Cette Place

26


 ドアを開けるといつもそこにあるのは暗いままの部屋だ。良子はドアに鍵を掛けると、靴を乱雑に脱ぎ捨てて廊下の電気も付けずにリビングへ向かう。明りをつければ、ダイニングテーブルの上に置かれたメモと封筒が目に入る。荷物を椅子に置き、メモを片手で拾い上げた。見慣れた母の丸まった文字が、見慣れた言葉を綴っている。わざわざメモを残す必要もないほど日常的な事に、母はそれでも唯一のコミュニケーションだとでも言いたげだ。良子がそのメモの返事を最後に書いたのは随分と前のことだというのに。
 椅子に置いたカバンを自室へ持っていったところへ、ちょうど携帯電話のバイブ音が響く。電気をつけてケイタイをカバンから取り出せば、先ほど分かれたばかりの麻耶からの着信だった。良子もそんな気はしていたので、特に反応するわけでもなく、通話ボタンを押して耳に当てた。
『もしもし、良子?』
 麻耶の声の後ろで小さく雨の音がする。まだ彼女は家に着いていないようだ。
「うん。どうしたの」
 用件は分かっているのに、良子は柔らかい声音で麻耶に問いかける。強張っていた彼女の声も幾分か落ち着いたような気がした。
『いや、あの……さっきの、ヤマトくんなんだけど……』
「ああ、うん。……びっくりしたね」
『ね、ねぇ! びっくりした! 聞き間違いかと思っちゃった!』
 良子の共感を得て麻耶は、興奮気味に声を張り上げた。麻耶もまだ信じられない様子を見せる。
『ヤマトくんって……、そう、なのかな……?』
 「そう」とは「どう」なのか、良子は理解するにも嫌悪感を覚え、思わず表情を顰めた。目の前に麻耶がいなくて良かったと思う。
『椿ちゃんって人、本当に“彼女”なのかな……』
 自信のなさそうな麻耶の声に良子は何も言えなかった。珍しくはあるが、確かにどちらとも取れる名前のような感じもする。
 大和が“普通”の男だとして、電話で話していた口調に説明がつかない。ああいう口調の男はたいていが「そちら」側の人間であることが多い、と良子は思っている。それにあの口調は言い慣れていた気がする。自分達に隠していたことにも意味があるのだろうか。
『ど、どうしよう、良子?』
「どうしようって……どうしようもないでしょ。麻耶はどうにかしたいの?」
 麻耶は声を詰まらせて小さく唸った。
「……千田くんは知ってるのかしら」
 良子が呟くように言い、麻耶はハッと喉を鳴らした。
『どうなんだろう? 明日聞いてみる?』
「でも、無粋かも」
『じゃあ……、やめとく?』
 良子はベッドへ腰を下ろして考えてみる。もし尚志が知っていたとしたら、やはり何か秘密があるのだろう。合宿のことで大和と絶交状態になっているが尚志とは時々話す仲だ。大和のことで信用がないのは分かっているが、公言していないところを見れば秘密にしているということのはず――。もし尚志が知らなければ、誰に話すつもりのないことだ。尚志に言っていいのか……。
『良子?』
 麻耶の不安そうな声に良子は思考を止めた。
「ああ、うん――……」
 カバンを引き寄せ、意味もなく抱きしめる。固い革が腹に当たった。
「それとなく、聞いてみ、る?」
『う、ん!』
 詰まるように麻耶が返事をした。
 果たしてこれで、良いのだろうか。


 空は曇っていた。空気は湿っていた。雨は降っていなかった。尚志は信号を待ちながら差していた傘を閉じた。
 信号が青になり、警備員が両腕を広げて学生達を誘導し始めた。
「おはよっ!」
 背中を叩かれ、尚志は振り返った。麻耶がにっこりと微笑む。元気そうな表情に尚志はどこかほっとした。最近の彼女は目に見えて大和のことで悩んでいたからだ。
「はよ。朝から会うなんて珍しくね?」
「そだね」
 麻耶は再びにっこりと笑みを作り、ちらりと横目で尚志を盗み見た。
「あ、そういえばこの前言ってたライブのチケット、本気で取れそうなんだ。坂ちゃんも誘って行こうよ」
「本当に? うん、行きたい!」
「あー、でも坂ちゃん、ロックとか好きかな?」
「んー、好きじゃ、ないかも……」
 どちらかといえば良子の趣味は渋い。フォークソングの良さは麻耶には分かりづらかった。
 大学の門が見えてきた。尚志はどうやって良子を誘おうかと顎に手を当てる。
「あのさ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど。……ヤマトくんのことで」
「ヤマト?」
 ぴくりと尚志の耳が震えた。驚いた表情で麻耶を見下ろす。彼女は俯いていてよく顔が見えなかった。
 大和と麻耶の関係は微妙だった。尚志にはどれほどの亀裂が2人にあるのかは知らない。それでも麻耶はずっと大和を見ていた。それは近くにいた尚志にはよく分かる。最初は大和の名前すら口にしなかったのに、最近では今日の彼はどうだったかと聞いてきたりする。尚志はそんな彼女が好ましく思える。
 合宿で何があったのか、詳しくは知らない。けれどいつまでもこの状態が続く気はしなかった。
「昨日は特に話すこともなかったけどなあ」
 そういえば昨日は大和のバイトの話を聞いた気がする。どんな内容だったかは、それほど覚えていなかった。
「や、そうじゃなくて。ヤマトくんの、彼女なんだけど」
「ああ……椿、ちゃん?」
 尚志は首を傾げた。どうして麻耶にとって不快であろう話を自ら聞きたがるのだろうか。確かに大和の恋人に尚志も興味はあるが、麻耶にとって言わば恋敵である。わざわざ聞くことでもないだろうに。
「どんな子なのかな」
 麻耶の声が少し震えていることに気づく。尚志はひどく困惑した。
「ヤマトはカワイイとか言ってたけど、あいつの判断基準は未知数だし」
「ふうん?」
「ああ、この前の合コン断ったって聞いたなぁ。タイプとか聞いても椿ちゃん、だしさ。よく分からねえ」
 麻耶の心臓がドクンと高鳴る。それは恋人一筋というだけ? それとも――。
「ほ、ほかに何か、言ってた?」
 麻耶は恐る恐る尚志を見上げる。尚志はいや、と首を横に振った。
「別に何も。どうして?」
「それは……」
 言っても、いいだろうか。
 麻耶は思案する。良子には止められていた。彼女の言うことはいつも正しい。入学の時も、合宿の時も、いつだって急く麻耶のストッパーになってくれていたのに。
「ううん。ただちょっと、気になったから」
 麻耶はは勢いをつけて顔を上げた。にっこりと笑って明るい声を上げてみせる。虚を突かれたように尚志は驚いた。
「あっ、あたし先行くね。じゃあ商法Tでねっ」
 そう言うと片手を振って麻耶は駆け足でその場を離れた。尚志は驚いたまま彼女の背中を見つめる。
 いったい何があったというのだろう。
 後ろからおはよう、と友人に声を掛けられ、尚志はまた振り返って「おはよ」と応えた。
 細く整えられた眉に、金に染めた短い髪を立て、軽音楽部に入った尚志の友人は、例のライブチケットの提供者だった。
「あれ、さっきの坪井じゃなかった?」
 既に門をくぐろうとしている彼女を遠目に見つめながら、尚志は軽く頷いた。
「そうだけど」
 すると彼は納得したように小さく頷く。
「ああ、やっぱり。坪井ってけっこう可愛くね?」
「あーうん、かわいいと思うよ」
「だよな。藤崎にはもったいねえよな」
 実は麻耶は同じ学部の学生から割りと人気があったりした。それは女子の前では表立って知られることではないが、大和もきっとしらないんだろうな、と尚志は勝手に推測している。大和の前でそういう話をしたことはなかった。
「ていうかヤマトは彼女しか興味ないじゃん」
 尚志が笑って言えば、彼は少し意外そうに目を丸くさせた。え、と喉を鳴らしたのは尚志だった。
「やっぱ藤崎って彼女いるんだ?」
「え? そりゃいるだろ」
 彼が知らなかったことに尚志は驚く。そうか、ヤマトの椿ちゃんは、思っていたほど全然知られていなかったのか。
「つかさ、一部の女子の間で藤崎はゲイだって話も出てるんだって」
 それは尚志を驚かせるには充分すぎた。
 え。
 なんだって?
「どうしてそういう話になるわけ」
「や、あんだけ整った顔立ちして女の影が全く見えないし。ほら、フジョシ? っての、流行ってるし」
「はっ、意味分からんのだけど」
「オレだって女の考えてることは分かんねえよ」
 口角を上げて頬を引きつらせる尚志に、彼も苦笑したように肩を竦めて見せた。
「とにかく藤崎はまだこのこと知らないみたいだし、その内収まるだろ」
 それよりも、と彼はライブチケットがいよいよ手に入ったことを嬉々として語り始めた。尚志もなんだか腑に落ちない感じはしたものの、好きなナンバーの話へ転ぶと、大和の疑惑などどうでもないような気がしてきた。

 尚志が教室へ入ると、窓側の席に大和の姿を見つけた。
 ふと今朝の話を思い出して、なぜだか妙な気持ちになる。
 どこをどうして大和の“椿ちゃん”が男になるのだろう。
「うっす、ヤマト」
「ああ、おはよ」
 カバンをどさりと机の上に置き、大和の隣の席へ腰を下ろす。確かにその柔らかな口調は、男にしては優しすぎる気がしないでもない。
「もうすぐ7月だってのに、あんま晴れないな、最近」
「うん。でも僕は雨って結構好きだよ」
 そしてくすりと笑う。その仕草も、なんだか女々しく見える。今までそんなふうに思ったことはなかったのに。きっと今朝アイツが変な事を言い出したからだ。
「そういや最近、ゲイとかよくテレビでやってんじゃん。同性同士ってのさ。ああいうの、どう思う?」
 尚志のいきなりの問いに、大和はキョトンとして首をかしげる。
 あからさますぎたかもしれない、と思いはするものの、言ってしまったのは仕方がない。尚志は大和の答えを待った。
「どう……って。そりゃ、個人の自由だし、良いんじゃないかな」
 それは尚志も同じ意見だ。偏見は確かにあるが、だからと言って非難することもない。けれど尚志は微妙な面持ちになった。
「そ、そうだよな。AVだってレズもの多いし」
 よく分からない尚志の言い訳に大和はカラカラと笑った。
「千田ってそういうの見るんだ」
「ばっ、例えだよ、例え!」
 そしてなぜこんなにうろたえてしまうのか分からない。
 ああきっと――全てアイツのせいだ。