Cette Place

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「じゃあ、行ってくるから」
 午後五時半を回って大和は母親に向かって声を掛けた。ぼんやりとテレビを見つめる彼女は一瞥もしない。コホッと咳を一つして、なおバラエティ番組を笑いもせずに眺めている。思わず大和は溜息し、そのまま玄関を出た。真は既に迎えに来た友人とともに出かけていた。大和の前では覇気のない彼女は特別珍しいものではなかったことを思い出す。忘れてたわけではなかったけれど。

 駅の周りは浴衣を着た若者や子ども達で溢れていた。祭りはそこからしばらく離れた大通りであるのだが、大抵は駅周辺で待ち合わせをするのだろう。大和たちも例に漏れず、駅に隣接するショッピングモールの入り口前で待ち合わせしている。大和が行くと既に何人かが来ていた。椿の姿はまだ見えない。少し残念に思って、けれど気を取り直して足を進めた。
「あ、ヤマトくんだ〜!」
 女子の一人が気づいて声を上げる。ひらひらと手を振りながら大和はそれに答えた。
「ホントだ! 久しぶり〜!」
 男子も同じように声を掛けた。髪の色や雰囲気は皆それぞれ変わっているが、基本的な部分は変わらず、すぐに誰が誰かを思い出すことができた。
「おっ、ヤマトじゃん! いつ帰ってきたんだ?」
「ん、一昨日」
「藤崎さんにはもう会ったのか?」
「もちろん」
 にっこりと笑みを見せると、どこからともなく「おぉ〜!」とどよめきが起こる。こういったノリの良い雰囲気が好きだった。
 そこへ篠原と森岡が揃って姿を見せる。相変わらず仲が良いんだなと感心した。そういえば二人とも同じ大学へ進んだという話を聞いた。やはりまだサッカーをやっているんだろうか。
「あーヤマトだ! オヒサ〜」
「藤崎さんと榎本さんは? まだなんだ?」
「うん。そうみたい」
 揃いも揃って第一声が椿のことなのかと、大和は思わず苦笑した。大和の向こうの生活のことなど二の次なのだ。
「相変わらず?」
 森岡がニタリと笑う。意味を掴みきれず大和は首を捻った。
「椿ちゃん? ラブラブなのは変わらずだけど」
 自分で言うかよ、と森岡が笑って、けれど彼の聞きたかったこととは違ったようだ。
 だが森岡はそれきりで、また問うことはなかった。大和はもう一度首を傾げた。彼の考えていることは単純そうでなかなか見えない。
 椿と彩芽が現れたのは待ち合わせ時間より少し遅れた頃だった。二人とも浴衣を着ていて歩き慣れていないような足つきで駆けてきた。
 朝顔の淡いピンクが椿によく似合っていて可愛らしい。彩芽は紺の下地に赤い色が映えた浴衣で大人っぽく、さて彼女はこんな雰囲気の持つ女の子だったかと驚いた。
 それでもやはり目に行くのは椿の方だが。
 可愛いっ、と抱きしめたくなるのをどうにか抑える。
「ヤマトくん、聞いたよ。昨日椿とデートだったんだってね?」
 ぞろぞろと歩き出す中で椿と手を繋いでいいものか彼女の隣で思案していると、横から彩芽が顔を出しながら言った。
「え、あ、うん」
 反応が遅れた大和を気にするふうでもなく、彩芽は続けた。
「あのワンピースね、あたしが選んだんだよぉ。センス良いでしょ」
「彩芽、服飾の短大でデザインもやってるんだって」
 自分のことのように誇らしげに言う椿。大和にとっては彩芽のセンスよりもそんな椿が可愛くてしょうがない。どうしてか、なんていうのは当たり前すぎて分からない。
「へえ。でも正解だったかも。榎本さん、椿ちゃんのことよく分かってるし」
「でっしょう。感謝してよねっ、あたしが言わなかったらサイズの合ってないジーンズとか平気で履いちゃうんだから」
「うん。あ、椿ちゃん、綿菓子食べる?」
 脈絡なく屋台を指差す大和に椿は驚き、彩芽は呆れてムッとした。別の大学を選び家を出て、椿からも地元からも離れ、大和の椿へ対する接し方は拍車をかけて過剰になっているようだ。
「ううん、いい」
 前を進んでいく篠原たちを無視するのもできない椿はふるふると首を横に振る。
「……じゃあ焼き蕎麦は」
「ううん」
「カキ氷は?」
 ふるふる。
「リンゴ飴?」
 ふるふる。
「フライドポテト」
 ふるふる。
「……」
「……」
 困った沈黙が流れる。
 どうして上手くいかないんだろう。椿はどうして首を横に振るのだろう。分からなくて落ち込む。
 見かねた彩芽が腰に手を当てて大きく溜息を洩らした。
「ヤマトくん、椿に構うのもいいけど篠原君たちとも話してきたら? 全然連絡も取ってなかったんでしょ」
 ぐいぐいと背中を押しやられ、仕方なく大和は前方を行く篠原と森岡の横へ出た。近くにいた畑や新橋にも話しかけられたが、適当に相槌を打って彼女たちとは距離を取った。
 本当はずっと椿の隣にいるつもりだったのに、まさか彩芽に妨害されるとは思いもしなかった。彼女の呆れた口調から自分が悪かったのだと分かるが、どこがいけなかったのかさっぱり分からずにいる。
「あれ、ヤマト。どうした?」
 浮かない顔をした大和が隣に現れ、篠原はぎょっと驚いた声を出した。
「藤崎に嫌われたか」
 可笑しそうに言ったのは森岡だ。あながち外れたわけでもない物言いに、溜息を隠すことはなかった。マジかよ、と森岡も目を丸くさせた。
「お前会った瞬間からベタベタだもんな。高校ん時と変わってないし。もうちょっと我慢することを覚えたら?」
 森岡が笑って言うと、大和は信じられない、と彼を睨みつける。
「我慢なんてできるわけないじゃん」
「でも藤崎さんって人目とか特に気にするタイプだろ」
 篠原までもがそう言って、けれどそれは大和自身も気づいていたことだから言葉に詰まる。
「分かってるよ、そんなことは……」
 実を言えばこれでも気を遣っている方だ。でなければ所構わず抱きしめているだろうし、いつもキスをしたいと思っているし、できればそれ以上のことだって――。けれど未だ唇を触れ合うだけで留まっているのは、椿を恐がらせたくないからだし、嫌がることはしたくないからだ。確かにいつまでもこのままではずっと肌を触れ合うことはできないのではと不安に思うことはあるが、離れている分だけこれ以上見ているだけでは理性を保てそうにない。指先だけでも触れ合っていなければおかしくなる。
「切羽詰ってんなぁ。家だけでも離れなけりゃ良かったじゃん」
 思いつめたような顔をしたまま俯く大和に森岡は肩を竦めて言った。その通りだと篠原も同意してみせる。大体が大和に椿と離れられるとは想像だにしていなかった。
「……それでもあの家を離れたかったんだ。あそこに居ても何もないから」
 吐き捨てるように言った大和に、篠原も森岡も少なからず驚いた。
 そしてそんな二人の反応を見て大和は、そういえば二人には家のことなど何一つ言っていなかったと気がついた。
 それでも問題はなかった。椿だけが知っていれば、自分は救われると思っていたから。
「後悔はしてないんだ。行く前は椿ちゃんと離れるの嫌だったし、今でも会いたい時に会えないのはつらいけど、後悔は不思議としていない。なんでかな、メールを送ったら遅れても必ず返事してくれることとか、離れてても繋がってるって思えるからかな」
 今はまだ言えないけど、いつかこの二人には話してもいいかなと思う。その時は二人とも、椿と同じように真剣に聞いてくれるだろう。一番に理解してくれる友人として大和は二人を信頼している。
「――なんかさ、変わったな、ヤマト」
 ふと呟くように森岡が言った。
「そう?」
 大和は微笑を浮かべ、篠原も森岡の言わんとしていることが分かった。微笑んでいてもどこか意味深な表情をする大和は、確かに雰囲気が変わった。転校してきたあの日から大人びた柔らかな印象があったが、今は更に大人しくなった気がする。
「ていうかアタシって言わなくなったのな。オネエ言葉はやめたのか?」
「……うん。やめた。似合わなかったでしょ」
 苦笑する大和は、てっきり森岡は同意するものかと思っていた。
「や、でもカッコ良かったぜ。俺らが何言っても貫くの、すげえなって思ったし」
 ニカッと歯を見せて笑う森岡の反応は大和の予想を超えたものだった。そんなふうに言われたのは初めてで驚いた。
「俺はオネエ言葉のヤマトの方が良いけど。どうしてやめたんだよ?」
「どうしてって……」
 それも家を出た理由と一緒だった。
 けれどなぜか言うのを躊躇った。
「普通の話し方のヤマトって、らしくない感じがする」
 そう言って、森岡は戸惑う大和に真っ直ぐ視線を向けて、彼らしくない苦笑を浮かべた。
「まあ、俺が言ってもヤマトにはどうでもいいことなんだろうけど」
 大和は何も言えなかった。
 自分らしい――なんて、考えもしなかった。
 今の自分が話している言葉は何だろう。付け焼刃でしかないのだろうか。
 大和は途端に不安になった。