Cette Place

23


 夢を見た。
 けれどどんな夢だったかを忘れてしまった。
 懐かしいような、優しいような、そんな夢だった気がする。とても暖かい気分の夢だった。
 大和は布団から体を起こすと、カーテンを開けて朝日を浴びた。目の前のマンションが日の光を邪魔しつつも、空の青色が見える。今日も晴れだ、と決めた。
 手早く寝癖を整えると、クローゼットから適当に服を選び、冷蔵庫からミネラルウォーターの入ったペットボトルを取り出す。朝はいつも水だけを飲んでアパートを出る。初めの頃はきちんとパンを焼いたり残飯を温めたりして部屋で食べていたが、生活に慣れれば慣れるほど大雑把になっていき、今では朝と昼は大学の食堂で食べることの方が多くなった。金は少しかかるが、何より手間が省ける。
 起床して30分で部屋を出た。だいたいいつもそれくらいだ。女性ならばもっと時間がかかるかもしれないが、その点男で良かった、と思ったりする。
 駅に着くと電車を待つ間のホームで椿にメールを送る。返事はほとんど昼ごろに返ってくる。それでも無視されるよりはずっと嬉しくて、そのことを知れたのはきっと合宿での事があったからだ。「おはよう」と言って「おはよう」と返ってくる、それだけで良い。マジメな椿は一つ一つに言葉を返してくれるから、つい大和も話すよりずっと多くの言葉を文字にしてしまう。危うく誕生日のことに触れそうになって、大和は慌ててクリアボタンを押した。
 電車がホームに滑り込み、人の波が入れ替わるように流れていく。大和もその流れに沿って車両に入ると、押されるようにしてつり革を掴む。朝のラッシュはいつになっても慣れることはなく、けれどもう一本早い電車に乗ろうという気もなく、ただ顔を歪ませて車窓の向こう側を眺めていた。何の変化も見せない風景のようで、しかしそこにいる人たちの着ている服はすでに2ヶ月前とは趣を変えている。
 大学へ向かう途中のコンビニで朝食なるおにぎりを二個と紙パックの緑茶を買い、食べる場所は食堂でいいか、などと考える。
「おっすー、ヤマト!」
 食堂へ入るとすぐに声を掛けられ、そちらに目をやれば尚志が片手を大きく振って呼んでいた。
「おはよ。千田が朝から食堂って珍しいね」
「そうかぁ? それより刑法のレポートやった?」
 伺うような視線に大和は思わず苦笑いを浮かべた。
「比較分のやつでしょ。いいよ、見ても」
 大和がレポート用紙を取り出すと、尚志は恭しく両手で受け取った。
「でも丸写しはダメだからね。僕も減点される」
「大丈夫。その辺の抜かりはないから。つか俺、高校の時もバレなかったし、3年間」
「どんだけなの」
 大和が可笑しそうに言えば、尚志は得意げにニヤリと笑みを見せた。なかなかに自信があるようだ。
 尚志がレポートを写している間に大和はおにぎりを頬張る。一人で食べるよりは味がした。
「あれ、千田じゃないか」
「千田っちー、おはよー」
「藤崎もおはよー」
 二人が顔を上げると三人の同級生が隣にやってきた。尚志と大和が言葉を返す前に、三人は横の席へそれぞれ腰を下ろした。皆同じ学部の男子学生だ。大和はあまり話したことはないが、尚志とはそれなりに親しいようだった。考えてみれば今まで積極的に大和に話しかけてきたのは男よりも女の子の方が多かった。
「げっ」
 おはよう、と同じように返す大和の横で尚志が表情を歪める。
 けれど彼らは気にする風もなくケラケラと笑った。
「なんだよ、千田っちー。ツレないやつだなぁ」
 長めの髪を茶色に染めた男が言った。細身の長身で、他の二人より頭一つ分背丈が高い。
「だってお前ら、女とスポーツの話しかしねえんだもん」
 尚志は詰まらなさそうに言い放つ。
「それ以外に何があるんだよ?」
 すかさず言い返したのは短髪の男だった。目が細く、鼻の高い彼は、他に何もないと言いたそうな顔をしていた。誰かに似ている、と思い、大和が思い浮かべたのは高校の化学の教師だった。神経質そうな顔立ちをしている。
「千田っちは男の話でもするのか?」
「そ。ヤマトと熱い友情について語り合ってんだよ」
「レポート写しといてよく言うぜ」
 そう言って笑ったのは丸い顔の男だった。髪の先端だけが茶色く染められている。肩幅のある彼は一人だけジャージ姿だった。
 言い返せずにいる尚志の視線が食堂の入り口のところで止まる。あ、と声を洩らし、大和がその視線の先を追おうとする前に逸らした。
「ごめん、ちょっと待ってて」
「おう」
 返事をしたのは大和ではなかった。
 尚志が席を立った先に目をやれば、大和は「ああ」と納得した。そこには麻耶の姿があった。今の大和にとって彼女と良子のことはご法度だと彼なりに判断し、おそらくそれは正しかったのだろうと思う。
「でさ、藤崎」
 三人の内の一人が声の調子を変えて大和に顔を向けた。マジメな顔になった三人を見て、大和は小首を傾げる。名前もちゃんと出てこないほどの間柄の彼らに、真剣に相談されるようなことはなかったはずだが……。
「ものは相談なんだけどさ、今週の金曜日って空いてるか?」
「金曜? どうして?」
 大和が聞き返すと、するすると一人が彼の隣の席へ移動し、内緒話をするように顔を寄せて来た。
「実はK女子の子たちと会うことになったんだ」
「合コンってこと?」
「平たく言えばそんなもんだな。ただ飲んで話すだけだし、いいだろ?」
 大和は考えるまでもなく首を振った。椿がいるのに行くわけがない。
「行かないよ」
「え!? なんで!」
 それが予想外の答えだったようかのに三人は声をそろえて叫んだ。まるでそれ以外の答えがないような表情に、大和は肩を竦めた。
「坪井を振ったんだろ?」
「付き合ってたわけじゃないし」
「つうことはフリーってことだろ?」
「カノジョいるし」
「問題なし!」
「有りまくるっつーの!」
 男の頭を叩いたのは尚志だった。三人は驚いて体を仰け反らせた。
「千田っちー、ちょっと早くねえ?」
 不満を洩らす彼に尚志は大げさに溜息を吐いて見せた。
「だから嫌だったんだ。ヤマトはお前らと違うんだよ」
 尚志は言いながら、テーブルの上のものをテキパキとした動作で片付けると、大和に立つように促した。
「行こうぜ、ヤマト」
「あ、うん」
「何でもいいけど考えといて、藤崎。千田っちも誘ってやるからさ」
 三人はそれでも笑って手を振っている。呆れた顔の尚志に、大和も同じように笑った。きっと彼らは強いんだろう。
 食堂を出て教室に入る。まだレポートを完全に書き写せてなかったらしい尚志は早速ノートを広げて作業を再開し始めた。
「ヤマトは女だけにモテるわけじゃないんだ。意味は違うけど」
 シャーペンを走らせながら言う尚志に、大和は曖昧に相槌だけを打つ。
 欲しいもの一つだけなのに、求められないのはつらい。けれど、欲していないものを与えられるのも、良いものではないのだ。
 きっと今まで尚志が守っていてくれたのだろう。
「ありがとね、千田」
 気になることもあるけれど、と麻耶と良子の姿を思い浮かべた。彼女達は、また、尚志の友人でもあったはずだった。それを壊したのは紛れも泣く自分で――。
「ごめんね」
「何が? 謝られることは何もねえよ」
 そう言ってくれるから救われる。