Cette Place

21


 豊倉晴太は最後の問題を解き終え、意気揚々と家庭教師である彼にノートを見せた。
「あら、今回はちゃんと復習したんだね」
 赤のペンで丸を付けていきながら、ほとんど訂正しなかった回答に大和は微笑を浮かべて言った。晴太が嬉しそうに「へへっ」と声を漏らす。それからいそいそとカバンの中を漁り、B4サイズのプリントを差し出した。
「見て見て、学校の小テストで10点満点中9点!」
 大和はそれを手に取り、どの範囲の問題が出てどこを間違えているのかを素早く確認した。
 すぐに顔を上げてふわりと微笑む。
「うん、すごい! 最後は惜しかったけど、2問目とかできるようになってるし」
「だろだろ!? オレってば天才かも!」
「ははっ。調子に乗るんじゃないよ。次は……国語ね」
 大和が言うと、分かってるよと晴太は言いながら、国語の問題集を取り出した。大和の指示したページから問題を解いていく間、大和はもう一度小テストへ目を向けた。
 晴太は元々能力があったのか、以前塾へ通っていたからか分からないが、成績が悪いというわけではなかった。それは先月、初めての授業の前に母親から見せてもらった彼の、昨年の学年末考査の結果からも分かっていた。塾をやめたからと言って成績が大きく落ちるわけでもないということは、晴太が家でもそれなりに勉強しているということだろう。1年見つけられなかったからと言って、無理にでも雇う必要は感じられないのだが……。
 そこまで考えて、大和は小テストを裏向けた。あくまで自分はアルバイトの家庭教師だ。家庭事情に首を突っ込むことこそ必要ないことだと考え直した。それに、晴太が塾をやめた理由も、知る必要はないのだ。

 バイトからの帰り、大和は駅前のコンビニに寄ってからアパートへ向かった。スナック菓子をいくつか入れた袋を手に持ち、揺らしながら歩く。既に空は暗く、車が一台やっと通れるほどの幅しか持たない狭い路地では街灯も少なく、だから前方から来た人物に気づかなかった。すれ違いざま、揺らしていた袋が男の足に当たった。
「あっ、すみません」
 咄嗟に大和が謝罪の声を上げると、男は特に何も反応せず、けれどその隣に居た彼女は驚いたようにこちらを向いた。
「藤崎くん!」
 望だった。大和も驚き、望に視線を移した後男を見上げた。初めて見る彼女の恋人は不審そうに大和を見る。ああ、こいつがいつか見た――。
「藤崎くん、最近全然ミーティングにも来ぉへんやんか。どうかしたん?」
「なに、こいつ。知り合い?」
 大和が答える前に男が望に聞いた。思いのほか軽い口調で、大和は印象と違うことに驚く。
「うん、大学の後輩」
「ふうん」
 男は大和を一瞥すると、特に興味がないといった様子で望の肩を抱いた。構うことはないとでも言うような感じだった。
「あ、ちょ、待ってや」
「どうして?」
「や、だって……」
 望は困ったように男を見上げた。けれど男も譲る気はないらしく、いいだろ、と大和へ視線だけを向けた。その鋭い眼差しに大和は思わず息を呑む。どうして睨んでくるんだ。
「先輩、来週のミーティングは出るんで。それじゃ」
「あ、え!? 藤崎くん!」
 後ろから望の声が聞こえたが、大和は早足にその場を去りたかった。
 アパートへ着き、玄関に入るとようやく、自分が息を切らしていることに気づいた。ドアにもたれかけながら深呼吸した。
 あの男の目は、冷たかった。
 男はどこにでもいそうな感じの青年で、年もそう変わらないだろう容姿だったのに、あの眼差しを向けられた瞬間に冷や汗が背中を流れた。
「ヤバイのと付き合ってるな、先輩」
 アレを見るのは、大和にとって初めてではなかった。


 教室に入ると尚志の姿を見つけた。窓際の日当たりの良い席で一人、文庫本を読んでいる。最近になって読書に目覚めたらしい彼のその光景を見るのも幾度目かだった。
「今日は何を読んでるの?」
 挨拶の変わりにそう声を掛けると、尚志は顔を上げて明るく笑顔を向けた。
「なんだ、今日は遅かったな」
「……トルストイ? 千田が? この前はノムさんだったじゃない」
「いやマジあれは良かった。俺も人間の本質ってのに目覚めたね」
「だからトルストイ?」
「ドストエフスキーも借りてきた」
「読めるの?」
 大和が真剣な表情で聞くと「失礼な奴だな」と尚志が笑う。しかしどうしたって大和には尚志にロシア文学者は似合わない気がしたのだ。いや、例え日本人であったとしても坪内逍遥と尚志とでは不似合いな気がするが。
「さすがに長編は頭が痛くなるけどさ、これくらいだったら俺だって読めるよ」
 確かに彼が持っている文庫の厚さはそれほどなく、なるほどと大和は頷いた。そこにあったタイトルにも見覚えがあったからだ。今でこそ積極的に小説を読む生活を送っていないものの、昔はそれなりに読んでいた。中編小説と言えるような量の読み物であるそれは、けれど童話として翻訳されているものも多くあったのだ。
「ヤマトも読んだことあるのか」
 意外そうに尚志が尋ねる。大和は困ったように顔を歪ませて答えた。
「まあ、昔ね」
 それも祖母の影響だったと思い出す。結局今の大和があるのも、全て両親ではなく、祖母一人によるものが大きい。それもそうだ。あの頃は祖母の言葉が絶対だったのだ。祖母が大和を女の子だと言えば、男であっても彼は女の子になった。
「ふうん。ああ、それよりさ」
 尚志は広げていた本を閉じ、隣に座る大和に体を向けた。
「お前いつまでミーティングさぼるつもり? いい加減望先輩怖いんだけど」
 麻耶と良子とのことで来たくない気持ちも分かるけどさ、とボソボソと付け加えるが、尚志の本心はそこではないということに大和も気づいている。尚志には申し訳ないが、まだしばらくは二人に関わるつもりもないし、向こうも近づいてくることはないだろう。
「来週は出るよ。望先輩にもそう言ったし」
「会ったのか?」
「うん。偶然ね」
 大和が頷く。尚志はあからさまに安堵したように胸を撫で下ろした。相当言い詰められていたのだと分かり、大和は思わず苦笑を浮かべた。
 授業の始まるチャイムが聞こえる。
 不意に背中を叩かれ、尚志が振り返ると同じ学部の女の子二人の内一人が、内緒話を打ち明けるかのように口を寄せてきた。
「この後、一緒にお昼食べない? 最近坪井さんたちと一緒じゃないよね?」
 ああ、またか――と尚志は思う。こうして声を掛けられるのは月が変わって既に毎日のようにある。
「俺は別にいいけど……ヤマトは? どうする?」
「昼休みは図書館に居るから、僕は気にしないで三人で食べて」
「あー、そう?」
 二人は明らかに声の調子を落として、けれど尚志だけでも一緒に居てくれるというので微笑を浮かべて頷いた。尚志も彼女達に同情するように笑みを見せ、「じゃあまた後で」と声を掛けた。
「最近ずっとそうだけど、図書館で何やってんだ?」
 大和に聞いてみても彼は特に目を向けるでもなく答えた。
「秘密」
 本当はたいしたことはやっていない。ただ時間を潰すためだけに居るようなものだ。
 この大学の図書館が本館と少し距離のある場所に建てられていることが、そこに居る一番の理由だったのかもしれない。

――六月か。
 大和はもうそんな季節なのかと、窓の外にある空を見上げた。
 梅雨の時期には似合わない快晴が広がっている。今年は暑くなりそうだなと思った。