Cette Place

31


 大和が麻耶に頼んだことはいたって簡単なことだ。
「え、男言葉を教えろって……言う相手間違ってるんじゃない?」
 すっかり定着してしまった自習室での昼食時間兼勉強会で、麻耶は顔を顰めて首を傾げた。女の自分に男言葉の伝授を乞うのは見当違いも甚だしい。しかし大和は真面目な顔で麻耶の正面に座っている。
「でも千田にはアー、僕、のことは何も説明してないわけだし。坂口からどんなこと言われてるかは知らないけど、もし坂口がそのことを口にしてなかったらわざわざ暴露することでもないでしょ。そう考えると坪井が協力してくれる方が手っ取り早いかと思うんだ。それに言ってくれたじゃない、協力しようかって。教えるって言っても、僕の言葉が可笑しかった時に指摘してもらえればそれだけで良いし。もちろん罰ゲームは変えるけど」
 だからお願い、と両手を合わせてみせた。それがただのポーズであることは麻耶も気づいている。大和は決して麻耶が断らないことを知って言っているのだ。けれどすんなりと頷くのは、それを待っていたかのようで、とりあえず麻耶は腕を組んで考えるフリをする。彼の頼みを聞くことに、大和との傍に居る口実がより確実に出来るというメリットこそあれ、その理由を上回るようなデメリットは見つからない。そもそも麻耶が大和を好きだという時点で彼の頼みを断る理由などあるわけがなかった。
「じゃあもし夏休みに入る前にあたしがイエローカードを5回出したら椿ちゃんの写真見せて」
「え……」
 予想外の提案に大和は顔をキョトンとさせて麻耶を見た。
 もっと恐ろしいことを言われるのかと思っていた大和にとってある意味肩透かしを食らった気分だ。
「嫌なら3回でもいいけど」
 それはむしろハンデが上がっている気がする。
 慌てて大和は掌を広げて麻耶の前に突き出した。
「いや、5回でいいよ」
 それから改めて首を捻って見せた。
「でもどうして椿ちゃんの写真を見せてなんて……。写メなんて撮ったことないし、アルバムも全部実家だから夏休みの後になるけど、いいの?」
「いいの。見たいの。それに5回ミスしなかったらどうせヤマトくんは見せなくても良いんだから同じでしょう」
「うん、まあ、いいけど」
 不思議そうにする大和を横目に見ながら、麻耶はそっと息を吐いた。断られなくて良かったとほっとする。こと恋人に関しては独占欲が強そうだということは、彼女と二日間連絡が取れないと嘆いていた執着心からもなんとなく気づいていた。
 そんなふうに思われてみたいという羨望と、彼の感情を一身に向けられている恋人への嫉妬が渦巻いて複雑な気分になったことを覚えている。けれどどこかで距離が近いのは自分だという希望に似た期待があったのも確かだ。きっとあの頃は何も分かっていなかった。
 もし大和の恋人が彼の隣に立っても遜色のない飛び切りの美人だったら諦められるだろうか。それとも誰が見ても不釣合いな容姿だったら諦めることができるのだろうか。そのどちらでもなく、どこにでも居そうな女の子だったら、きっと自分は――。
 そこまでで麻耶は思考を中断した。想像だけでもこれだけどす黒い感情を生んでしまうのなら、いっそはっきりと見て確かめたい。それからでも遅くはない。たぶん。
「約束だからね。あたしが仕掛けても引っかからなかったら良いだけのことだし」
「うん、分かった。約束ね」
 大和が頷く。
 瞬間、麻耶はビシッと勢いよく彼の目の前に人差し指を突き刺した。
 何事かと目を丸くする彼に、麻耶はニヤリと口角を上げた。
「それ! 約束“ね”なんてフツウの男の子は言わないわ。……たぶん」
「え、そう?」
「語尾が“ね”なんて弱々しいわよ。どうせなら九州男子みたく力強い話し方にしたほうが驚くって」
「驚くかもしれないけど……何か違わない?」
 望むべきはそこではないという大和に対して、麻耶は人差し指を彼に向けたままその言葉を訂正することはなかった。
 しばしの沈黙の後、部屋に響いたのは大和の携帯電話だった。メールの着信を知らせるバイブ音。
 麻耶は突き出していた人差し指を引っ込め、目の前で画面を開く大和の動きを見守る。誰からだろう。
 そう思いつつ彼を観察してみると、カタカタと手早く返信したらしい大和の表情が柔らかくなっていたので、相手が誰かはすぐに想像がついた。
「椿ちゃんから?」
 おもむろに聞いてみる。確信に近かった。
 案の定、分かりやすいほど大和の顔が綻ぶ。つくづく悔しいな、と思う。
「うん。二十日空いてるかって」
「二十日? って、今月じゃないわよね。来月の二十日に何かあるの? 付き合った記念、みたいな?」
 言いながら傷つく自分が居る。麻耶は嫌な表情になっていないか顔を引きつらせながら聞いてみた。
「ううん、何もなかったと思うけど……誰かの誕生日なのかも。とりあえずこっちに居るけど予定はないって送ったけど」
「え、そうなの?」
 大和の返信内容を聞いて思わず声を上げた。てっきり夏休みはほとんど地元へ帰っているものとばかり思っていた。下宿組みはたいていお盆を中心に最低でも一週間は帰省する人が多いのだ。地元がこの近くの麻耶や良子には関係のない話だから余計にそういう情報に敏感になる。大和とはそんな話はしなかったものの、彼も大抵の学生と同じだと思い込んでいた。
「うん、向こうで夏祭りがあるんだけど、それに合わせて帰って、すぐにこっちに戻ってくるつもり。バイトもあるし」
 意外だ、と思う。
 そして素直に嬉しい。
「そうなんだ……」
 だから顔がにやけてしまうのは仕方のないことだ。麻耶は浮かぶ笑みを隠そうともしなかった。
 大和は彼女の反応に苦笑しつつ、けれど特に何も言わなかった。確かに椿の傍に居られるなら夏休み中地元にいるという選択肢もなかったわけではない。
 しかしせっかく出てきた家に一ヶ月も滞在する気にはどうしてもなれなかった。小さなホテルにでも泊まろうかとも思ったが、それほど金が貯まっているわけでもない。椿にあまり会えないのは残念だが、それを選んだのは自身なのだと言い聞かせた。
 そういえば去年の夏祭りでは、花火の下で思わずキスをしてしまったっけ……。
 ふと思い出して、今でも衝動的なその行動に眩暈がする。椿は覚えているだろうか。
 今でも忘れられない、あの驚いて固まった彼女の表情。小さめの目が大きく開かれたまま瞬きすらできないでいたその様子さえも、原因が自分であることも棚に上げて可愛いと思ってしまった。もう一度重ねたい思いに駆られながらそれを抑え、ようやく口に出来たのは己の気持ちを表すにはあまりにも軽いものだった。
「……なに笑ってるの?」
 はた、と気づけば怪訝そうな顔で麻耶がこちらを見ていた。
「別に」
 大和は咄嗟に誤魔化そうとするが、麻耶はそれを許さなかった。
「嘘。今思い出し笑いしてたでしょう」
「関係ないでしょ」
「でしょ、じゃない。ていうか、“でしょ”もどうなの。だろう、とかじゃない?」
「知らないよ、聞かれても」
「ああ、もうイエローカード二つね」
「え!」
 ふふふと不適に笑う麻耶に大和は嫌そうに顔を背けた。彼女には酷かもと思ったのは間違いだったようだ。
 完全に椿の写真を期待されている。

 ガチャリ。
 良子が戸を開けて視界に入ってきたのは楽しそうに話している大和と麻耶の姿だった。
 忌々しく思う。あまり人が来ない自習室を選んだにもかかわらずこうして避けていた二人と遭遇してしまうタイミングが。
「あ――」
 振り返った麻耶が何かを言いたそうに口を開きかけたのと同時に、良子は開けたドアをすぐに閉めた。反射的にと言った方が的確な表現かもしれない。
「坂ちゃん?」
 遅れてやってきた尚志が不思議そうに声を掛けてきた。最近自分の後を頻繁について回る彼の行動は、きっと大和の気遣いなのだろうと気づいてしまった。それからは何もかも苛立ってくる。
「なんでもない。人が居たから、他のところで食べよう」
 尚志とは特に一緒に食べようと約束したわけでもなかったが、最近はそれが常になっていたので、良子はそう言って廊下を反対方向に歩き出した。やはり尚志も「そっか、じゃあ本館の自習室に行ってみる?」と頷いて後に続く。
 歩きながら、思い浮かぶのは先ほどの二人の姿だ。仲良さそうに談笑していた様子だった。なぜ麻耶はあんなふうに笑えるのだろう。
 良子も大和と麻耶が付き合いだしたらしいという噂を耳にしなかったわけではない。けれどその噂がただの噂でしかないことは充分に承知していたし、むしろ滑稽にさえ思えた。どうしてあの藤崎大和が麻耶と付き合えるというのだろう。可笑しくて堪らない。
 その反面、こうも思うのだ。合宿の時に描いた自分の予想図ではそれに近いことになっていても可笑しくなかったのだ、と。
 そして皮肉なのかどうなのか、あの時の自分の言葉はあながち外れてもいなかった。
『ヤマトくんは麻耶から離れられなくなる。』
 現にあれから、大和と麻耶は同じ授業の度に左右か前後の席に座り、昼食も一緒にしている。
 ただそこに自分と尚志の姿がないだけで……。
「――バカみたい」
 呟いた良子の声は、後ろの尚志には届いていないだろう。
 だからもう一度小さく、吐き出すように言った。
 何もかもがバカみたいだ。麻耶のために必死になって、けれど結局、麻耶に嫌われた。
 一番恐れていたことだった。