Cette Place

19


 椿からメールが返ってきた。
『あたしも、会いたい。
 ありがとう。会いたいと言ってくれて。
 ごめんね、メールできなくて。
 離れているからかな。藤崎君のちょっとした言葉がとても不安になるの。
 でもそれで何もしなかったら、余計に不安にさせるんだね。
 あたしも不安でした。
 もうこんなことがないようにするから。ごめんなさい。
 彩芽たちにもたくさん叱られた。
 だけど藤崎君がつらいことが、一番つらいから……。
 大学生活、思ったよりも大変です。あたしもバイトしようかなって思ってます。
 体には気をつけてね。また電話してくれたら嬉しいです。
 できたら夏休みに会いに行こうと思います。
 それまではお互いに頑張っていこうね。』
 何度も読み返しながら、自分は何をやっているんだろうと思う。

「ほんと――何やってるんだろう、アタシ……」
 駅のホームに立ち、思わず溜息が漏れる。勢いで来てしまったとは言え、この先のことなど考えていなかった。
 数時間かけて合宿先から戻ってきたのは下宿先のアパートではなく、高校時代を過ごした地元だった。椿から返ってきたメールを新幹線の中で何度も読み返し、気づけば皆とは逆方向のホームに立っていた。椿に会いたい。その一心だったのだろう。
 会って抱きしめてたくさんのキスをしたい。
 今までは彼女の声を聞くたびに、言葉を交わすたびに、癒されてきたけれど。それだけではもう我慢ができなくなっている。そう自覚していた。椿の髪に触れ、肌に触れ、息に触れたい。この手で直接温もりを感じたい。どうして離れてしまったのか後悔するほど、今は椿が足りない。
 それはおそらく連絡すら取れなくなっていたことにも原因はあるだろう。たかだか1ヶ月ほどしか経っていないが、これほどまで欲望に抑えがきかなくなることはなかった。学校行事で3日ほど電話さえできなかったときも、確かに我慢することはつらかったが、できないことではなかった。勝手に体動くほど耐えられなかったことではなかった。――大和も不安だったのだ。声が聞けないことがこれほどまで己の理性を失わせることだとは思いもしなかった。
 これから今以上のことがあれば、確実に自分を失うかもしれないことへの不安や恐怖と共に、椿に会えるかも知れないという近い未来に、大和の胸は激しく高鳴る。
 けれどいよいよという時になって、本当にこれで良いのだろうかと不安になる。急に姿を見せた自分に、椿は迷惑がらないだろうか。そもそも会えなかったら? 他の人間と一緒にいたら? 自分の知らない奴と歩く彼女は見たくなかった。
 いや、と大和は考えを打ち消すように首を振る。椿のことは高校3年だった1年しか知らないが、交友関係はそれほど広くないはずで、ましてや彼女が通う大学はあまり有名なところではない。地元であるここで知らない男と一緒にいることはないだろう。椿の過去など知らないが、今の彼女のことなら知っているつもりだ。それに一度たりとも椿から知らない男の話を聞いたことはない。
 大丈夫だ。突然現れたとしても椿なら、きっと受け入れてくれる。
 藤崎君は藤崎君だよ。
 そう言ってくれた椿ならきっと……。
「ヤマトくん!?」
 突然名前を呼ばれ、大和は思わず硬直した。女の声だったがそれが誰のものだったかは気づかなかった。
「ヤマトくんだよね! 何やってんの?」
 椿ではない。それだけは分かり、僅かに安堵する。椿であればこんなふうに大声で名前を呼ばないし、第一「ヤマトくん」とは言わない。
 大和は振り返り、あまり呼ばれたくないそのあだ名を連呼する人物を探した。
 彼女はすぐに見つけられた。目を丸くさせ嬉しそうな笑顔を見せながら、手を大きく振って近づいてきていた。髪を明るい茶色に染め、化粧をばっちりと決めた私服姿の元クラスメイトは、それだけで記憶の中の彼女よりも随分と大人びて見えた。夏祭りに一緒に行った時もお互い私服だったが、やはりあの頃とでは全く違っていた。
「あ……畑さん。久しぶり」
 大和もややあと手を上げて笑みを浮かべた。恭子もにっこりと微笑み、彼の前に立つ。
「久しぶりー。藤崎さんじゃなくてがっかりした?」
「ううん、そんなことないよ」
 可笑しそうに言う恭子に大和は素直に首を振った。確かに椿だったら嬉しかっただろうが、椿でなくてほっとしたのも事実だ。恭子にはうまく伝わっていないみたいだが。
「旅行に行ってたの?」
 大和の持つ大きめな荷物に目をやって恭子が尋ねる。
「ううん、大学の合宿。帰ってきたところなの」
「じゃあ一人なんだ?」
「うん、まあね」
「ふうん。あっ、そうだ。最近この近くにスタバできたんだよ。そこでちょっと話さない?」
 恭子のその言い方が何気なくて、大和は懐かしさと安心感で思わず頷いていた。良子のどことなく打算的なものの言い方とは全く反対のその口調が、ひどく心地よかった。
「これからどこか行くんじゃなかったの?」
 改札を出てすぐ、大和が聞いた。言ってからそれは間違いだということに気づく。同じホームにいて同じように改札を通るということは、大和と同じく戻ってきたということだ。けれど大和が質問を正す前に恭子が口を開いた。
「ううん、あたしも学校の帰り。今から篠原たちと会うんだ」
 恭子はクスッと肩を上げて笑う。
「びっくりするだろうなぁ。いきなりヤマトくんが居たら」
「そうだねー」
 相槌を打ちながら果たして彼女は自分がどこの大学に行っているのか知っているのだろうかと思う。椿は別にして、大学のことを直接話したクラスメイトは篠原と森岡の二人だけだ。
 店は駅に隣接するデパートから横断歩道を渡ってすぐのところにあった。全国的に店舗を展開するチェーン店だ。規模は小さいものの平日にも関わらずなかなかの賑わいを見せていた。恭子に続いて入り口近くの席に座る。
 カウンターで注文し、受け取ってから再び席に着いた。
「ここで会うの? 篠原たちと」
「うん。まあ、あと1時間くらいあるけどね」
「えっ」
 驚く大和に恭子はニヤリと笑みを浮かべる。手は動かしたままふふっと笑った。
「今日はね、久しぶりにカラオケしようってことになってぇ。篠原と森岡とシンバの4人で遊ぶ予定なんだけど」
 ヤマトくんも遊ばない? と小首を傾げる恭子に、大和は少し考える。
「悪いけどアタシは遠慮しておくわ」
「え、なんで?」
 恭子は意外そうに驚く。ここまで付き合ってくれたのだから時間はあるのだと思っていた。
「荷物置きに帰ってからでもいいよ?」
 恭子はそう言ってくれたが、大和はやはり頭を振って断った。
「ありがとう。でもすぐに戻るし……」
 それからふと思いついて、「椿ちゃんにも会いたいし」と付け加えた。
 やはりここまで来たのだから会いたい。ホームに降りた時は迷っていたが、ここへ来てそれは目的に変わりつつあった。
 触れられるのなら触れたい。そう思うのは当たり前のことだろう。

 大和は恭子と別れると、早速椿の家へ向かった。自分の家に戻るつもりは無かった。椿に会えればそれで良いのだ。家に居ない時はそれまでだが、もともと約束はしていないのだから諦めもつく。彼女の家へは行ったことがないが、住所だけは知っている。高校から自転車で10分ほどしか掛からない場所だったと記憶してた。駅からは歩けば30分ほどだろうか。
 駅から直線に伸びる道路に沿って歩いていく。自分の家へとは違う道を歩いていくのは不思議な気分だった。まだこの町の地形は把握し切れていないが、だいたいの地名と場所は一致させている。それは当然ながら学校付近だったりといった関係のあるところだけだが、その中に椿の住むところも含まれていることに、大和は今更ながら胸が締め付けられるほどの思いを抱く。
 どれくらい歩いただろうか。数度角を曲がって坂道に差し掛かった。ここまで来ると周りには住宅しかなく、その間に小さな診療所や郵便局があるくらいだった。つい辺りを見回しながら歩いてしまう。椿もこの光景を見ながら育ってきたのだろうか、暮らしてきたのだろうか。
 不意に。
 上り坂の途中、大和は前を歩く後姿に見覚えがあり、足を止めた。クリーム色のシャツに細身のジーンズ、黒のパンプスを履く彼女。顔を見なくとも声を聞かなくともその姿を間違えるはずが無かった。
 椿だ。
 思わず駆け寄ろうとして、けれど結局足は前へ進まなかった。
 椿は一人ではなかった。彼女の隣には知らない人間がいた。仲が良さそうに肩を並べて歩いていた。ただそれだけなら良かったのに、隣に居たのは男だった。女ならこれほどまで動揺しなかったかもしれない。不意に蘇る唇の感触に大和は慌てて手の甲で口を覆う。自分に後ろめたいことがあるから、椿にもこんな感情を抱いてしまうのだろうか。
 決して低くはない身長の椿が見上げるほどの背丈を持つその男は、優しげな目で彼女を見下ろしていた。その目に見覚えがあった。昔、平が寧々を見ていた目と同じものだ。当時大和が思いを寄せていたクラスメイトを、友人も同じように見ていた、その目だ。
 ギリ、と奥歯をかみ締める。
 なのにようやく足を動かすことが出来ただけで、二人に自分の存在を気づかせるまではできないでいる。
「――となの?」
 男の声が聞こえた。柔らかな口調で威圧感を与えない声だった。少し離れた大和には彼が何を聞いたのか分からなかったが、椿はコクンと頷いて見せた。
「大和くんっていうんだけど、すごく頑張る人なの」
 ドキリとした。
 まさか自分の名前が出てくるとは思わなかった。……同時に男が何を聞いたのかも分かってしまう。やはり彼は椿に気があるようだ。嬉しさと憎らしさで複雑な気分になる。
「ちゃんと自分と向き合ってて、今も家を離れて頑張ってるんだ。――なのにあたしは自分のことばかりで、ちゃんと考えてあげられなくて、いっぱい傷つけちゃって……」
「藤崎さん……」
 大和には椿の表情が見えない。それがひどくもどかしく、けれどそこにある彼らの中に入ることも躊躇われて、気づけば爪が皮膚に食い込むほど拳を握り締めていた。
「会えないと不安、だよね」
 男が言った。なぜ彼がそんなふうに言うのか分からなくて、自分はそんなふうに気を回すことができないんだと言われているようで、知らず男を後ろから睨みつけていた。
「うん。でも、それを大和くんが選んだんだから、あたしは信じるしかないんだなって分かった。今まではずっと甘えてきたから、今度はあたしも頑張らないといけないんだなって、最近やっと分かった気がするの」
「強いね、藤崎さん」
「全然強くないよ。大和くんが頑張ってるからあたしも頑張らないと、釣り合わないもん。大和くんは優しいから、あたしが会いたいって言ったら会ってくれるかもしれない。でもそれじゃだめだって、友達に言われたんだ。だから気づけただけで……」
 ――どうして。
「妬けるなあ」
 男の声はもう遠くからでしか聞こえなかった。
 大和には椿の声だけが木霊する。
 どうして。
 なぜ、自分はここにいるんだろう。大和は足を止め、離れていく二人の後姿をぼんやりと眺めていた。次第に二人は小さくなり、曲がり道で姿は完全に見えなくなる。
 胸が痛く、息苦しい。
 自分は何をやっているのだろうか。