37
何だろう、と首を傾げながら手に取ると、メールの着信だった。差出人の名前は、藤崎大和だ。
『忘れないから、メールはしないよ』
……。
どういう意味だろうか。
しばらく呆然と画面を見ていた椿は、ようやく今まで出かける準備をしていたことを思い出した。
そうだ、それよりも時間に遅れてしまう。ある一種の現実逃避のように椿はケイタイをしまい、リビングへ降りた。
1階へ降りて玄関を出ても、やはり気になるのはメールのことだ。
自転車で駅へ向かい、電車に乗っていつもの駅で降りる。大学のサークル仲間が既に集合しているのが見えた。
――忘れないから、メールはしない。
何を忘れないと言っているのだろう? 昨日の夏祭り? 蛍を見たこと? それとも、あたし自身だろうか?
メールはしないというのはきっと、もう椿とは話したくないということだろう。見限られたのだ、たぶん。
もともと今の関係も、大和が言ってきてくれたから成り立っていて、そうでなければ椿からは告白もできなかったと思う。彼を好きになることは必然であったとしても。
「どうかした、椿ちゃん?」
青褪めた椿に友人が声をかける。
「ううん、何でもないよ」
椿は首を振って笑って見せるが、内心が隠せ切れておらず、けれど椿自身がその事に気づいていないから友人はそのまま納得する素振りを見せた。椿が簡単に悩みを打ち明けてくれるような性格ではないことは、既に知っていた。
『別れるってこと?』
充分に悩んで、受信から数時間も費やして、結局それだけしか送信できなかった。否定して欲しくて疑問形にしてみたのがささやかな抵抗で。
しかしそんな小さな思惑も見事に打ち砕かれた。
朝にメールを見てからこれでもかという程に悩んだことを、大和に「簡単に」と言われてしまった。
腹が立った。
泣きたくなった。
悲しかった。
だから会おう、と言ったのに。
電話越しでは伝わらないと思ったから。
会いたい、と言ったことはあったけれど、会おう、と言ったのは初めてだったのに。
そのことに大和は気づいてくれなかったのだろうか。
『ごめん。今日は行けなくなった』
それだけのメールが、翌日の朝に届いていた。
朝と言うにはだいぶ遅れた、昼前の時間帯。
もう返す言葉が浮かんでこなかった。
朝は真の走り回る足音で目が覚めた。何事かと思っているうちに大和の部屋のドアが開けられる。
「兄貴、起きろって!」
「んあ?」
間の抜けた声を出しながら大和が身体を起こすと、急いだ様子の真が大和を見下ろしていた。父親に似た真は切れ長の目で、カッコイイと言うよりはクールと言われることの方が多い顔立ちをしている。大和とは反対のタイプだ。
「母さんが熱出して寝込んでるんだ。父さんは仕事だし俺は塾あるから、俺が帰ってくるまで頼みたいんだけど」
寝起きの頭でぼんやりとしているところを付け込んで来られた感じだった。
「は? 冗談」
お前が一番分かっているんじゃないのか、と言おうとしたところで真は背を向けて部屋から出て行く。
「頼んだから!」
「嘘、でしょ……」
弟の背が見えなくなっていくのと同時に大和は頭を枕の上へ落とすように倒れた。最悪の日だ。
ああ、それに今日は椿と会う約束をしていたのだ。
大和は勢いをつけて起き上がると部屋を出てリビングへ向かった。しかしそこに既に真の姿はなく、空になった茶碗と使い終えた箸が二つずつ置いたままになって机の上にあった。片付けもされていないテーブルから察するに、本当に彼女は寝込んでいるようだ。
どうして今日なんだ、と思いつつ、兆候は確かにあったと思い出した。帰ってきた日に母親は既に咳をしていて、けれど父も真も気にした様子は見せておらず、その後母自身もアピールするような仕草もなかったので大和も気にしていなかった。ただの風邪と分かっていても心配しないということはないのだ。
炊飯器から保温されたご飯を茶碗に盛り、昨日の残りのおかずを冷蔵庫から漁って食べた。味気ないものだったが一応はそれで満足し、三人分の食器をまとめて洗った。洗面所へ顔を洗いに行くと洗濯物がたまっていることに気づき、ついでにそれらを干した。
家族四人分となると干す量も随分と違って、毎朝コレをやっている専業主婦というものは大変だなとしみじみ思う。思う、だけだ。
ふと気になって二階へ上がった。親の寝室へ入るのはいつ振りだろう。幼い頃に一緒に寝た記憶が仄かに残っているくらいで、大和が思春期に入ったことと祖母が亡くなったこととが重なって、たぶん、それ以来だ。
静かにノックをして中を窺う。部屋には箪笥とベッドしかなく、至極シンプルなものだった。そういえば父親の書斎はあるが、母親の部屋と言える個室は夫婦の寝室だけだと今更に気づく。昼間は彼女だけしか居ないのでそういったものは要らないのかもしれないが。
彼女はクーラーの利いた部屋で布団をかぶって眠っていた。風邪を悪化させそうなその光景に疑問を抱きつつ、ベッドに近づいていく。顔を赤くした母親が汗を浮かばせながら眠っている。父親が置いたのだろうか、隣には濡れたタオルとスポーツドリンクのペットボトル、風邪薬と体温計があった。大和はタオルを手に取って汗を拭いてあげる。起きるかと思いながら緊張しつつ、けれど結局彼女が目を開けることは無かった。
母の顔はこんなに小さかっただろうか。腕はこんなに細かっただろうか。背はこんなに低かっただろうか。
いつの間にか自分は父と同じくらいの背丈になって、真とは違って線も細くない。確かに今のような関係になったのは彼女から避け出したことが始まりだけれど、それでも彼女は大和の母なのだ。二人といない母親なのだ。
大和はタオルを持って部屋を出た。一階へ降りて洗面所でタオルを手洗いする。再び寝室へ戻ってタオルを元の位置へ戻した。
自分の部屋へ戻って携帯電話を取り出す。椿に今日は行けないことを告げるメールを送信して、ケイタイはそのまま部屋へ残して台所へ向かう。
初めてだった。母のために何かをするという行為が。昔は、祖母がまだいた頃はどうにかして気を惹こうとしたものだ。そんなことを思い出しながら、すっかり慣れた手つきで鍋を取り出し、コンロの上に乗せた。
粥ができ、時間を見てもう一度寝室へ入る。今度もノックをしたが、やはり返事はなかった。
ペットボトルの中が減っていないことを見てまだあれから起きていないことを知る。大和はタオルを取って同じように額の汗を拭いてあげた。
不意に。
「あ」
パシッと手が払われて。
開けられた目がこちらを睨んでいる。
それとも――怯えているのだろうか。
母に怯えられた息子はどう対応していいものか。
「あ……」
彼女もさすがに悪いと思ったのだろう。自分の払った手を見て困惑した表情を浮かべた。
しかし僅かの間を置いて口が微かに動いた。
「――」
うまく聞き取れないほどの声音。え、と大和は聞き返した。
「え……?」
「……て……」
「……」
「出てって……っ」
「……」
唸るような、搾り出す声。椿の泣きそうなそれとは全く異なる、怒りも含まれた声。
どうして、と叫びそうになるのをどうにか抑えた。
タオルを置いて部屋を出て行く。リビングへ戻るとテーブルの上に置いてあった粥が目に入った。
何の為に自分はこれを作ったのだろう。ちゃぶ台だったら迷わずひっくり返していたかもしれない。
「くそっ!」
代わりに新聞紙を壁に叩き付けた。破裂音が響く。けれど手応えは感じられず消化不良気味に終わった。苛立ちは収まらない。
別に何かを求めていたわけではなかった。ありがとうの言葉も期待していなかった。彼女が自分の母親というだけで、タオルで汗を拭くくらいは特別な事ではないのだと、思っていたけれど。
それさえも母には苦痛なのだろうか。この家にいるという、それだけであの視線を向けられなければならないのか。
信じられない。
耐えられない。
だから、この家を出たかったのだと、改めて思うことが出来ただけだ。
それが何になる。
「ちょ、兄貴、何やってんの」
いつの間にか帰ってきていた真が驚いた声を上げた。大和は放り投げた新聞紙をそのままに振り返る。
兄の思いのほか鋭すぎた視線に真はぐっと息を詰まらす。実の兄だからこそ本当に怒っている顔なんて分かっていた。
「もう我慢できない。向こうに戻る」
「は?」
呆然とする真を横切り、廊下に出た。慌てて真が追いかけてくるのを背後に感じる。
「戻るって……」
「真には悪いけど、もうこの家に帰ってくることはないと思うよ」
「え、何……? なんで?」
階段のところで腕を掴まれ足が止まる。
「母さん? 母さん、兄貴に何か言ったの? 話したの?」
話したの。
そんな当たり前のことが。
「――ないよ、それ」
あるわけがない日常。
「……そっか」
世間から見れば、たぶん、異常。そんなことにも気づかなかった。
いつ振りだったのだろうか、彼女が大和に声を上げたのは。あのか細い声は、いつだって大和以外に向けられたものであったはずで。
「父さんには俺から言っとく」
寂しそうに聞こえた真の声を大和は聞こえないようにして階段を上った。