Cette Place

24


 晴れだと思っていた空は次第に雲行きを怪しくしていき、午後を過ぎた辺りからポツリポツリと湿った空気を漂わせ、夕暮れを見せるはずの時刻には騒がしく雫を落としていた。
「困ったわ……」
 大和は思わず呟き、本館の玄関前で立ち止まったまま空を見上げた。すっかり暗く染まった雲がゆっくりと流れ、けれどその後にも黒い雲が横切っていく。何段も重なった雨雲は一向に開けそうにもなかった。
 ふと、雨は嫌いと言っていた彼女の声を思い出す。自分は好きだと言ったけれど、今はあまり好ましく思えない。周りの学生達はしっかり天気予報を見てきていたらしく、何の迷いもなく傘を広げて彼の横を通り過ぎていく。大和はもう一度口の中で「困った」と言葉を洩らした。かつてのように濡れて帰る覚悟も持てないまま、ただ途方にくれる。これは成長したということかしら、とぼんやりどうでもいいことを思う。
「藤崎くん?」
 不意に後ろから声を掛けられて振り返ると、望が小首を傾げてこちらを見ていた。
「どうしたん?」
 彼女はなぜこんな所で突っ立ったままなのだと言いたいのだろう。大和は僅かに肩を竦めてみせた。彼女の手にはしっかりとビニール傘が握られていた。
「傘持ってきてなくて……」
 すると望はもともと大きな目を更に大きくさせて驚いた。
「えっ。だって今日の降水確率、午後は80%やで?」
「あー……見てなかったです」
 やはり素人が空を一瞥しただけでは一日の天気を測ることなどできないのだ。天気予報士が国家資格の中でも難関と言われるだけのことはあるものだと痛感する。ただ大和の目指すものはそれではないので、おそらくまたこれからも同じことを繰り返すだろうことは分かっていた。
「しょうがないなあ。優しい先輩が入れたるわ。ほら」
 いたずらっぽく笑った望が傘を広げて大和に向かって腕を伸ばした。女性の中でも比較的背の低い彼女が腕をいっぱいに伸ばしても、ようやく大和の頭上に傘が届くかどうかだ。
「ありがとうございます」
 大和は望から傘を受け取り、彼女の肩まで濡れないように持ち上げた。コンビニで売られているようなビニール傘ではどうやっても二人は狭かったが、全身ずぶ濡れになるよりは多少カバンや肩が濡れるくらいはどうってことのないように思う。
「けど、先輩に声掛けてもらえて良かったです」
 門を出て駅に向かう途中で大和が言った。
「ああ、帰り道同じやしね。駅まで一緒って人はけっこういるけど、その後はどうしよう、やもんなぁ」
「コンビニで傘を買わなくて済みました」
 望はふふっと笑って「そら良かったわぁ」と満足げな表情を浮かべた。
 ちょうど信号が赤に変わり、二人は足を止めた。
「そうや、ミーティング、また来週にあるからね。前のミーティングでも言ったと思うけど」
 思い出したように望が大和を見上げ、大和は苦笑を浮かべた。
「覚えてます。千田にも言いましたけど、ミーティングにはちゃんと出ますよ」
「ならええねんけど……」
 車が数台、目の前を通り過ぎ、信号が青に変わる。並んでいた学生が同じように足早に横断歩道を渡っていく中で、大和は望の歩調に合わせてゆっくりと歩き出した。ぼつぼつと重い雨音がビニールに当たる。商店街を抜ける細い道に入り、屋根から落ちる雫の音だと気づいた。
「雨、これからだんだん多くなってくるなぁ」
「嫌いですか?」
 ぽつりと言った望のせりふに、大和は意外そうに聞いた。彼の中で望は雨でも雪でもその日の天気を楽しめる人のように思っていた。
「嫌いって言うか苦手。今も水溜りで靴の中が湿ってきてやるし」
 望が自分の足元に目をやる。確かに履いているスニーカーの布地の部分が濡れ、ついでにジーンズの裾の端も濡れて色が変わっていた。それは大和も同じだった。
 クスリと微笑んだ大和に、望は不思議そうに顔を向けた。何がそんなに可笑しいのだろう、と目で尋ねる。
「ア、僕の彼女もね、同じような事を言ってたなぁと思って」
 雨は苦手だと言っていた椿は、けれど梅雨の時期の生まれだったのだと知ったのはそれからしばらくした後だった。夏生まれだからといって暑いのが得意というわけではない、ということと同じことなのだろう。
「雨が苦手って? たいていの人はあんまり好きやないと思うけどなあ」
 大和はもう一度微笑んで言った。
「僕は好きでしたよ。窓を打つ音とか、降る前の湿った空気のニオイとか」
「や、それ、なんか違う……」
「そうですか?」
 キョトンと首を捻る大和に、望はおかしそうに笑った。
 きっと雨を見る角度が自分と彼とでは違うのだろう、と望は思った。そして彼の恋人と自分の感覚が似ていると指摘されてなぜか嬉しかった。
 駅に着くと普段よりも人が溢れているように感じるのは雨のせいだろうか。傘が滴り落ちていく水滴でホームは濡れていて、けれど誰もそのことを気にする様子もなく並んでいる。きっとそんな些細な事は誰の目にも映っていないのだ。あるのはホームの屋根に跳ねて踊る雨の音と、湿った空気で流れてくる独特の匂いだけ。
「――藤崎くん、ケンカしてるのは麻耶ちゃんと? それとも良子ちゃん?」
 閉じた傘を大和から受け取った後、望は言いにくそうに視線を逸らしながら、はっきりとした口調で聞いた。一瞬大和の呼吸が止まったのを感じた。やはり失敗だったかと表情を歪ませたが、放った言葉を取り消す術など知らない。
「やっぱり……目立ちますよね」
「そういう問題とちゃうやろ」
 望は思わず言い返してしまった。確かにそういう問題ではないのだ。これは、自分が口を出していい問題ではないのだろう。
 大和は強い口調で言い返されたことに驚きつつも、それで腹を立てるようなことはなかった。確かにその通りだ。目立つとか、そういうレベルの話をしているわけではない。知らずに話題を避けるようなマネをした自分にも、驚き、情けなく思う。いつまで逃げるつもりなのか。
「最近態度おかしいん、藤崎くんだけとちゃうねん。麻耶ちゃんも、なんか辛そうやし」
 言って、「ああ、ちゃうんねんな」と望は頭を振った。
「麻耶ちゃんは……まあ分かるんよ。噂くらいは聞いてるし。問題は良子ちゃんや。あの子も最近、変なんよ」
「変、って?」
 大和が尋ねれば、望は表情を険しくしたまま俯いた。下唇に指を当て、考え込むような仕草を見せる。
「同じ学部やのに気づかんの? 元気ないっていうか何ていうか。悩んでるみたいや」
 そう言われても大和にはなんと返事していいのか分からなかった。お互いに徹底的に無視していれば相手の顔色の変化に気づく余裕すらなかったからだ。それでも学年も学部も違うのに望の方が良子の変化に気づいているのに、自分は知らなかったということに我ながら呆れるくらいにその徹底振りに感心した。望でも分かるほどの変化なら麻耶はともかく、尚志も当然気づいていただろう。尚志からも聞いていないことを考えれば、それも彼なりの配慮だったのかもしれない。気分は複雑だった。
「うちがこんなん言うの、ただのお節介なだけかも知れんけど、悪く思わんといてや」
 そう前置きをして、望は顔を上げた。真っ直ぐと大和の目を見据える。
「例え誰が悪いとか言うても、結局は皆社会の中で生きていく人間やねん。無視して改善されることなんて何もあらへんねんで。それだけは分かっといてな」
 無視して改善されることなんて――。そんなこと、誰よりも分かっている。
 関わらないからと言って一度形成された関係を全くのゼロにすることはできないのだ。分かっている。けれどその先からどうすればいいのかが分からない。もう近づかないと言ったのは良子で、自分もそれが最善策だと思った。なのに今更、自分が動いてどうなるというのか。
 そう――、全てが「今更」で片付いてしまうような、それほどの時間が流れていればいいのに、と思う。
「あ……半分は東原君の受け売りやねんけどっ」
 気まずい沈黙を埋めるように慌てて顔を赤くする望に、大和はふと力を抜けるのを感じた。確かに社会だの改善だの、そんな難しい言葉は彼女に似合わない気がした。
「今度、千田にでも相談します」
「ん、それがええわ。持つべきものは友達やで!」
 望は大きく頷き、元気よく大和の腕を叩いた。
 と同時にカバンの中に入れていた彼女の携帯電話が着信を知らせる。
 ホームに電車が来ることを示すアナウンスが流れる。
「あ、彼氏からやわ」
 メールを開いた望がそう言ったのとベルが鳴ったのはほぼ同時だった。
「お迎えですか?」
 大和が声を掛けると、申し訳なさそうに望が頷く。
「ごめん、傘だけ貸そうか? うち、彼氏に入れてもらうし」
「いや、いいですよ。悪いです。駅に着いたらコンビニで買いますよ。高々700円ですし」
「ホンマごめん! じゃあね!」
 電車が滑り込み、ドアが開く。大和はそれに乗り込み、両手で謝罪のポーズを取った望は素早く向かいのホームへ駆けていった。そういえば望の彼氏はS大の学生だと言っていたのを思い出した。そして、あの冷たい目……。
 大和は肩についた水滴を片手で払うと、閉まったドアに背中を預けた。揺れる車内の中にも湿った空気が漂い、だがすぐにそれは浄化されていく。若干掛かったクーラーの冷気で少し寒いくらいだった。
 あれ、そういえばあの駅には、果たしてコンビニがあっただろうか。