Cette Place

29


 言ってはいけないことを言ってしまった。その自覚はあった。
「次……何の授業だっけ……」
 そう呟いても返ってくる声はない。自習室に残っているのは良子だけで、ずっと一緒だった麻耶は大和と共に先ほどここから出て行ったばかりだ。頬が痛むが、鏡を見るとまだ赤くはなっていなかった。音が良かっただけでそれほど強く叩かれたわけでもなかったようだ。
 突然、ケイタイのバイブ音が響く。一瞬びくりと体を震わせたが、その長さからメールではなく電話だと分かるとようやくカバンに手を伸ばした。いつの間にか手が震えていることに気づいた。
「はい……」
 声だけはどうか平静を保っていられるようにと、喉の奥に力を入れた。思いのほか低い返事が出てしまった。
『あ、もしもし坂ちゃん? 千田だけど』
 尚志の明るい声が、今の良子には重く感じる。こんな自分を知ったら彼のこの声音もきっと変わってしまうのだろう。
「うん」
『この前言ってたライブのチケットなんだけど……ロックとか好きかな』
 良子は働かない頭を無理矢理起こし、そういえばそんなことを聞かれたこともあったかもしれない、とあやふやな記憶を呼び戻した。
「どうだろ。あまり聴かないから」
 小さく答える良子は消え入るような声で言った。
 起伏のない話し方に、尚志はようやく良子の様子がいつもと違うことに気づく。もともと大人しい話し方の良子ではあったが、今はまるで気力がなく、落ち込んでいるようだ。
『……坂ちゃん? 何かあったのか?』
 尚志も真剣な口調に変えて尋ねてきた。良子は思わず口を噤む。
『今どこ? 俺行くから。待ってて』
 焦ったような彼の声と共に足音が聞こえる。自分のために走ってくれているのだろうかと思うと余計に何も言えなくなってしまった。
 辛うじて場所を伝えると、そのまま通話が切れる。
 良子は力なく携帯電話を持っていた腕を下ろす。
 両手で顔を覆った。情けない。自分はどこまで汚いんだろうと戒めたくなる。大切な友人を傷つけたのに。
 麻耶に叩かれた頬の痛みが蘇る。それなのに傷ついた自分を見つけてほしくて、尚志に心配掛けるような態度を示したりして。
 構ってほしくて、慰めてほしくて――いつまでも子どもじみた行動しか起こせない自分が憎らしくて。

 自習室から出た麻耶と大和は、けれどどこに行くあてもなく廊下を行き来した挙句隣の教室へと入る。運良くここも授業はなかったようだった。
 教室へ入ったは良いものの、交わす言葉が見つからずに、麻耶は所在無さげに視線を泳がせていた。
「あの、ごめんね……」
 浮かんでくるのは謝罪の言葉しかない。それでも沈黙が続くことも耐え切れなくて、麻耶はとうとうそれを口にした。大和の表情にはすっかり怒りの色は消えていたが、それが本心かどうかは分からない。
「ううん。だってやっぱり、異常だもの」
 どこか自嘲するような言い方に麻耶は思わず頭を横に振った。
「そんなことない! どんなヤマトくんだってヤマトくんだもの。そりゃ確かに驚いたりはしたけど」
 ヤマトくんはヤマトくんだもの。
 その言葉に大和はふっと笑みを零した。
――藤崎くんは藤崎くんだよ。
 一年前に言ってくれた椿の言葉を思い出す。あの時ほどその言葉は響いてこないけれど、それでも嬉しかった。作った人格ではなく、本当の自分を認めてもらえるような感覚を抱く。そしてあの頃から何も成長していない自分に気づいた。何一つとして変われていないのだ。椿と離れて半年が経った今も、何も……。
 大和の綺麗な微笑を見て、麻耶は自分の言葉に彼が反応していることに喜びを感じた。胸が高鳴る。
 しかし次の言葉で緩んだ口元はそのまま凍りついた。
「椿ちゃんもね、そう言ってくれたの」
「……え」
 麻耶は今一番聞きたくない名前を耳にした。
「本当は大学に入る前はずっと女言葉だったの。でもそんな自分が嫌で……。その話をした時に椿ちゃんに言われたんだ、藤崎くんは藤崎くんだよって。目を見て言ってくれた。椿ちゃんは、初めてこんなアタシを認めてくれた子なの」
 その前から好きになってたんだけど、と嬉しそうに話す大和はきっと麻耶を見てはいなかった。それが悔しかった。
 だけどそれ以上に嫌だったのは、自分は咄嗟に受け入れられなかった事実を彼の恋人はすんなりと受け入れられるような人だということだ。
 そこに自分が立ちたかった。彼の特別でありたかった。しかしそれは大和の女言葉を受け入れるのに時間が掛かった自分には到底得られないものだったのだ。少しでも拒絶を見せた時に既に決まっていたのだ。ヤマトくんはヤマトくんだよ。たったそれだけを言うのに自分は随分と時間が掛かってしまった。どうしようもない。
「椿ちゃんは抵抗とかしなかったの?」
「うん。俺って言った時は恐がられちゃったけど」
「そっか」
 会ったこともない椿に嫉妬と敗北感を覚える。……あたしならきっと“俺”と言ったヤマトくんの方を受け入れる。そんな確信にも似た思いが過ぎる。
 俯く麻耶は切なく笑みを浮かべた。
 そんな彼女を前にして、少し意地悪だったかもしれない、と大和は思った。
 そもそも大和が俺と言った時の状況を麻耶は知らないのだ。知ったら麻耶も椿と同じ反応をするかもしれないが、そうであってほしくないという無意識が働いた。椿だけが自分の特別でいてほしいというのは傲慢だろうか。
 麻耶にそのことを言うつもりはない。
「高校までずっと女言葉だったんだよね。どうして今更隠していたの?」
 麻耶はそれだけを聞いた。格好悪いと笑われるかもしれないが、それが最後の言い訳に思えた。きっと最初から大和が女言葉を話していたら、もしかしたら自分も椿と同じように言えたかも知れない。タイミングのせいにしてしまえばこの苦しい気持ちも少しは逃げ場を見つけられる気がした。
「変えたかったから。体に染み付いた今のアタシを無くしてしまいたかった」
 そこにどんな思いが巡らされているのか、麻耶には想像もできなかったけれど。
 大和のぼんやりと見つめる視線の先に何が映っているのか知りたい。
「じゃあ、手伝おうか……?」
 咄嗟に吐いた言葉は大和の注意を自分に向けるには充分だったようだ。え、と弾かれたように視線が麻耶へ動く。
「手伝うってどういうこと」
「ヤマトくんが少しでも女言葉になったらペナルティを与えます。あたしがそれの審判役ね。罰ゲームは何が良い? 一週間椿ちゃん禁止令とかだったらやる気出るんじゃない?」
「……なかなか面白いこと言うね」
 満面の笑みを浮かべる麻耶に、大和はヒクッと表情を引きつらせた。


 大和のケイタイが着信を知らせる。尚志からだった。
『もしもし、ヤマト。さっき、坂ちゃんから聞いたんだけど――』
 隣の教室に居るとはさすがに言えず、大和は曖昧に相槌を打った。隣では心配そうにこちらを見る麻耶がいた。
「とりあえずあの噂は根も葉もないことだから」
『うん、それは分かってる。坂ちゃんさ、お前に言ったことですげぇ落ち込んでた』
「ああ」
 大和は何と言っていいか分からず、とりあえず電話越しに頷いてみた。
「でも坂口の反応は普通だと思うから」
 はっきりと目の前で気持ち悪いと言われたのは、何も初めてではなかった。それこそ中学や、転校する前の高校では散々に言われてきたことだ。当時は男なら問答無用でなぎ倒していったし女なら少し睨みつけて大人しくさせていたが、今更力で捻じ伏せようとは思わない。それゆえに対処法が分からないことも事実としてあるのだけれど。
「千田は坂口についててあげて。僕は坂口に近づけないから」
『ヤマトはそれで良いのかよ?』
 腑に落ちないと言いたげな尚志に大和は見えないと思いつつも肩を竦めた。
「拒まれてまで受け入れてもらおうなんて思ってないし、僕は“僕”でありたいから、調度良い」
『……わかった』
 本当は何も解っていない。
「ありがとう」
 何かを言いたそうだった尚志を無視して大和は電話を切った。
 そこに感謝の意味が無いことは解りきっていた。
 本当に言いたかったのは――ごめん。
 それだけだ。