に考えずに頷いたのがいけなかった。時間にはまだ余裕があったから咄嗟に頷いていたけれど。後ろにはまだ麻耶たちが残っていて。
「ヤマトくんっ」
 麻耶が一人になった大和に声を掛けたのは尚志たちがレストランを出てすぐだった。大和が振り返るまでもなく麻耶が彼のテーブルまで来ていて、強張った表情で見下ろしていた。
「あ、あの、ごめ――っ」
「麻耶!」
 拳を握って吐き出そうとした彼女の言葉を止めたのは良子だった。良子も立ち上がって麻耶の横に立つ。麻耶の腕を掴んでそれ以上口を開くことに首を左右に振って止める。どうして、と麻耶の目が良子に問いかけるが、良子はそれには答えず呆然と見上げる大和に視線を移した。
「何?」
 平らげた皿に箸を置き、大和は麻耶から良子に視線を動かす。引きつったような表情の麻耶に対し、良子は至って普通の、いやそれよりもどこか冷めた目で大和を見ていた。感情の読めない目を向けられ大和は戸惑う。
「ヤマトくん……」
 静かに、空気が張り詰める。
「麻耶がヤマトくんにしたことは、聞いた。私からも謝るわ。ごめんね」
 その言葉に大和も、そして麻耶までもが良子を見つめる。その心情を見定めるように黒く光る瞳を見つめるが、そこから読み取れるものなど何もなかった。彼女の考えることはよく分からない。それは大和や尚志よりも付き合いのある麻耶でさえ、いまだにそうだった。先ほどは良子自身が麻耶にその言葉を放たせなかったというのに。
「これ以上迷惑を掛けないから」
 柔らかく、けれど芯のある強さを秘めた声音で、良子が言う。その意味することは何なのだろうか。
「迷惑……って?」
「極力話しかけないし、近寄らない」
「え!?」
 驚愕したように声を出したのは麻耶だった。それは当然だ。麻耶が大和を好きなことは充分に知っているはずの良子が、話しかけることも近寄ることもしないと宣言したのだ。麻耶の思いを無視してどうして彼女が行動まで制限するのか、麻耶にも大和にも分かるはずがない。
「……そう」
 良子の目を真っ直ぐと見つめていた大和がふ、と微笑む。良子の瞳が揺るぐことはなく、おそらく彼女が言ったことは必ず実行されるのだろう。大和にとっては、尚志に言われた今だからだが、どちらでも良かった。キスをされた直後であればありがたく受け入れていた申し出だけれど、今はどちらでもいいのだ。麻耶が傍にいようと離れていこうと、どちらにしても彼女を傷つけることは必至だからだ。それくらいの自覚はしているつもりだった。
「それは坪井だけ? それとも坂口も一緒に?」
「私も、麻耶も。最低限のことでしか近づかない」
 最低限とはサークルの連絡事項などのことだろう。それは大和が尚志に頼んだことと同じことだった。だからそう――どうだっていいのだ。
「分かった」
 大和が答えると、何か言いたそうな麻耶の腕を掴んだまま良子は「それじゃあ」と彼女を引っ張ってレストランを出て行く。
 二人の後姿を見つめながら溜息を吐き出した。どうでもいいと思いながら、どうして何か引っかかるものがあるのだろう。望んでいたことじゃないか。そう自分に言い聞かせても、良子の目を見ているとどこか腑に落ちなくて、大和は表情を険しくさせた。


「良子! どういうつもり!?」
 レストランから部屋へ戻る途中のエレベータの中で麻耶が良子の手を振り払って叫んだ。どうして勝手な約束をしてしまうのか。
 睨み付ける麻耶に良子は表情を変えずに、正面からじっと麻耶を見つめ返す。逆に麻耶がたじろいでしまうほど真っ直ぐと目を向けられ、どうしていいか分からなくなる。
「な、何よ……」
 一歩動いたわけでもない。けれど良子が迫ってくるような感覚に襲われる。大和がキレた時に感じた恐怖とは違う、言いようのない感覚に恐いと思う。良子、あなたは何を考えているの――?
「大丈夫。悪いようにはしないから」
 良子は言って、ふと穏やかな笑みを見せた。麻耶がほっと息ができるような微笑だった。
「少しの間つらいかもしれないけど、ヤマトくんは絶対麻耶から離れられないのよ。きっとね」
 その微笑に隠されているものが何なのか、やはり麻耶には読み取ることが出来なかった。


 一人になったレストランで、大和の携帯電話が服のポケットの中で震える。
 メールの着信に大和の心が震えた。
『あたしも会いたい。』
 泣きそうなほど胸が詰まる。