Cette Place

22


 昨年の十一月、その日は椿と一緒に帰ることになった。冬になる前の肌寒い季節だったが椿が隣にいるというだけで大和の心は温かかった。掌から伝わる温もりが心地よくて、思わず何度も指を絡める。手の甲を指の腹で撫でるたびに椿はくすぐったそうにして、その仕草のなんと愛しいことか。
「そういえば椿ちゃんの誕生日っていつなの?」
 それを尋ねたのはほんの思い付きだった。しかしとても重要な事のようにも思えた。言葉にして初めて、彼女の生まれた日を知らない自分が腹立たしくも感じる。
「え、六月だけど」
 何気なく答えた椿とは逆に、大和は驚愕し、次に大きく落胆した。
「やだ……もう半年も過ぎてるじゃない」
「ヤダって言われても」
 暗くなる彼の表情に椿は困ったように小首を傾げる。どうしたってしょうがないことなのだと、椿は思う。その頃はまだ、というかまさか、藤崎大和と自分がこういう関係になろうとは夢にも思っていなかったのだし、誕生日を知らないクラスメイトは大勢居る。むしろ誕生日を知っているクラスメイトといえばずっと仲の良い彩芽くらいのものだ。それは大和とて同じことだろう。
「不覚だったわ。……六月のいつ?」
「十八日……、だけど、気にしなくていいよ? あ、藤崎くんはいつなの?」
 慌てたように尋ねる椿に大和は答えず、ただじっと歩く先を見つめる。隣に自分が居るのに彼の見る先は違うところにある、ということに少し寂しく思う。
「藤崎くん?」
 椿がそっと声を掛けても大和は見向きもしない。知らず溜息が出て、俯いた。
「――名前」
 小さく、彼が呟く。
「え?」
「名前で呼んでくれるんじゃなかったの?」
「あ、え?」
 近づいてくる瞳。くすりと笑ってまた遠のいた。ほっと安堵した椿は、同時に高鳴る胸を意識した。顔はきっと赤いだろう。
「大和、くん?」
「そうよ、忘れないでね?」
 大和は優しく命令する。手の温もりに力を込めて囁いた。
 大和の誕生日は十一月だった。だから彼女に尋ねたのかもしれなかった。

 あの日のことを思い出して、大和は笑みを浮かべ、けれどここがまだ大学図書館の中だということを思い出して慌てて緩む頬の筋肉に力を入れた。そういえばもうすぐ椿の誕生日だ。
「あ、藤崎くん。おはよう」
 声を掛けられて顔を向ければ、何度か同じ講義を受けている学生だった。長い茶色の髪をなびかせて、濃い目の化粧を上手く塗りつけ、すらりとした体格の――どこにでもいそうな感じの女の子だ。
「おはよ」
 大和は背筋を正し、広げていたノートを片付け始める。彼女は空いていた彼の正面の席に腰を下ろすとニコニコと顔を近づけてくる。
「お昼はいつも図書館に逃げてるって聞いたけど、本当なんだね」
「逃げてるつもりはないよ」
 嘘だった。
 彼女は気にする風もなく髪をかき上げた。耳にぶら下がる大きなピアスが揺れる。ひどく大人びた仕草に、そういえば彼女は一つ年上なんだったと思い出した。どういった流れだったか、彼女自身がそう言っていたはずだ。二つ年上の望の方がずっと幼く見えるものだなと感心したことも覚えている。
「そう? 坪井さんを振って女なんて嫌になったって聞いたけど」
 大和はキョトンと目を丸くし、小さく吹き出した。
「なにそれ。誰からの情報?」
「違うの? 有り得そうじゃない?」
「有り得そうって……。ちょっと喧嘩してるだけだよ」
 ケンカ、という単語に彼女の顔は険しくなった。そんなカワイイものなの、と疑わしげな感じを漂わせた彼女を無視して、大和はさっさと立ち上がる。
 麻耶や良子との間であった事を公言するつもりはない。それこそ彼女達を傷つけることに繋がるだろうことは予想に難くないし、それは大和の意図するものではない。大和は二人を傷つけたいわけではないのだ。
 これはただのケンカで、けれど誰もが喚き散らすような子供でもないというだけで、謝ってさえくれればそれで良かった。
――いや、椿のことを含めばそれだけで気が晴れるということでもないが、今はもうそれだけでいい。これほど疲れることだとは思わなかっただけだ。
 ケンカは疲れる。それを忘れるくらい久しぶりのことに、大和も正直、どうしていいか分からないでいた。
「じゃあ、次も授業あるから」
「うん、分かった。また金曜日にね」
 カバンを手にとって彼女に背を向けた大和は、ふと思い立ってもう一度彼女に体を向けた。急に振り向いた彼に驚きながらも、彼女は「忘れ物?」と首をかしげる。
「あ、そうだ。ちょっと聞いてもいいかな」
「うん?」
「女の子って、どんなプレゼントを貰ったら喜ぶのかな」
「え?」
 唐突な質問に、失敗だったかもしれないと思う。椿の誕生日プレゼントなのに、彼女に聞くのは失礼かもしれない。
「ごめん。やっぱいいや、気にしないで」
 取り繕ったように笑う大和に、彼女は慌てて首を横に振った。
「あ、ううん、ちょっとびっくりしただけ。なに、好きな子でもいるの?」
「うん、まあね。もうすぐ誕生日だから」
 大和のはにかんだ笑みを初めて見た彼女は驚きつつも、それが自分のことではないことに寂しく思う。そんなふうに彼に思われる日は決してないのだと分かる。
「そっか。でも何でもいいと思うよ? 藤崎くんにそんなふうに悩んでもらえるの、その子だけなんだから、それが一番嬉しいわよ、きっと」
「そう、だね。やっぱり自分で考えてみる。ありがと」
 大和は小さく頷くと、ひらひらと彼女に手を振って図書館を出る。確かに、椿が選んでくれたものなら何だって嬉しい。椿もきっとそんなふうに思ってくれるだろう。
 空は相変わらず快晴で、天気予報によれば入梅は例年よりも一週間は遅くなるということだった。異常だな、と思う。

 あの日、二人で手を繋いで帰った日、六月生まれなのに「椿」という名前は不思議だね、と聞いたことがあった。椿は少し困ったような、どこか恥ずかしそうに顔を赤らめて、頬を膨らませた。
「変だよね。椿は春の花なのに、六月って夏だし。まぁ、梅じゃなかったのは良かったけど」
 椿は梅干が嫌いだった。
 不貞腐れた表情さえ可愛くて大和は愛おしそうに椿を見つめていたが、不満げな彼女よりも笑顔の方が好きなので、優しく囁いた。
「でもカワイイ花よ。椿ちゃんによく似合ってる」
 途端に椿は耳まで赤くさせて、大和は思わず抱きしめたくなった。
 道端でそんなことをしたら明らかに彼女を怒らせてしまうので思いとどまったが。
「そ、そういう恥ずかしいこと、言わなくていいよ……」
「あら、本当のことじゃない」
 しれっと言い切る大和に椿は呆れた表情を浮かべたが、それでも嬉しくないと言えば嘘になるので、それ以上は言わないことにした。大和がカワイイと言ってくれた、それだけで、初めて自分の名前を好きになれそうな気がした。
「本当はね、お父さんはナツキとかナツミとか、そういう名前にするつもりだったんだって。でもお母さんが椿にするって言って聞かなかったらしいの」
「どうして?」
「……椿って、満開のまま花を落とすじゃない」
 言いにくそうな様子でボソボソと呟くように言う彼女に、大和は首を捻る。
「確かにそうね。だからお見舞いの花としてはNGなのよね?」
 コクンと頷いた椿の手に力が込められ、大和は宥めるように優しくその手を握り返した。
「……だから潔くてお母さんの好きな花で、そんなふうに決して枯れたりしない子になるように、って……」
「あら、ステキじゃない」
 大和は不思議そうに椿の顔を覗き込むが、彼女は心外だとばかりに頬を膨らませたまま眉間の皺を寄せていた。
「だってそれって、若死にしろってこととも取れるでしょ」
「あ、ははっ!」
 消え入りそうな椿の声とは反対に、大和は思わず大声で笑った。椿はますます顔を赤くして大和を睨みつける。
「だから嫌なんだってば!」
 椿が叫ぶものの、しばらくは大和の笑いは止まらなかった。
 ようやく収まった時は、すっかり椿の機嫌は悪くなっていた。あまり怒ったりしない彼女だったので、それには大和も焦った。
「ごめん、ごめんね!? もう笑ったりしないから!」
「もう知らない」
「椿ちゃーん……」
 椿は繋いだ手を振り放そうとするが、大和はそれだけはと強く握り締め、離さない。男女の差を見せ付けられたようで、しばらくすると椿も抵抗するのをやめた。かといって表情の険しさは緩まず、いっそう難しくなったように見える。
「椿ちゃん、ごめんね。もう笑わないから、許して?」
「……」
「アタシ、好きよ。椿って名前。可愛くて。由来なんてあってないようなものだし、気にすることないわ。それに誰も早く死んでほしいなんて望んでなんかいないわよ。むしろずっと隣に居てほしいもの」
「……だからってあんなに、笑うなんて」
 だってそれは――。大和は言いそうになった言葉を飲み込んで、もう一度ごめんねと謝る。小さくなっていく声に椿の怒りも収まってきたのだろうと感じた。
 だってそれは、椿の母親はやはり椿の母親なのだと、そう分かったのが嬉しかったからだ。きっと椿も、大人になっても母親のように今のまま、可愛いまま、大人になっていくのだと垣間見えた気がして、嬉しかったからだ。
 繋いでいた手を離して大和はそっと椿の頬を両手で挟む。上を向かせた彼女の瞳が僅かに潤んでいて、大和はそれに釘付けになる。
「――ごめんね」
「――もう、いいよ」
 優しい沈黙の後、微笑んだ椿の顔は、花の美しさよりもずっと綺麗だった。