Cette Place

34


 待ち合わせ時間のやり取りをしたメールを眺めて、大和は知らず笑みを零す。毎日会っていた頃とは違う高揚感に落ち着かず、約束の時間の三十分前には待ち合わせ場所である改札前に着いてしまっていた。本当は自分を待っている椿を見たかったけれど、逆の立場も悪い心地はしないので、ゆっくりと待つことにした。早く来ないだろうかとなかなか進まないケータイのデジタル時計の数字を見つめながら、キョロキョロと左右を見渡す。
 夏祭りは二日間あって、一日目の明日は同窓会も兼ねているから二人きりのデートといううわけにもいかないが、それは二日目にすれば良いことだ。今日でなくても良かったのに大和の急な誘いにも快く応じてくれた椿は、きっと少し遅れて困ったように微笑んでくれるのだろうか。そんなことを想像しながらニヤけてしまう顔を引き締めた。
 待ち合わせ時間の五分前になった。期待を込めてそろそろかと椿がやって来るだろう出口の方に視線を向けた。
 刹那、息が止まった。
 鼓動が早まり、自分が緊張しているのが分かる。大和は小さく喉を鳴らすと、自分から彼女へ足を向けた。
「椿ちゃん!」
「あ、大和くん。……久しぶり」
 不意に目の前に現れた大和に驚きつつ、小走りになって近づいてくる椿は照れたように微笑んだ。大和は眩暈がするかと思った。
 久しぶりに見た椿は何も変わってはいなかった。麻耶のように髪を傷めるだけの脱色もせず、良子のように含みのある笑みを浮かべることもなく、少し化粧をして大人っぽい雰囲気を出すようになっていること以外は、記憶にある高校生の彼女のままだ。3ヶ月前に見た後姿だけでは分からなかった色っぽさがなんだか出ているような気がするのは、惚れた欲目だろうか、それとも私服で会うときはジーンズが多かった彼女が今は肌の露出度が高いワンピースを着ているからなのかは、分からない。大和は抱きついてキスをしたくなる衝動を抑えて椿の手を取った。
「会いたかった。椿ちゃんは?」
 両手を手前に引っ張りながらニコニコと笑む大和に、椿は周りを気にしながらも遠慮がちに微笑み返した。ほんのりと耳朶が赤くなっているのは暑さのせいだけではないだろう。
「う、ん。……あたしも」
 囁くように頷く椿は、恥ずかしそうな様子で上目遣いに大和を見上げた。その行為が大和にどんな感情を抱かせるか、きっと椿は分かっていない。
 大和は気づかれないようにそっと息を吐き、気持ちを落ち着かせる。
「じゃあ、行こうか。美術館だったよね」
 大和が椿の指を絡ませて歩き出す。それについていくように椿はコクンと頷いた。デートの行き先に美術館を選んだのは彼女自身だった。大学で取っている講義の課題があるからだと言っていたが、理由は何だって良かった。絵画に興味はなかったが、こうでもなければ美術館をデート先に選ぶこともないだろうと思うと、それはそれで椿に申し訳ない気もする。椿は動物園より植物園、遊園地よりも博物館の方が雰囲気に合っているイメージだ。
 指定された美術館は電車で1時間ほど行った所のすぐ近くにあり、動物園と隣り合わせに建てられている。椿もそこへ行くのは初めてだったが、大和が一緒にいれば迷うことはないだろう、とどこに行きたいか尋ねられた時、すぐにその美術館が浮かんだのだった。
「どういう課題なの?」
 電車がホームに滑り込む。平日の昼時のためか客数は少なく、二人は空いている席に並んで腰掛けた。手はずっと繋がれたままだ。
「学生向けの小さなコンクールがそこであるんだって。で、気に入った作品の何点かの感想を書くの」
 まるで小学生の宿題みたいでしょ、と椿は笑った。実際高校で美術を選択していて、似たような夏休みの宿題が出たことがあるのだとも言った。
「面白そうだね。僕は美術を取っていないからよく分からないけど」
 にっこりと楽しそうに聞いてくれる大和の言葉に頷いたあと、椿ははたと気づいた。あ、と声が漏れ出た。
「大和くん、僕って……」
「うん。まずは言葉からと思って、もう前みたいに女言葉は話さないでおこうと決めたんだ」
「そっか。うん。オレって言うより似合ってる」
 一瞬椿の指が強く大和の手を握った。それだけで大和は去年の夏を思い出した。椿の前でキレたのはあの時の一度だけだ。たったそれが椿の脳裏に強く焼き付けてしまったことに大和は難しい表情をした。
「……ごめんね」
 大和は呟くように謝った。
「ん? 何が?」
 椿が笑って首を傾げて、だから許されたような気分になる。
「好きだよ。椿ちゃん」
 唇を耳元に近づけて告白をする。椿が顔を赤くして俯く。
 ごめんね、ともう一度心の中で謝る。椿がこういうことを苦手に思っていることを分かっていて、けれど大和はつい行動に起こしてしまうことに、ごめんねと申し訳なく思う。そして同時に、こんな自分を受け入れてくれてありがとう、と口付けたくなる。
「あれ。椿ちゃん、これどうしたの?」
 もう一度手を握りなおそうとして、大和は繋がった椿の左手を持ち上げた。今まで気づかなかったが、人差し指と中指の第2関節辺りに絆創膏が貼られていた。
「あ……えーと……大したことじゃないから」
 慌てて隠そうとする椿の右手を抑えて、大和はダメだよと上げた手を下ろさなかった。困惑したように見つめられ、なんとなく悪いことをしている気分になるが、それでも譲れない。椿の身体を傷つけるものは、たとえ椿自身だとしても納得いかないのだ。
「大したことじゃないって? なら説明なんて簡単だよね」
 相変わらず柔らかな口調で言われ、うっと椿は言葉に詰まる。自分から放った言葉の揚げ足を取られ、言い返すこともできない。意地悪だ、と言ってみるが声にならず、口の中で転がしただけになった。
「どうしたの、この傷?」
 ん、と首を傾け、大和は促すように椿の顔を覗きこんだ。
 椿は観念したようにそっと息を吐いた。
「包丁で切っちゃったんだ。へへ、自分の不器用さにびっくりしちゃった」
 声を立てて笑った。大和の眉間に皺のよった表情は変わらなかった。
「大丈夫だよ。全然深くなかったし。ただの不注意だし」
 椿はどうして良いか分からないような笑顔で大和の目を見つめ返した。
「そっか」
「うん。そうなの」
 大和はもう一度「そっか」と呟いて、素早く彼女の指に唇を近づけて腕を下ろす。
 椿は目的の駅に着くまで顔を赤くしたまま、顔を上げることはなかった。

 東口に出てロ字に伸びる横断歩道を斜めに渡る。公園を抜けて暫く歩くと美術館の案内看板が見えた。開催期間が2週間というのは果たして短いのか長いのかは大和には分からなかったが、人の多さには驚いた。学生だけでなく年配の人もけっこういたからだ。
「へえ、美術って油絵だけじゃないんだ」
 入り口でパンフレットを貰い、二人で壁に飾られた作品を眺めていく。入賞したものには下にさり気なく札が貼られていた。まず目に付いたのは写真を合成したようなデザインのポスターと、水彩画だった。テーマごとに並べられているらしいことはすぐに分かった。
「うわ、すごい、椿ちゃん! これ鉛筆だけ……?」
 気づけばリクエストをした椿よりも大和の方がはしゃいだ声を出している。くすくすと椿は笑い、離されることのない絡められた指に力を込めた。良かった、楽しんでくれている。
 大和が足を止めたのは一段と大きなパネルの前だった。モノクロで描かれた異空間は確かによく見ると鉛筆だけで色の調子を付けたもので、その大きさとデザインに素人ながら圧倒された。隣のパネルも同じように鉛筆だけで描かれ、その艶っぽい女性の表情には充分興味をそそられるのだが、全く違った迫力があった。
「渡会さんっていうんだ、これ描いたの。僕たちの一つ上だよ、年齢。すごい」
 他の作品もそうだが、自分たちとあまり変わらない年齢の人たちがこうして感動を与えるようなものを作っているのだと思うと、また違う感嘆の息が漏れる。彼らの感性が少し羨ましくなった。
 奥へ歩むと工芸の展示場に入る。絵画ばかりだと思っていた大和はさらにおもしろくなってまじまじと見ていく。細い竹で編んだスタンドグラスやカメラのフィルムケースで作られたからくり玩具は触れなくても楽しかった。椿の腕を引っ張って進んでいく大和に苦笑しつつ、椿は「待って」の一言もかけられずにいた。
 結局二時間ほど堪能し、出てきたときには小腹が空いてきた。近くにファーストフード店があったのを思い出し、大和はそこに入ることを決めた。
 トレイを持って階段を上がる。大和は席に着くと早速ハンバーガーに齧り付いた。
「楽しかったね。ありがとう、付き合ってくれて」
 ストローを差しながら椿が小さく頭を下げる。いやいやと大和が笑う。礼を言うのはむしろ自分の方だ。
「ん。これって年に一回? 来年もあったら誘ってほしいな」
「夏と冬にあったと思うけど。気に入ってくれた?」
「うん。意外に楽しかった。明日も楽しみだね、椿ちゃんの浴衣」
「えー……」
 浴衣あったかな、と椿は真剣に悩む様子を見せた。そんな仕草や表情が可愛くて、大和はふふっと顔の筋肉が緩むのが分かった。
「椿ちゃん」
 大和が呼びかけると椿が顔を上げる。瞬間にケータイの決定ボタンを押した。カシャッという機械音が響き、椿の目が丸く見開かれた。
「え、え!?」
「可愛く撮れたよ。アリガト」
「なんで? 消して!」
「ヤダ」
 本当は麻耶の提案した罰ゲームのためだけど、きっと近いうちに待ち受け画面になっているかもしれないので、アリガトと言った。
 顔を赤くして恥ずかしがっているのか困っているのか怒っているのか全部なのか分からない表情の椿に、この店を出たらキスをしようと決めた。