25
雨が響いている。
「届いた?」
静かな廊下。大和が問いかければ、電話の向こうで頷く吐息が聞こえた。
『うん。ありがとう。大事にするね』
遠くから学生達の声がする。大和はもう僅かに窓際により、姿の見えない彼らから距離を取った。
「気に入ってくれてアタシも嬉しい」
大和がふふ、と微笑む。しかし椿の反応はなく、彼は首をかしげた。
「どうしたの?」
『……あ、ううん。大和くん、アタシに戻ってるなぁと思って』
「ああ、うん。でも基本的にここではボクなの。椿ちゃんの前でもその方がいい?」
何気なく言ったつもりだった。以前、椿の前でも一人称を変えたら彼女はひどく動揺したから、椿には今までどおりが良いだろうと思った。けれど使い分けるのは――小学生のあの頃よりも簡単なようで――難しい。
椿にも伝わったのだろうか。僅かに空いた沈黙に、雨の音が強くなる。
『……うん。そのために離れたんだもん。あたしの前でもそれでいいよ。ちょっと……寂しくなるけど』
「……椿ちゃん」
「ふーじーさーきー!」
突然大声で呼ばれ、振り返れば望が大きく腕を振っている。
「ごめん、椿ちゃん。呼ばれたから切るね」
申し訳なさそうに声を潜めて言うと、電話の向こうではクスクスと笑い声が聞こえた。落ち込まれるよりはその方が良く、大和はほっと安堵する。
『ううん。楽しそうで良いね』
「ん、ほんと。どこ行っても騒がしいわ、アタシの周りって。椿ちゃんの横が一番癒される」
言ってから、失敗だったかもしれないと気づく。
『あ……そ、っか……。ありがとう……?』
照れている。真っ赤になっている彼女の表情が頭に浮かんで、大和は微笑んだ。いちいち反応をしてくれる椿が可愛くて仕方がない。あの時も――キスをする時も未だ彼女は恥ずかしそうに俯いていた。
「それじゃあ、また電話するね」
言いながらも、まだ後ろから大声で名前を呼ぶ友人に舌打ちしたくなる。
『うん。また』
そう言って静かに通話が切れた。
ほう、と余韻に浸る間もなく、その声は急激に近づいていた。
「藤崎ー!」
「なんだよ、さっきから!?」
思い切り振り返って見れば、そこに居たのは尚志ではなかった。てっきり彼だと思っていた大和は多少拍子抜けしたものの、がっしりと肩を組んできた友人の男の腕を振り払った。
「なんだよって、さっきから呼んでるのに返事しなかったじゃん」
「電話中だったんだよ」
しかも大切な椿との貴重な時間だったのに。
恨みがましく睨みつけるも、尚志と同じように彼には何の効果ももたらさなかった。
「そっか、悪い悪い」
ヘラヘラと見せる笑顔に、本当に悪いと思っている部分があるのだろうか。
「ところで夏休みさ、海行かないか?」
それは突拍子のない話題展開だった。へ、と大和の目が点になる。まだ季節は梅雨の半ばで、夏休みの前に試験もあるというのに。
「海……?」
「そう! 千田も誘って4人で海の家のバイトするんだよ。水着の女の子いっぱいだぜ〜」
「……あ、そう」
大和には返す言葉も無かった。結局はこの間の合コンと同じなのだ。
「僕はいいや」
あっさりと断った大和だが、彼はそんな大和の返答は予想済みだったかのように、特に慌てる様子もなくヘラヘラと笑みを貼り付けたままだ。それが大和には気味悪く感じた。
「彼女だろ。良いじゃん、別に。水着の女の子達は俺たちに任せて、藤崎はバイトに精を出してくれたら、オールオッケー!」
なんだ、それは。
「絶対に断る」
彼の、尚も絡み付こうとする腕を振りほどきながら廊下を進む大和に、彼は慌てて追いかけた。この計画は容姿が抜群な大和が居なければ成立しないのだ。彼も彼女いない暦に終わりを告げるために必死だった。
「そんなこと言わずにさあ、頼むよ! なんだったら彼女を連れてきてもいいし!」
言いながら、彼は自分を褒めたくなった。そうだ、この手があった。
「彼女の水着、絶対可愛いぞ〜。ひと夏のアバンチュール、燃えるぞ〜?」
「誰が他の男に水着姿を見せるの。それにひと夏だけで終わらないから、別にいい」
「わわっ、冗談だって、冗談!」
さっさと先へ進む大和を追いかけて彼は焦った。今のは失敗だ。言い方がまずかった。
「彼女の水着は藤崎だけが堪能すれば良いじゃん? 俺たちは俺たちで忙しくしてるからさぁ。ほら、夜とか特に、俺たちも忙しくなる予定なわけだよ! ってことは藤崎にも部屋で2人きりのチャンスがあるわけだ」
ポン、と大和の肩に乗せた手は、振り払われることは無かった。
ニヤリ、と思わず笑みがこぼれる。もう一押しか。
「海の見える部屋で、月だけが空に浮かんでいて、ふ・た・り・き・り! それで何もナイわけがナイ! シチュエーションとしては最高だろう!?」
「……」
「これ以上何が必要だ」
ピタリと足が止まった。もちろん大和の足が、である。
「……もし夜に暇を持て余してても、部屋はないからね」
それは確かに、大和も一人の男であるという証の一言だった。友人も所詮はただの男だと分かり、彼は内心で思い切り拳を突き上げた。
雨が響いている。
良子は雨が苦手だ。連日続く雨は、いつも嫌なものしか運んでこない。
「良子、ちょっと待って」
講義を終えて教室を出ると、追いかけるように麻耶が声を掛けた。てっきり隣にいたと思っていた彼女が人の波に押されてまだ教室の中にいることに驚き、足を止めた。
ようやく教室を出られた麻耶は額に汗を浮かべていた。冷房の効いた教室を出れば、いつもの湿気の溜まった空間で、それだけで息苦しさを覚えた。
「ねえ良子、次空いてるよね」
「うん?」
廊下を進み、いつもと同じように図書館へ向かおうと渡り廊下へ差し掛かったところで麻耶が言った。振り返ると麻耶が図書館とは別の方へ指を差して立ち止まった。
「ちょっと相談があるんだけど」
「うん、わかった」
良子はコクリと頷いて微笑んだ。麻耶からの相談は久しぶりな気がした。
ビニール傘を開いて雨の中を通る。朝は小雨だったが、今は大きな雫がボトボトと雨音を立てていた。渡り廊下の下には別館へ続く廊下が一つ通っていて、渡り廊下ほど人の行き来がない場所だった。
「あたし、いつまでこうしてたらいいのかなぁ」
それは藤崎大和のことだということは、麻耶が言わないでも分かった。良子は何も言わず、ただぼんやりと窓の外を眺める麻耶を見つめた。
正直、今の状態は良子にとっても分からないでいる。彼女が望んでいた状況が、期待していた事は、何ひとつ起きてはいないのだ。
「このまま話も出来ないなんて嫌だよ……」
コテンと頭をテーブルに付ける。本当に参っているような麻耶の様子に、さすがに良子も俯いた。元はといえば自分の蒔いた種だった。良かれと思ったことが、結局は大切な友人を苦しめている。
でも今日は雨だ。
雨の日は嫌な事ばかりが起こる。
「あっ」
突然に麻耶が顔を上げた。その視線の先を辿ると――。
廊下の隅で大和が電話をしていた。嬉しそうな表情に、相手は彼の恋人だと察する。麻耶の表情が曇るのが分かり、良子も顔を歪めた。
「あんなカオ、向けてくれるのがあたしだったら良かったのに」
ほう、と麻耶が吐き出すように呟いた。それは紛れもなく本心だったろう。
大和は時折楽しそうに、肩を揺らして微笑む。幸せそうな笑みが自分に向けられたものだったなら、どれほど嬉しいだろう。
「ちょっと近づこうか」
そっと立ち上がった麻耶に、良子は黙って後をついていった。それに何の意味も無いことは知っているのだ。
普段なら気づいた時点で何気なく距離を取る彼女たちだったが、大和がこちらに気づいていないことをいいことに、何とか声の届くところの壁に背をもたれかけて。なんでもないフリをして耳だけは一点に集中させるその様は、かっこ悪く映っているかもしれない。
雨の音は遠くになった。
「――うん、そう。皆で行くことになって」
彼の弾んだ声に麻耶の胸は苦しくなる。その甘い声を、聞いたことはなかった。
「――そう? そんなことないとないわよ。――ふふ。アタシは嬉しいけど?」
その甘い声を……。
「うん――じゃあ、またね。――ん、また……」
その、甘い声を。
「あ……」
先に逃げ出したのはどちらだったか。
大和がこちらに気づく前に、麻耶と良子は傘を広げて、雨の中へ歩き出した。
ボトボトと激しく雨音が傘を鳴らす。
良子は雨が苦手だ。嫌なものばかり運んでくる。それを自分は、いつもどうすることもできずにいるからだ。