Cette Place

20


 合宿を終えて二日が経った。
 良子は隣に座る麻耶に気を遣いながらも教室を見渡し、窓側の前方に座る彼らを見つけた。どうやら講義には出ているらしい。とすれば、自分から避けなくとも向こうから動いてくれているのだろう。それとも、互いにそうしているから、意識的に探さなければ会うことはもとより視界に入れることもないのだろうか。
「良子、どうかした?」
「ううん。なんでもない」
 不思議そうに自分を見上げる麻耶に良子は微笑んで首を振った。なんでもない。今は、まだ。

「あれー? 今日も来てへんのん、藤崎君は?」
 地球環境研究会のミーティング場所である小教室のドアを開けた望は、教室をぐるりと見回すとあからさまに不満そうに表情を歪めて言った。
「別に毎日来る必要は無いのだから、そう機嫌を損ねることは無いだろう」
 望の後ろからそう声を掛けたのは東原だ。中指で眼鏡を押し上げ、いつまでもドアの所で突っ立っている彼女の横をするりと通り抜け、教室へと入っていく。
「せやけど、あと藤崎君だけやで? プリント渡せてないの。締め切りもあんのに……」
 困ったように頬を膨らませながら望が東原を見上げて言った。それもそうだ。東原もさてどうしたものかと小首を傾げて見せるが、それで何かを浮かべられるような都合の良い頭脳を持っているわけではなかった。
「良子ちゃんなんかもう出してくれたのに」
「あ、それなら俺が渡しておきますよ。明日も同じ講義あるんで」
 そう言って手を上げたのは尚志だ。望は意外に思う。こういうときこそ良子か麻耶が名乗りを上げるものかと思っていたからだ。それとも、それはただの思い過ごしだったのだろうか。
「ああ、そう?」
「坪井さんと藤崎君、喧嘩してるみたいですよ」
 不思議そうな望の態度に気づいたのか、彼女の声に出さなかった疑問に、耳打ちして答えたのは同じく今年からサークルに入ってきた松本だった。彼は確か合宿の時は大和と尚志と同じ部屋に泊まっていたことを思い出した。
「入学式の時から目立ってましたからね、特に藤崎君は。学部が違う僕も結構聞きますよ」
「え、あ、そうなん? 学年が違うとそういうこともないんかなあ」
 大和の容姿を思ってみればそれも当然かもしれないと思う。しかしそれでも、同じ学部なら学年が違えども話ぐらいは流れてくるものだ。望は少し寂しさを感じた。サークルの仲間は身内のようなもので、彼らのことは何でも知っていたいと思うのは無理なのだろうか。
「それじゃあ俺、先に帰ります」
「あっ、千田」
 望からプリントを受け取った尚志が教室を出て行こうとしたところへ、思い出したように東原が呼び止めた。
「来週ミーティングやるから、藤崎に伝えておいてくれ」
 尚志は僅かに考え込む仕草を見せてから頷いた。
「伝えておきます」
 それでヤマトが来るかは俺にはわかんねーけど。その本音は喉の奥へと押しやった。

 さらに一週間が過ぎた。サークルのミーティングに大和の姿は無かった。ただ、尚志から渡ったプリントだけ、尚志の手によって提出されていた。サークル内の空気が悪くなるというよりは、麻耶の気分が最低までに落ち込んでいることが目立っていた。
 東原も彼女へのフォローに困ったように表情を歪ませ、望は大和に対して不満感を露にしていた。

「良子……あたし、どうしよう……」
 すっかり習慣化してきた良子と2人だけの昼休み、とうとう麻耶が弱音を吐き出した。彼女に愚痴を言ってみたり相談することはあっても、弱音はあまり吐かない麻耶だったから、良子は少し目を見開いて驚いた。相当参っているのだろうと、自分が提案した事ながら気の毒になってくる。
「どうしたらいいかなあ? まだ仲良くなって間もないのに、完全に嫌われちゃった……」
 確かに、と良子も頷く。目まぐるしく過ぎていった日々はまだ1ヶ月ほどの時間でしかない。
「だから早すぎたって言ったのよ」
 良子の正論過ぎる言い草に、麻耶は苦味を潰したような何とも言えない表情をして項垂れた。確かに早まったことは自覚している。
「でもまあ、勝負はこれからだしね」
「へ?」
 思いも寄らなかった言葉に麻耶は勢いよく顔を上げた。
 勝負はこれから、と聞こえた気がしたが。
 勝敗は既に決まっているのではないだろうか。麻耶が大和に手を出した時点で、決して大和の彼女には勝てないのだと思っていた。あの時の大和の視線を忘れた事はない。良子とて彼の鋭い視線を見ていないとは思っていなかった。それなのにどうしてそのようなことが言えるのだろう。
「知ってる、麻耶? 麻耶がヤマトくんと距離を取っていること、うちの学部の子は皆気づいてるのよ」
 何気ない表情で良子が淡々と言うものだから、麻耶はすぐには理解できなかった。ぱちくりと大きな目を瞬かせ、良子をまじまじと見つめる。
「それじゃあホントに、あたしは見ているだけになるの……? いやだよ、そんなのっ」
 自分勝手な事を言っていることは分かっている。それでも口にせずにはいられなかった。今まで大和と尚志の間に居たのは自分と良子だ。今それが叶わないのなら、せめて誰にも入ってほしくない。そう願わずにはいられない。
 分かっている。醜い嫉妬だということは。それでも、どうか。
 そしてやはり許せない。そんな彼の胸の中には変わらず近くにいないカノジョがいることが。どうして貴女なの、と夢の中で何度も恨んだ。顔も知らない女性が、いつもこちらを向いて嘲っているのだ。決して麻耶が手に入れられない場所はここにあるのだと見せ付けんばかりの綺麗な笑みを浮かべて。
「どうしたらいいの。あたしは……ただ……」
 ただ、彼の目を自分に向かせたかっただけだ。あの時少しだけ出た欲が、今は恨めしすぎる――。