Cette Place

32


「ふわ〜、終わったぁ!」
 教授が教室を出ると、麻耶は大きく腕と背筋を伸ばした。これで前期の試験は全て終了だ。時刻も調度よく日が傾き、朱に似たオレンジ色の夕焼けが空を黒く染めている。麻耶は早々と道具類を片付けると、そのまま後方の席にいる大和の元へ足を向けた。彼も同じように筆記具を片付けているところだった。
「ねぇ、これからちょっと街まで出ない? ご飯食べに行こうよ!」
「おっ! 良いねえ」
 答えたのは前の席に座っていた友人だった。麻耶は目を細めた。
「あたしはヤマトくんを誘ったの」
「んだよ、良いじゃん。俺も一緒に。な、藤崎」
「良いんじゃない?」
 大和が苦笑気味に頷き、麻耶は諦めと不満が混ざったような表情を浮かべた。基本的に麻耶は、大和が決めたことに反対はしないのだ。
「で、どこにするの? 食べるだけ?」
 視線で気を遣えと麻耶が大和の前の友人に念を送る、が、彼がそれに気づくことはなく。
「藤崎くん、麻耶ちゃん!」
 いつの間にか教室に入ってきていた望が麻耶の肩を叩いた。
 目を丸くして振り返ると、とても年上とは思えない小動物のような彼女がにっこりと笑って小首を傾けた。
「大学祭、うちらは茶道部と執行部と合同でフリマをすることに決定しました!」
 いやそんな爽やかな笑顔で言われても……と二人はキョトンと望を見つめる。
「ホンマは喫茶店とかやりたかってんけど、いち同好会にそんな予算ないと却下されたんよ。ちょっとヒドイ思わん?」
 ぷくっと頬を膨らます彼女に大和は思わずクスッと笑みを零した。
「そうですね。で、それだけでわざわざ来たんじゃないですよね?」
 確信めいた口調に一瞬困った表情を浮かべた望は、けれどすぐに意を固めた様子でチョイチョイと大和に向かって小さく手招きをした。麻耶たちの不思議そうな視線に気を遣いながらも、そっと教室を出る。廊下は静まり、人気は全くないと言ってもい良かった。そもそも教室に残っているのも気づけば既に自分達だけなのだ。
 望は手を口の横に当て、内緒話をするように顔を近づけた。大和もそれに合わせるように耳を近づける。
「あんな、うち……彼氏と別れた」
「へ?」
 それは思いも寄らなかった報告だった。
 驚く大和を見上げると、望は肩を竦めて気恥ずかしそうに苦笑した。
「藤崎くんにはいろいろ心配かけたと思って。うん、まあ、そんな感じです」
 脳裏にはいつか雨の日に見た男の顔が浮かんだ。あの目つきは危うくて、昔の自分だ、なんてどうでもいいことを思った。今思えばそれは錯覚に似ているのに。あれから男の姿も、二人でいるところも見なかったけれど。そうか、と妙に納得した。
「今までにも何回か別れて、でもあっちが折れてヨリを戻しとったけど、たぶんそれもないと思う」
「でも、どうしてまた?」
「東原くんのおかげ。――そろそろ戻ろっか」
 望は穏やかに笑って、でもその裏で何度も泣いたのではないだろうか。大和には彼女がどうしてそんな男に引っかかってしまったのか不思議でたまらなかったが、それでも最後はこうして笑えているのだから、大和も目を細めて頷くだけにした。
「そういえば夏休みは実家に帰るん?」
 何気なく聞かれた。
 大和は一瞬迷い、そうですね、と肯定する。
 夏祭りに合わせて帰って、おそらくお盆が始まる前にはこっちに戻っているだろう。あの家に長居はしたくなかった。まだ。


 この駅に戻ってきたのはちょうどゴールデンウィークの合宿の時だったから、およそ三ヶ月ぶりだ。言うほど時は経っていなかったのだなと感じる。見る光景は懐かしく変わり映えのしないもので、まあ三ヶ月そこらで劇的に変わるわけもないかと思わず苦笑を浮かべる。
『今、駅に着いた』
 着いたら連絡をしろと言ったのは父親だったので、大和は素直にそれに従った。電話でなくメールにしたのは特に意味はない。
 返事はすぐに来た。迎えにいくからロータリーの乗降場で待っていろというしごく簡潔なものだ。
 待っている間に大和は再びメールを開いた。アドレス帳から取り出したのは椿の名前だった。
『帰ってきたよ。明日会えない?』
 祭りは明後日だった。
 ずっと楽しみにしていた。
 昨日もメールを送った。零時を回っておやすみメールを送ってから、今朝にもう一度送ったけれど、返事はなかった。
 会いたい。そう思っていたのは椿もで。それは昨日の会話でも聞いたけれど、椿の声で、機械越しではなく顔を見て言って欲しい。それは我がままだろうか。今はもう夕方と言ってもおかしくない時間なのに、どうして朝の返事もこないままなのだろう。きっと我侭でも傲慢でもないと、大和は思ってる。
 けれど結局、父親が迎えに来ても、家に戻っても、椿からの返事はなかった。

「おかえり!」
 リビングに入って最初に迎えてくれたのは弟の真だった。母親は相変わらず大和の存在など気づかない様子で夕食の準備を忙しなくしていた。思わず溜息が出る。
「ただいま」
「どれくらいこっちに居るの?」
 荷物を置こうと廊下に出る大和の後を追いかけて真が尋ねた。
 大和は振り返ることもせず階段を上がる。
「一週間くらいかな。すぐに戻るよ」
 ――どうせこの家に居場所はないから。そう言おうとしてやめた。真は唯一この家の中で自分の味方だ。そんなことを言ってしまったらひどく悲しみ怒るだろうということは分かっていた。
「え、でもお盆は? 爺ちゃんちには行かないの?」
 藤崎家は毎年お盆を挟んだ数日間、家族で母方と父方の田舎に帰省していた。真はてっきり今年も家族揃ってそうするものだと思っていたらしいが、大和はそうではなかった。それにひどく驚き落胆した表情を浮かべた。背を向けていた大和に真の表情は見えなかったが口調で感情は分かった。特に母方の祖母の家に戻りたくないことは想像できないわけでもないだろうに、と肩を竦める。
「行かない。父さんにも言ってある。それにバイトもあるし」
「ふぅん……」
 掃除だけはされている変わらない自室に安堵しつつ、ベッドに荷物を置いて振り返ると、面白くなさそうな顔をした真が入り口に突っ立ってこちらを見ている。
「何しに帰ってきたの?」
 真は眉根を寄せて尋ねた。実の兄のことながら大和の考えていることはいつも分からない。帰ってこいよとこの家を出る前に言ったのは自分だが、大和ならそれを無視することも簡単だったはずなのだ。冷静に考えてみればそういった反応の方が当然のようにも思えてきていた。なのに兄は実際に戻ってきた。
 大和は表情を変えず淡々と答えた。
「強いて言えば彼女に会いに、かな」
 “強いて”も何も、それしか理由はないだろうと真は思った。  それからふと首を傾げる。なぜだろう、真はどことなく大和に違和感を覚えた。行く前と帰ってきた今と、何が変わったのだろう。
 しかし真がそれに気づく間もなく、下から母親の呼ぶ声が聞こえた。夕飯の支度が整ったらしい。
「ご飯だって」
「聞こえた」
 行こう、と大和は荷物を置いたまま真の体を押して廊下に出た。
 真は触れられた手から、雰囲気が変わったのだろうかと思ってみる。席に着いた大和を見て、けれど相変わらず真と父だけにしか話しかけない母を見て、そうでもないかなと首を振る。
 コホッ。
 母が咳き込む。最近は風邪気味らしい彼女に、真も父も大きな反応は見せなかった。

 椿から返信が来たのは夕食を取っていた間だったらしい。自室に戻るとケータイのディスプレイにメールの着信を知らせるアイコンが出ていた。
 そこには返信が送れたことに対しての簡単な謝罪と、明日会えるのを楽しみにしているという言葉だけだった。
 それだけで嬉しい。大和は微笑んで、いつものおやすみメールを送る。
 アタシ、変われたよ――と、伝えたい。
 その時椿は何と言ってくれるだろう。想像するだけで楽しかった。大和の好きな笑みを浮かべてくれたら、きっと幸せ。