Cette Place

27


――椿ちゃん。
こっちはそろそろ梅雨が明けそうよ。

 窓の外は炎天下だ。しかし教室の中は冷房が利き、寒さすら感じる。今のエコロジーの時代に不似合いな気の遣い方に、大和は思わず表情を険しくした。
「寒いね。クーラー切ろうか」
「ん」
 尚志もすぐに頷いたので、感じていたことは同じだったのだろう。大和は静かに立ち上がった。
「ああ、藤崎くん! 千田くんも! こんなとこに居たん」
 いきなりドアを開けて入ってきた望に、大和と、一緒に居た尚志は驚いて顔を向けた。空き教室で自習していた2人を見つけるのはひどく難しく、労力のいる作業だったろうに、彼女は息のひとつも乱さずに入ってきた。
「え、あれ、先輩?」
 最初に反応を示したのは尚志だった。望に会うのは先週のミーティング以来で、久しぶりということではない。しかし急用ならメールで知らせてくるはずで、彼女がわざわざ探しに来た理由が思い当たらなかった。
 望は尚志が座っている席の横に荷物を置き、大和が座っていた席の斜め前の席に腰を下ろした。
「いつもここで勉強してん?」
 机に広げられたテキストと授業のレジメ、レポート用紙を見ながら望が尋ねる。別に用事があるわけではないのだろうか。
「いや、いつもは図書館とか食堂とか。今日は混んでたからここで」
「ふうん。まぁ、どこの授業もレポートの提出期間迫ってんやもんなあ」
 どこか他人事のように呟く彼女を、若干呆れ気味に尚志は見つめた。どの授業も期限が迫っているのは同じだろうに。
「つか先輩、何か用があったんじゃないんすか?」
「あ、なんやのその言い草。早く出て行ってほしいってか!」
「やー別に、そんな深い意味はないっす!」
 慌てたように尚志はふるふると首を横に振った。それを見てくすくすと可笑しそうに望みは肩を震わせた。
「まあ、確かに半分は暇潰しに来たようなもんやけどぉ」
 そして身を乗り出して大きな目をくるりと開けて2人を交互に見た。
「知ってるかもしれんけど、うちの大学祭って10月にあんねんな。で、8月には予算とか演目とか全部承認得とかなあかんわけ。うちも同好会やけど毎年出店してんねん」
 へえ、と尚志が大きく相槌を打つ。
「去年は何をしたんですか?」
「クレープ屋さん。めっさ売り上げ良かってんから〜」
「今年もクレープするんですか?」
 大和が聞くと、望はふるふると首を横に振った。
「そんなん、おもんないやん。せやから次のミーティングで何するか決めるんやけど」
 そこでちょうど携帯電話の着信音が流れる。それは尚志のものでも大和のものでもなく、慌てて望が鞄の中を探った。
「ごめんなっ。――もしもし?」
 ディスプレイで相手を確認してから望は席を立ち上がった。
 尚志と大和は互いに視線を交わし、今はレポートの続きに取り掛かった方がよいだろうという決断を下した。
 席を立った望は電話の相手に相槌を打ちながら教室の隅へと移動する。その声は2人に気を遣っているのか、囁くように小さかった。
『――で、先生には一応確認取れたから……』
 相手は東原だった。彼には学祭のこともそうだが、夏休みに行われる合宿に関してもしなければならない準備があった。
「あ、そうなんや。良かったぁ」
 合宿の日程がほぼ決まりそうだという報告に、望はほうっと安堵の息を洩らす。
 しかしそんな彼女の反応とは裏腹に、電話の向こうの東原は重苦しく再び口を開いた。
『ああ……。それより日高、お前は大丈夫なのか?』
「ん? 何が?」
 きょとんと聞き返す望に東原は半分力の抜けた声を出した。張り詰めていた自分が馬鹿らしく思える。
『何がって……お前、昨日あんなに――』
「あ、ああっ! あれはもう気にせんで!? てか忘れてくれてえーし! むしろ忘れて!」
 突然大きな声を上げる望に東原も、同じ教室に居た尚志と大和も驚く。東原は思わず携帯電話を見つめ、尚志と大和は望の背中を凝視した。
『そこまで言うならもう言わないけど……。とにかく無理はするなよ。あと、学祭も』
「うん、うん、分かってる」
『日高は自分の力を過信しすぎてるフシがあるから、僕も注意はするけど。本人の自覚がなくちゃ意味がないんだから』
 だんだんと説教じみた口調になってきている東原を望は適当に流し、それじゃあ切るから、と無理矢理終わらせた。東原とは大学に入ってからの付き合いだが、今でも東原のあれには慣れないでいる。まるで教師に叱られている気分になり、滅入るのだ。
 電話を切り、「さて」と2人に向き直る望はどこか意地悪な笑みを浮かべる。
「んで学祭やねんけど、今度のミーティングで何やるか決めるから、何か考えてきといて」
 ね、と早口で捲くし立てる望に、尚志と大和はコクンと頷いた。反発してはいけないと誰かが叫んでいるようだった。反発する要素もなかったけれど。
「さっきの、彼氏っすか?」
 尚志が聞いた。学祭のことはまたミーティングで話し合うのだろうし、と別の話題を探してみた。
 ヤバイ、と思ったのは大和だった。大和は瞬間に雨の日のことを思い出す。望の肩を抱いた目つきの悪い男のことを思い出すだけで、なぜか嫌な感情を覚えるのだ。たぶんあの目の種類を知っているからだ。
「えー、ちゃうよ? 東原君。合宿の日程のことでちょっとね」
 望はなぜ彼氏なのだろうかと可笑しそうに答える。大和はそれを見て気づかれないように安堵の息を吐き出した。
「あ、そうなんすか。てっきり彼氏かと。そういや先輩の彼氏の話聞いたことないですよね」
「そうやっけ? 別にオモロイことなんてないし」
 望は席に戻り小首を傾げて見せた。けれど席に座ることはしなかった。尚志はシャーペンを動かすのをやめて望に向き直る。今はレポートよりも望の彼氏の方が気になるのだろう。大和は思わず苦笑した。
「いやいや、興味あるんですって。ほら、先輩って可愛いじゃないっすか!」
「あはは。お世辞言っても何も出ぇへんよ」
「お世辞じゃないですって。マジで、ガチで。やっぱ彼氏はカッコイイんすかね」
 カッコイイと言うよりは……。
 大和は内心で代わりに答えてみる。カッコイイと言うよりは危ない感じだ。どこかで人とは違う影と接している危うさがあった。
「見た目はカッコイイかも知れん。うち面食いやもん」
 そう言って笑った望は普通の女の子だった。
 あ、似てる。
 大和は初めて会ったときのことを思い出した。今の望の表情は椿の微笑んだ時の雰囲気にとてもよく似ていた。

「先輩!」
 駅までの帰り道、偶然望の姿を見つけた大和は声をかけた。振り返る望は驚いた顔になった。
「一緒に良いですか。途中まで」
「うん、えーよ」
 一緒に帰ろう、と望は笑顔を浮かべた。良かった、と大和も小さく微笑んだ。
「今日はバイトなんです」
「あ、そうなんや! どう? 仲良くやれてる?」
「はい。懐いてくれてやりやすいですね」
 いつかまた改めて言いたかった言葉を大和は何気なく口にした。
 ありがとう、と言った大和に、望は顔を赤くして照れた。
「ところで先輩。彼氏とは上手くいってるんですか?」
「え?」
 一瞬、望には何を聞かれたのか分からなかった。
 そしてその意味が分かった時、先ほどとは違う表情で顔を赤く染めた。唇を結んで複雑な眼差しで隣の大和を見上げる。
 その目ははっきりと「なぜそんなことを聞かれなければならないのだ」と批難している。
「先輩の彼氏、何回か見たことあります。それでなんだか、気になって……」
 あくまでも穏やかに話す大和に、思い切り望は顔を顰めた。これほどはっきりと不機嫌さを表す望を初めて見た。
「藤崎くんには関係ないよ」
 線を引かれたと感じた。
 けれど大和は、これだけは言いたかった。
「確かに関係ないです。でも放っておけなくて。――あの男の目、昔の俺にそっくりだったから」
 大和の口調が変わった。
 望はその事に気づき、「えっ」とその表情を確かめようとした。
 しかし何も変わってはいなかった。いつもの大和だった。
「藤崎くん……?」
 望の口から大和の名前が零れる。
 大和はそれきり何も言わなかった。