Cette Place

36


 さすがに三日間連続で椿と会う約束はしていなかった。午前十一時を回った壁時計を見上げながら、毎日のようにメールをしていたことを考えれば向こうにいた時の方がよっぽど彼女と話をしていたんだな、としみじみと思う。
 何もすることが思い浮かばず、起きようかどうかで迷っている時、不意にケイタイが震えた。メールの着信を伝えるバイブ音だ。
 もそもそと起き上がり、壁に背を預けて座ると枕元に置いてあったケイタイを手に取る。差出人は麻耶からだった。
『カノジョの写メ、忘れないでね〜!』
 思わず苦笑が零れる。余程椿に興味があるのだろう。麻耶に告白されたことはあるけれど、あれから数ヶ月も経っている。今はこうして軽口も叩けるのだから、大和は少し複雑な気持になった。大和は未だ麻耶ほど気持の切り替えを器用にできないのだ。女が強いと言われるのは順応の速さからも見た結果なのだろうか。
 大和は少し考えて、ケイタイを閉じた。すぐに返信する必要もないだろうし、自分が撮った椿の写真を他の誰かに渡すという行為に抵抗があった。麻耶にならば見せるだけでも充分だろう。それよりも腹が減った。そろそろ朝食よりも昼食と言った方が的確な時間帯だ。
 ベッドから降り、着替えもせずに部屋を出てリビングに向かう。家の中がやけに静かだ。もともと賑やかな方ではなかったけれど。
「あれ、誰も居ないの……?」
 1階へ降りても誰の気配もない。母親の姿くらいあっても良いものなのに、と見渡すと、和室から出られる裏口の窓の外に彼女の背中が見えた。どうやら布団を干しているようだ。それを確認してから大和はリビングへ入り、テレビの電源をつけた。朝のワイドショーが終了を告げ、ニュース番組ばかりが流れる。
 ダイニングテーブルの上は綺麗に片付けられていた。冷蔵庫を開けてみても食べられそうなおかずは残っておらず、100%オレンジジュースを二口飲んで扉を閉めた。自分で作る気にもなれないのでとりあえずリビングへ戻ってソファに座る。作ってくれるかは分からないが、母の昼食を待つことにした。しかしテレビを見ていても退屈であることには変わりない。
 とりあえず今朝の麻耶からのメールに返信を打つことに決めた。
 ポケットに入れていたケイタイを取り出し、新規作成にカーソルを合わせる。
『忘れないから、メールはしないよ』
 送信ボタンを押して再びポケットにしまう。テレビを見てもまだ数分と経っていなかった。
 その内に母親が裏口から戻ってきた。洗濯籠を洗面所へ戻すと、リビングを横切って台所へと入る。ちらりと大和を見やったが、すぐに何でもなかったかのように視線を戻した。大和もテレビから目を話さず、親子の間と言うには異様なほどの静寂が流れる。
 しかしこれも日常だった。それを思い出したような気がした。
 台所から包丁の切る音が響く。心地良いくらいの一定のリズムで音が刻まれている。
 会話はないがテレビの音声に重なって聞こえるその音は決して嫌いではない。ソファに横たわって目を閉じると、小さい頃を思い出せる。祖母が亡くなってから母との会話はこの音を聞くことだと考えていた。いつからそれすらも諦めてしまったのだろうか。
 香ばしい匂いがして目を開ける。リビングの方へ首を回すと二つ分の丼がテーブルに置かれていた。一瞬迷う。
 そういえば真の姿が見あたらないが、出かけているのだろう。父は当然仕事だから、やはりあれは大和のか。そこまで考えて再び大和は上げていた頭を下ろして突っ伏した。うんざりする。なぜ毎回母の行動を読むようなことをしなければならないのだろう。だから嫌だったのだ。
 椅子を引く音がして、大和は身体を起こす。振り返ると母親だけがラーメンを啜っている。大和ものろのろと立ち上がって向かい側に座り、箸を持ち上げた。母は一度として顔を上げない。けれどラーメンは美味いのだ。
 彼女より早く食べ終わった大和は、食器を流し台へ運ぶとそのまま二階へ上がる。服を着替えて出かけることにした。
 いつまでも家の中に居ても息が詰まるだけだった。
 ケイタイを見るとまだ一時にもならない時間だ。メールの返信はまだない。麻耶のことだからすぐに返ってくるものと思っていたので、拍子抜けだ。
 行ってきます、の言葉もなく、大和は玄関を出た。
 空は晴れ渡って元気だ。
 特に予定もない大和は久しぶりに本屋へ寄ろうと決めた。本を読むのは好きだ。新しい知識を脳に埋め込む作業が好きだった。ただ物語を楽しむことも好きで、けれど何度も同じものを読むことはあまりない。一度読んだ内容はすぐに思い出せ、次に何が起こるのかを追いかけるのができないのは、あまり楽しさを見出せない。だから本屋よりもレンタルの方が自分に合っていると思う。
 だが、自分のものになるという点はなかなか良い。所有物が欲しいのだ。他の誰でもない自分の物であるという証が、金を払うことならそれも納得できる。
 駅前に行けば本屋はいくつだって見つけられた。大和はそこから歩いて10分ほど離れた古本屋へ足を運ぶ。大型のその店は品数の多さではこの街一番かもしれない。いらっしゃいませ、という掛け声に迎え入れられながら、コミック、文庫のコーナーを回って奥ばった位置にある新書のコーナーで足を止める。左右に海外作家のコーナーとハードカバーのコーナーに挟まれたそこは、たまに掘り出し物が眠っていたりする。
 興味深そうなタイトルにつられながら読みまわしていると、首が疲れてきた。ふと時計を見ればゆうに1時間は同じコーナーに居たことになる。新書のコーナーは諦めて右に進む。
「あ」
 思わず足を止めたのは、<法律>とポップに書かれた前でだ。大学の教授の名前が著者名として載っている本を見つけた。何冊か出しているということは知っていたが、こんなところで手に取れるとは思わなかった。買う気は無いが、とりあえず棚から抜いて見た。相変わらず堅苦しい文章のオンパレードだ。
 まるで授業を聞いているような文面に苦笑していると、ポケットに入れていたケイタイが震えた。ようやく麻耶からの返信か、と思いながら開くと、その期待は裏切られた。
 椿からだ。今となっては珍しいことでもない。
『別れるってこと?』
 ……。
 思考が止まる。
 理解ができない。
 別れる?
 誰と誰が?
――アタシと、椿ちゃん……?
 大和は急いでリダイヤルボタンを押して電話をかけた。メールでは駄目な気がした。文字だけではきっと駄目になる。
 というよりは恐怖の方が大きかった。昨日までの幸せが闇に溶けてしまいそうで。
『も、もしもし』
 しばらくして椿が出る。彼女の声も少し震えていた。いつもよりコールが長かったのも偶然ではないだろう。
「もしもし、椿ちゃん? 今のメール、何?」
『何って……あたしの方が分かんないよ」
 詰め寄る大和に怯えた小さな声で椿が答える。分からない、という椿に大和は腹が立った。
「ア、僕達、付き合ってるんだよね。僕のこと好きでしょ?」
『……うん』
「じゃあどうして別れる、なんて聞いてくるの? 椿ちゃんは別れたいの? 他に気になるヤツでもできた?」
『ちっ違う! だって――』
「だって、何?」
 どうしたって責めるような言い方になってしまう。自分で止められなかった。
『だって大和くんが――』
 椿が何を言おうと別れる気はないと押し切るつもりでいた。
『メールはしないって。忘れないからって……。ねえ、どういう意味?』
「……?」
『あたしのことは忘れないけど、傍に居たくないってことなのかなって。メールしないのは話したくないのかなって、そう思うじゃん。それって今の関係を終わりにしたいってことじゃ、ないの?』
「なに、それ……」
 何のことを言っているのか。
 と、問いただそうとして、ハッとした。忘れないから、メールはしない。
 それは麻耶に送ったはずのメールの文面そのものだ。
『なにそれって、大和くんが言ったことだよ……? あたしは、大和くんがそうしたいならそれでも』
「駄目に決まってるだろ!」
 大和は思わず声を荒げ、慌てて外へ出た。
「……椿ちゃは簡単にそんなこと、言えるんだ?」
『ちがっ、簡単になんか!』
「メールは友達に送ったつもりだったやつで、誤解させたことは謝るよ。でもだからって簡単にそんなこと言ってほしくなかった」
 電話で話すときもメールを交わす時も、椿はこの関係がすぐにもで壊れてしまうような脆いものだと思っていたのだろうか。やっと椿を手に入れた大和の気持ちも知らないで、大和が簡単に椿を手放しても不思議に思わないような、その程度にしか思ってなかったのだろうか。
『――簡単になんか、言ってないよ……っ』
 喉の奥に言葉を詰まらせているように、搾り出すように椿が言う。
『……ごめんね、勘違いして。いつ向こうに戻るの?』
 静かな口調はいつもの椿の声で。けれど柔らかな空気は感じられなかった。
「明後日だけど」
 僅かな期待をしつつ答えると、そっか、と心なしか気落ちした返事が聞こえてきた。
『明日は、会える?』
「会えるよ」
『じゃあ会おう? ちゃんと会って謝りたい』
「今からじゃ駄目なの?」
『今は……』
 途切れる言葉に、大和が耳を澄ますと椿の背後が賑やかであることに気づいた。よく分からないまま苛立ちが募る。
「分かった。1時にモールの前で待ってる」
『うん、じゃあ』
「うん」
 言って大和から電話を切った。
 今までは暫く沈黙を作っていたけれど、それもしなかった。すぐに切った。
 すぐに、後悔した。