Cette Place

38


 父親が帰宅する前に大和は新幹線のチケットを買った。夕方頃に家を出て、アパートに着いたのは夜もだいぶ更けた時間だった。椿に何の一言も入れなかったのは拙かったかもしれない、と電車に乗っている間からずっと考えていたが、結局メールの一つも送れなかった。
 会おうと約束して土壇場で断った自分に非があるのは認めるが、それに対して何の返事もしてこない椿も悪いのだ。……そんな責任転嫁さえしてみる。それで気分が晴れるわけでもないのに。
「藤崎くん?」
 大きな荷物を脇に置いて玄関のドアの鍵を開けたところで、大和は不意に隣人から声を掛けられた。夜も遅く、まさか彼女の声を聞くことになるとは思っていなかったので少しばかり驚いた。
「あ……、こんばんは」
 律儀に挨拶をする大和に望はクスリと笑って、こんばんは、と丁寧に頭を下げてみせる。
「えらい早かったねぇ、帰ってくるの」
「ああ、まあ。先輩は大阪に帰ってないんですか?」
「うちは9月に帰る予定やねん。あ、そや。晴太くんが何か暴れてるらしいよ? 何かやったん?」
「え? 晴太くん?」
 思いがけない名前に大和は目を丸くさせた。家庭教師のアルバイトは夏休みの間もやることになったが、大和が帰省する日程は事前に言ってあるので問題はなかったはずだ。暴れているというのは穏やかではない。
「明日また電話してみます」
 大和がとりあえず、と言うと望は頷いた。
「うん、その方がええわ」
 そしてじっと大和を見つめる。大きな彼女の瞳が真っ直ぐと向かってくるので、大和は何となくたじろいだ。胸の奥を覗かれているようで思わず視線を泳がす。
「なんか、元気ない?」
「えっ……そう、ですか?」
「疲れてるんかな? そんな感じする。ゆっくり休みや」
 小首を傾げて忠告してくれる望に大和は素直に頷いた。柔らかな関西弁の口調が心地良くて暖かい。
 一瞬、何もかもを彼女に打ち明けてみたくなった。望はきっと的確なアドバイスをしてくれるだろうし、優しい慰めの言葉も掛けてくれるかもしれない。だけどそれはしなかった。
 相談するにしても望は大和の事情など何も知らないし、一から説明するのは億劫だ。とても面倒臭い環境を分かりやすい言葉で表す技量も持ち合わせてはいない。
 その代わりに大和は一つだけ尋ねてみた。
「あの、先輩は卒業したら大阪に帰るんですか?」
 唐突な質問だった。望は刹那驚いた顔をして、すぐに難しい表情を浮かべて考える仕草をした。眉間に皺を寄せて、しばらくしてふるふると頭を振る。
「まだ分からんよ、そんなこと。こっちで就職活動したらやっぱりこっちに残るやろうし、親が帰って来いって言うてきたら帰るかも知れんし」
「帰ることに躊躇いとか、ないんですよね」
 ぽつりと呟いた大和の言葉に、望はキョトンとして彼を見上げた。
「まぁ寂しくはなるけど……、でもそんなもんちゃうんかなぁ? 会いたかったらまた連絡すれば良いんやし」
「――ああ、……そうですよね」
 やはり呟くように頷いて、大和はふふっと微笑んだ。
 なんだかすぐにでも望が居なくなると思っているかのような寂しそうな表情だった。
「あ、ちょっと待ってて!」
 不意に大きな声を出して望は自分の部屋へ入っていった。待ってて、と言われたからには待つしかないのだろう、と先に荷物だけ玄関に置いて再び外へ出る。調度良いタイミングで望も再び現れ、手には可愛らしくラッピングされた小さな袋があった。
「これ、うちのバイト先の子が焼いてくれたクッキー。美味しかったから持って帰ってきてんけど、藤崎くんにあげるわ。雪野ちゃんっていうんやけど、めっちゃええ子やねん。藤崎くんもコレ食べて元気出し!」
 望が自信満々にそう言って渡すので、確かに気分は今より浮上するかもしれないと思えた。本当に気づかないうちに疲れているのかもしれなかった。
「ありがとうございます」
 今度こそ大和は「お休みなさい」と告げて部屋へ入った。最後は無理な笑顔でなかったと思えた。

 翌朝、クッキーのおかげかどうかはさておいて、最悪な気分で目が覚めるということはなかった。枕元に置いておいたケイタイを手に取ってみる。着信のランプが点滅していたので慌てて身体を起こした。もしや椿からか、と思いきや期待は外れた。弟の真からだ。
『母さんもかなり堪えてるみたいだ。兄貴、もう帰ってこないなんて嘘だよな?』
「嘘じゃないよ……きっと」
 口にして、けれどそれを真に伝えることはないまま画面をひとつ前に戻す。母である彼女があの態度のまま貫くのならきっとこれ以上こっちから近づこうとしても無駄なのだ。真も早くそれに気づけば良い。今度は彼女の前に立つだけで苛立つだろう自分を想像して、大和は顔を歪めた。想像するだけで嫌気が差す。
 カーソルを下へ持っていくと件名のない受信メールがある。椿からのものだ。
『別れるってこと?』
 開かなくてもその文字を思い浮かべることが出来た。思い出すだけでも苦しい。大和は迷わずそれを消去した。
 消した後、カーソルに当てられたのは麻耶からのメールだ。
『カノジョの写メ、忘れないでね〜!』
 椿と拗れてしまったのは元々はこのメールが原因だったと思い出した。
 けれど、今は。
 麻耶しかいない、と思えた。
 彼女にしか相談できる相手はいないのかもしれない。この苦しい思いを曝け出せる相手は、女言葉のことを理解していると示してくれた人間は、椿を除けば麻耶だけだ。家族のこともきっと分かってくれるだろう。椿もそうだったように。
 ここに椿はいないのだから。
 大和は返信ボタンを押す。今度こそ間違えないように、宛先に麻耶を選んだ。


 休み期間中の学校は閑散としていて、時々すれ違う学生を見てようやく、それでも学校は開いているのだと確認する。
 すっかり定着してしまったいつもの自習室へ行くと、既に麻耶の姿があった。夏休みに入ってまだ数週間も経っていないからか、あまり懐かしい感じはしない。けれど毎日のように会っていた日々とは違い、お互いの第一声は「久しぶりだねえ」という言葉から始まる。
 なんだかほっとした。
 数ヶ月前の時からは考えられないほど、良い関係を築けているのではないだろうか。
「全然返事来なかったから無視されたのかと思ってたよ」
 笑いながら言う麻耶は、きっと不安な日を過ごしていたのかもしれない。そんなことは自信過剰なのだろうとも思うけれど。
「ごめんね。でもちゃんと撮って来たから」
 そう言って大和は彼女の正面の席に座る。ケイタイを開けて操作し、不意打ちで取った椿の写真を開ける。
 この時はまだまだ幸せで、バカみたいに笑ってばかりだった。
「見せて見せて!」
 はしゃぐ麻耶に苦笑しつつ、はい、と彼女の方へ画面を向ける。じっくりと覗き込む麻耶の表情は至って真剣だ。
「……確かに、キレイって言うよりはカワイイ……。ていうかフツーに可愛いじゃん!」
「なんで怒ってるんだよ」
 顔を上げた麻耶はどこか不満そうで、ケイタイを閉じた大和はそれが不可解だと言うように苦笑する表情を深めた。だから椿のことを聞かれたときはいつも可愛い子だと言っていたのに、信じていなかったのだろうか。椿は一見大人しくて地味な女の子だけれど、ちゃんと見れば可愛いのだ。
 そして内側に秘めている芯の強さや優しさに大和は惹かれた。
 そんなことは、思い出さなくてもずっと前から――初めて会ったときから分かっていたはずだった。
 椿のことを思うといつだって胸が苦しくなって切なくなる。
「本当はね、わたしの方が絶対勝ってるって思ってたんだ。中学とか高校とか、男の子にだってそれなりにモテてたし」
 自嘲するような声に大和は顔を上げた。麻耶が真っ直ぐに大和を見つめていた。
「それで、こんな子より絶対わたしの方がイイヨーなんて言うつもりだったの。馬鹿だよねぇ。何が良いのって感じ。こんな幸せそうな顔見たらわたしが付け入る隙なんてないの、分かる。見せ付けられちゃったなぁ」
 困ったように笑う麻耶に、大和はどう返していいのか分からなかった。
 この写真を撮ったときだったら即惚気ていたかもしれない。そうでしょ、だからもう諦めてね、なんて無神経な冗談とも本気とも取れる軽口さえ言えたかもしれない。
 今は――どうだろうか。
 惚気るには椿はあまりにも遠いところにいる。本当は、椿はそれほど、自分のことを好きではなかったのかもしれない。あまりに大和が迫ってくるから、惰性で付き合ってくれていたのかもしれない。だから簡単に別れるの、という言葉が出てきたのかもしれない。
 大和には椿から好かれている自信がまるで持てなかった。いつも一方的な愛をぶつけるだけで、口篭る椿はきっと恥ずかしがり屋なのだと思っていたけれど、それさえも勘違いだったのだとしたら……。
「……だけど坪井も、良い子だよ」
「え」
 その大和の言葉は麻耶にとっては思いがけないものだった。
 雰囲気がいつもと違う。それは彼がこの教室に入ってきた時から感じていたが、あまりにも違いすぎた。
「僕が、女言葉を使っても、坂口みたいな反応が普通だろうに、庇ってくれて」
 昔はただ力で捻じ伏せていたことだったのに、麻耶はそうではなく、正面から向き合ってくれていた。
「――アタシって言い始めたの、祖母の影響なの。どうしても女の子が欲しくって、でも生まれてくる子どもも孫も皆男で。けど……アタシ……昔は見た目、本当に女の子みたいで、祖母はずっとアタシを女の子だって思い込んでた」
「……ヤマト、くん……?」
「聞いてほしいの。坪井には知ってて欲しいことだから」
 どうして急に話したくなったのかは大和にも説明できなかった。けれど本当はずっと聞いて欲しかったのかもしれなかった。誰かに自分の本音を曝け出してしまいたくて、だからここに麻耶を呼んだのだ。一人で抱えるにはあまりにも痛いから。
「親も少しの間だけだと思って、アタシに女の子の振りをすることを言ってきて。初めは祖母の前だけ女の子の振りをしていれば良かった。でもその内にアタシって言う方が自分の中で自然になってきて、小学校に上がってもそれは直らなくて、からかわれたりもしたわ。中学に上がって、祖母が亡くなってもアタシの口調だけはそのままで。でもアタシも男だから、アタシを気に入らないという態度の人間には力で認めさせていたの。喧嘩、結構強いのよ」
 ふふ、と笑う大和は、麻耶の知らない人間に思えた。
 というよりも、彼が今誰の話しをしているのか、分からなくなる。あまりにも今までのヤマトとはイメージが違いすぎて――。
 それでも怒った時の雰囲気の違いは知っている。喧嘩が強いというのは何となく、想像ができた。
「だけど親を殴るわけにもいかないでしょ。そこが難しいところよね。結局……母親は男のクセに女の言葉を使い続ける息子が異常に見えて、アタシの存在を自分の中から消したの。祖母の前で女言葉で話すことを強要したのは自分なのに、祖母がいなくなってもそれを続けるアタシを認めなかった」
 それはある意味仕方のないことだと思ったこともある。大和は話しながら、それでも彼女は母親なのだと思い続ける己が、ひどく滑稽に思えた。結局独り善がりでしかなかったと気づかされた。
「高校3年の時に椿ちゃんに会って、初めてアタシはアタシだと認めてくれた人が居て、嬉しかった……。転校して、椿ちゃんだけだったの。アタシをちゃんと呼んでくれたのは」
 それ以前に惹かれ始めたのは、きっと気づかない何かに本能が引き寄せられたからだと思えば、ロマンチックだ。
 真実はそれ以外に要らない。
 そう思っていたのに、今はどうして……。
「椿ちゃんは優しいからどんなアタシでも受け入れてくれた。でも、それだけ。アタシ、欲張りなのね。それだけじゃ物足りなくて、でも、何が欲しいのか分からないの」
 そう。いつだって大和は満たされていたと思っていた。椿が傍にいるだけで充分だと感じていた。
 だけど離れていた分、会えた時に求めるものはだんだんと形を変えていっているようだった。目に見えないから、自分で自分が何を求めているのか、うまく掴めずにいたのだ。麻耶に話しながらそれに気づいた。
 俯いていた大和へ向けて、おもむろに麻耶の腕が伸びる。
 大和が気づいた時にはぎゅっと抱きしめられていた。細い腕が大和の頭を包み込んでいる。
 優しい匂いがした。
「大人しそうな、子だったもんね、椿ちゃん」
 麻耶が言う。大和はコクンと頷いた。確かに椿は大人しい。無口ではないけれど、口数が多いというわけでもない。
 自分から何かをする、ということもない椿は、だから別れる、なんて言葉も言わないと思っていたのに。
「お母さんにも無視られて、きっとヤマトくんは――」
 そっと腕が離れる。
 麻耶の顔がすぐ近くにある。
 きっと触れ合える距離だ。
 少し首を前に動かせば。
 麻耶はキレイな顔立ちをしている。
「――きっと、愛されたかったんだよ」
 それが答えのように。
 麻耶は微笑んだ。
 近づく。
「ヤマトくんは誰よりも愛されたかったの」
 触れる。
 これで二度目だ、と思い出せたのは辛うじてのことだった。
 消し去りたかったはずの記憶と、今と、どう違うというのだろう。
 あの時はただ気持ち悪かった感触が、今は、どこか心地良くて。
 唇が離れて、また触れる。
 引き寄せたのは大和の手だった。
――きっとヤマトくんは、愛されたかったんだよ。
――誰よりも愛されることを欲しがっていたんだよ。
 だから、だろうか。
 今はとてもこの温もりが離せないでいるのは……。