Cette Place

28


――藤崎くんへ。
もうすぐ夏休みですね。こっちの大学では9月に大学祭があります。
もし時間があったら来てほしいんだけど…だめかな。篠原君も会いたがってます。


 大和は目的の駅に着くというアナウンスを聞きながら固まった。
 ドアが閉まる瞬間にようやく我に返り、慌ててホームに飛び降りた。肩で息をしつつ目は携帯電話のディスプレイから離せずにいる。
 椿から会いたいと言ってきたのは初めてかもしれなかった。……かなり婉曲な言い回しではあるけれど。
 合宿中のメールにも「会いたい」という言葉はあったが、あれは多分に会えないと分かっているからの言葉で、今のとは意味合いも違うだろう。それがよけいに嬉しい。
 それにしてもどうしてそこで篠原の名前が出てくるのだ、と不思議に思い、そういえば先日来た篠原からのメールに「夏祭りには帰ってこれるのか」という誘いがあったことを思い出した。おそらく椿もそれに誘われているのだろう。それはそれで気に食わないが。
 だが今は椿が「大学祭に来てほしい」ということを言葉で伝えてくれたことの方が衝撃が強かった。彼女から何かを誘ってくるということは今までなかったのだ。
「どうしよう……嬉しい」
 思わず口について出てしまうほど、大和は感動に打ち震えていた。
 知らず口角が上がり、頬が緩む。今きっと自分はどうしようもなくニヤけた情けない顔になっているのだろう。
 調子に乗って直接返事をしようと通話ボタンに指を当てる。しかしそれは突然背後から伸びてきた腕によって阻まれた。いきなり肩を叩かれた。
「なぁにニヤけてんだよ!」
 可笑しそうに声を掛けてきたのは松本だった。学部は違うが同じサークルに入っており、春の合宿では同じ部屋で寝泊りをした仲でもある。一見大人しそうな彼はその実なかなか人懐こい性格をしていた。
「うっわ、びっくりした。……おはよ」
 心底驚いたという表情の大和に、松本はハハっと笑った。
「はは、ごめん。そこまで驚くとは思わなかった」
「ん、いや、いいんだけど。珍しいよね、一緒になるの」
 そういえば朝は一緒になったことはないなと思い当たる。駅で見かけることも声を掛けられるのも今日が初めてだ。
「今日は1時限目が休講だったからさ。それより何か良いことでもあったのか? メール?」
 改札を出てコンビニにも寄らず二人は並んで歩く。未だ携帯電話を開けたままの大和に、松本は覗き込むようにして尋ねた。
「ああ、うん。彼女から」
「え、彼女?」
 目を丸くする松本に大和は首を傾げた。恋人がいてもそんなに驚くことでもないだろう、と思う。大和は自分が、彼女がいるとは思えないというほどの不細工ではないと思っていた。実際、居ない方がおかしいと言われたこともあるくらいだ。
「そんなに変なこと、言ってないよね?」
 だから思わず聞き返してしまう。松本もそれは肯定するようで、「まあそうなんだけど」と曖昧に頷いて見せた。
「何? 気になるんだけど、その態度」
 松本が何かを言いよどんでいるのは明白だった。大和は携帯電話をジーンズの後ろのポケットにしまう。
 大和に詰め寄られ、松本は視線を左右に泳がせた。顔が整っている分迫られると気圧される雰囲気というのがある。美人が怒ると恐いっていうのは本当なんだな、とどこかズレたことを考える。
「……あんまり、本人に言うのはどうかと思うんだけど」
 松本は仕方なく観念したように口を開いた。
「噂、聞いたんだ。藤崎が、その……ゲイとかいう……」
「はあ!?」
 大和は開いた口が塞がらなかった。どうしてまたそんなことが噂に出るのだろう。
 そしてふと先日の尚志との会話を思い出した。尚志から突然同性愛者云々について聞かれたが、今思えばあのときから既にそういう話は広まっていたのだろうか。
「ご、ごめん! 別に信じてたわけじゃないんだけど、妙に納得する部分もあったというか」
 焦る松本は自分で何を口走っているのだと叱咤しながらも、流れる沈黙は耐えられなかった。なるべく声を潜めて両手を合わせた。
「何それ?」
 大和は顔を歪めて松本を見る。思いのほか険しくなっていたらしく、松本は一瞬肩を震わせた。どうして朝からこんな恐怖体験をしているのだろうと思わずにはいられない。
「いやだって、女のいる気配とかなかったし、話す言葉もどっか柔らかいっていうか、女っぽいというか」
 危うく大和は舌打ちをしそうになり、しかしそれは松本の言葉を肯定するような気もして飲み込んだ。
 やはり慣れた話し言葉を直すには無理があったのか――。祖母の影響で使い始めた女言葉は未だに大和の中に染みこんでいる。けれどそれは、何も知らない者からすれば異様なことで、そういうふうに思われても仕方のないことなのかもしれない。とてつもなく不本意ではあるけれど。
「で、誰がそんなこと言い出したの?」
「知らないよ! ただ坪井から少し聞いただけで……」
「坪井?」
 大和の目がすっと細められる。また麻耶か、とうんざりする。ということは良子も何か知っているのだろう。誰が言い出したのかは知らないが、少なくとも麻耶や良子もその噂を信じているのは違いない。
――何か一言見舞ってやらなくては。
 もうこれ以上面倒なことは嫌だった。ただでさえ彼女たちと絶交状態にある今の状況も苦痛なのに。
 大和は麻耶も良子も嫌いではなかった。根は良い奴だと初めの1ヶ月で知っている。もちろん多少の猫は被っているかもしれないが、大和を陥れようという人間ではないことだけははっきりとしていた。そもそもこの状況があるのは、ただ単に麻耶が大和のことを好きだという、それだけのことだったのだ。
 大和は松本を置いて大学へ向かう足を速めた。だが二人が学校へ来ているかは分からない。真面目な二人だからきっと1時限目から講義を取っているとは思うが。
 そしてポケットから携帯電話を取り出すと、時間を確認した大和はアドレス帳から初めてその番号を引っ張り出し、通話ボタンに手を掛けた。
 数回目のコールで繋がる。
『も、もしもし……』
「ああ、坪井? 今どこにいるの?」
 電話の向こうで息を飲み込む音がした。

 通話が切れた後も麻耶は呆然としていた。まさか直接連絡をしてくるとは思わなかった。
 1時限目が終わった直後に着信があり、発信者の名前を見たときは一瞬体が硬直した。久しぶりに彼と会話が出来たことが嬉しくて……あの時声はちゃんと出せていただろうか。震えてはいなかっただろうか。携帯電話を持つ手は緊張で震えていたけれど。
 それからすぐに待ち合わせ場所の自習室へやって来た。
「ど、どうしよう、良子!」
 喜んでいいのか悲しんでいいのか分からない声音で麻耶は隣に座っていた良子に縋る。久しぶりに大和に会えるのは嬉しい。それも向こうから近づいてきてくれるということが嬉しかった。しかしきっとそれはあの噂のためだと思うと素直に喜べない。少なからず自分達のせいでもあるのだ。それを大和が知っているかは判断できなかったが、彼が良い気持ちで連絡を取ってきたのではないことは明らかだった。
「とりあえず落ち着こう」
 宥めるように良子は苦笑を浮かべつつ言った。麻耶は「そ、そうだよね!」と素直に頷き、深呼吸を数回繰り返す。こういうところが麻耶の可愛いところなんだろうなと思う。良子にはない素直さで好感が持てる。
 それにしても予想外だった。まさかこんな形で大和がこちらに近づいてくるとは思いもしなかった。そもそもあの噂が出るということ自体、考えもしなかったことだ。本当なら――と、良子はそこで思考を止めた。過ぎてしまったことはどうしようもない。
 これでますます関係が悪化したらと思うとぞっとする。これ以上悪くならない気もするが、今が最低の状態だとは言い切れない。少なくとも大和から連絡があったのだから、まだ完全に縁を切られたわけではないようだし。
 そうしている内に大和が後ろのドアから教室へ入ってきたのが見えた。麻耶の心臓は一気に高鳴った。
「ヤマト、くん……」
 麻耶がやっと声に出せたのはそんな小さな呼びかけだった。本当はもっと明るく「おはよう」や「久しぶり」と声を掛けたかった。
「単刀直入に聞くけど」
 その声はどこか押さえつけたように低く、麻耶も良子も立ち上がったまま動けなくなってしまった。
「あの噂、誰から聞いたの」
 やっぱり、と思った。やはり噂のことで連絡してきたのだ。麻耶の背中に嫌な汗が流れる。
「あ、あの……」
「誰?」
 口篭る麻耶を急かすように大和の口調が鋭くなった。麻耶は既に泣きたくなっていた。
「私達が噂の発端なのかもしれない」
 良子が静かにそう言い放った。麻耶も大和も驚いて彼女の方を向いた。俯いている良子の顔からは何の感情も読み取れない。
「私達、聞いたの。ヤマトくんが電話で……女言葉で話してるとこ」
 大和はハッとした。それは間違いなく椿と電話している時のことだ。どこまでも中途半端な自分に嫌気が差す。
「おかしいねって話してるところを、誰かに聞かれたんだと思う。いつの間にか、ああいうことになってて」
「そう……」
 大和が言ったのはそれだけだった。否定もしないということは肯定と捉えられてもおかしくないというのに。
 良子は思わず顔を上げて眉根を寄せた。そんな反応を望んでいたわけではない。
「それだけ、なの?」
 思わず口をついていた。え、と喉を鳴らしたのは隣の麻耶だ。
 麻耶にしてみれば、そんな大和を逆撫でするようなことを言うべきではないと思う。
 しかし良子はその言葉を取り消すどころか、さらに続けた。
「どうして何も言わないの? それともやっぱり噂どおりなんだ?」
「良子……?」
 麻耶は不安になる。どうして良子がそんなふうに言うのか分からない。
「だってそれは、アタシが女言葉を話してたからなんでしょ。それは事実だし、二人だって聞いてたんなら、わざとかそうでないかは分かったでしょう?」
 びくり、と一瞬体が痙攣した。
 今彼は確かに「アタシ」と言った。電話で話していたときと同じ口調だ。聞き間違いでも何でもなかった。
 とたんに良子は嫌悪感を抱いた。鳥肌が立って、気分が悪い。
「ほら、そうなんじゃない。椿ちゃんなんて言って、きっとそれも男なんでしょう!」
 良子の口から勝手に言葉が溢れてくる。大和の表情が変化したことに気づいても、感情だけが先走る。
「言っとくけど、アタシは同性愛者じゃないし、椿ちゃんは可愛い女の子よ」
「やめてよ、そんな話し方! 気持ち悪い!」
「良子!」
 叫ぶような声で罵る良子の頬を麻耶は思わず叩いた。
 パンッと乾いた音が教室に響く。
「良子こそやめなよ。今までのヤマトくんの方が嘘だったんだよ。今のヤマトくんを否定しないで!」
 じりじりと痛む頬に良子はそっと自分の手を当てた。けれど麻耶を見ようとはしなかった。
「あたしはどっちだって良かった……」
 麻耶はそれだけを言って、驚いたままの大和の背を押して教室から出て行く。
 背中を押されながら大和は一度振り返ってみたが、良子がこちらに視線を向けることはなかった。

 頬が痛む。

 手が痛む。

 心が締め付けられるように痛んだ。