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長く、互いの唇が重なるだけのそれは、キスと言うには幼い行為だ。
――椿とは違う、感触。
そんな当たり前のことに違和感を覚えたのは触れ合った瞬間から。
なのに止めなかったのはなぜだろう。
離れてほうっと息を吐く。
二人のそれが混ざり合う。
見詰め合って……気づいたのは安堵と――。
今、目の前に居るのは麻耶だ。分かっている。
椿ではない。
椿とは違う情熱的な温もりが再び触れる。初めから知っていたかのように麻耶の腕が大和の首に絡みついた。並べられた机の上に麻耶の身体が乗り、それを大和が上から見下ろしている。
混じる吐息が苦しい。
「わたしだったら愛してあげられる。だってまだこんなにも好きなの……ヤマトくん」
高揚して潤んだ麻耶の瞳が大和を見上げる。
――違う。
愛されていなかったわけではない。
ただ、大和が求めていたものが少し大きすぎただけで。
……でもきっと、麻耶なら欲しい分だけ与えてくれるのだろう。そう瞳が言っている。
「だからそんなにつらそうな顔をしないで」
ね、と微笑んで。
今にも泣き出しそうな彼の頬を優しく撫でた。
大和は考える。
――どうして、この手が椿ではないのだろう。
いつだって触れたかったのは椿だった。椿以外は要らなかった。
欲しいのはこの手ではない。
欲しいのはこの温もりではない。
欲しいのは……。
「……ごめん」
腕を解いて体を離す。
倒れこむように向かいの机に腰を落とした。ガタンと思いのほか大きな音が響いた。
動いたのは大和だけではなかった。麻耶は身体を起こして彼と向き合い、俯く大和にもう一度腕を伸ばした。
頬に触れ、首筋へと下りていく。大和の胸に麻耶の細い指が差し掛かったとき、大和の逞しい手によって捕まった。払い取られ、麻耶は腕を下ろす。
「やっぱりダメだ。坪井は、坪井だし……」
彼は何を、今更言っているのだろう。
「なに、じゃあ、今のは」
「うん……ごめん」
「わたしじゃその気になれない? 魅力ない?」
こんなにも好きなのに――。
歪めた顔で訴える麻耶をまともに見ることが出来なくて、大和は視線を逸らした。
「そうじゃない。でもやっぱりこういうのは良くない」
「椿ちゃんのため?」
「ああ」
「でもキスはしたじゃない」
「だからそれは」
ごめん。と言い切る前に、麻耶が大和の首に抱きついた。離そうとしても麻耶はきつく力を込めるだけだった。
「わたしは別に良いよ。一度だけでも。それで慰められるならそうしたい。これは浮気じゃないんだから、彼女に悪く思う必要だってないよ」
「浮気であるとかないとかじゃなくて、僕が嫌なんだ。だから離れてくれないか」
今度はすんなりと腕が解けた。麻耶の声は切なく聞こえたが涙は流れていなかった。ホッとした。
「それに自分を安売りするのも良くないよ。簡単に男を誘ったらダメだ」
大和の言葉に麻耶はムッと睨む。どうしてこんなにも彼を想っているのに伝わらないのか。
「ヤマトくんだからだよ! ヤマトくんだから、わたし、抱かれても良いと――」
麻耶は堪らず声を上げた。
ハッと息を呑む。
大和の目が見開かれる。
「……なに?」
言ったのは麻耶だ。大和の反応に驚いた。
「だ、抱くって? 何の話だよ?」
「え?」
驚愕した表情で麻耶を見つめる大和だが、麻耶にしてみればその反応こそに驚愕する。ずっとそのことで怒っていたのではなかったのか。
「さっきしようとしていたことでしょ?」
麻耶が確かめるように尋ねてみれば、大和は初めて聞いたというように激しく動揺した。まさか、と思う。
「分かって……なかったの?」
「……ていうか学校でなんて思わないだろ、AVじゃあるまいし……」
「AV……」
これもまた予想していたような反応ではない。
何だろうか、この違和感は。
「……もしかして、やったことないの?」
途端に大和の頬は明らかに赤くなった。まさか、だ。
彼は誰もが注目するほどの美形で、この大学の法学部に入るくらいの頭脳を持っていて、性格も申し分ないのに。可愛い彼女もいるというのに。
「だって彼女と付き合って半年? 1年? それくらいは経ってるんでしょう?」
それで清らかな関係だなんて言われても、信じられないのは仕方ないだろう。
「まさかキスも、さっきみたいなのばっかりとか?」
それはいくらなんでも――彼女が可哀想だ。自分のことは棚に上げて麻耶は珍獣を見るかのように大和を見つめた。
「俺だってやる時はやってる、っけどそれ以上のはタイミングとか……場所とか……色々あるだろっ」
それに大学からは遠距離なのだ。物理的に問題があるだろう、と大和は言いたかった。
毎日のように会っていた高校時代から付き合っていて出来なかったことが、今更出来るとは考えにくいだろう。そう言おうとして、けれどよくよく思い返してみれば高校のときは喧嘩もすれ違いも――なかったとは言えないが、今ほど酷くなることは決してなかった。悪いことは簡単にできるものだ。良い方向に進むことも頑張ればできないことはないだろう、と言われればそれでお終いのような気がした。
「でも椿ちゃんが初めての彼女ってわけでもないでしょうに……」
尚も食い下がる麻耶に大和は次第に苛立ってきた。どうしてココで、麻耶相手に、そこまで言われなければならないのか。
「初めてなんだよっ、椿ちゃんが全部! 椿ちゃん以外付き合ったことなんかねぇよ!」
「うそぉ!?」
全くもって信じられない。半ば叫ぶように麻耶が声を上げた。
さすがに初恋は違うけれど、恋人になったのは椿が初めてだ。好きになる子とは友人以上の関係になったことがなかった。それもこれも全て女言葉が原因だということも分析済みだ。それでも好きになってくれたのは椿だけだったのだ。
だから余計に手放したくないと思っていたのかもしれない。彼女に惹かれてからは、盲目的なほど大和の全ては椿だった。
勘違いされやすいが、大和は目立ちはしたがモテたという自覚が出来るほどそういった類の経験は、圧倒的に少ないのである。
「嘘じゃない。僕は坪井の言うように、本当は――愛されたがっていたんだと思う。母さんからも、椿ちゃんからも。特に椿ちゃんのことは……そうかもしれない。いつも僕から求めてばかりだったから。それで少し弱気になったのかな」
麻耶には誰からも指摘されなかった大和の心の底を少しだけ見せてくれた気がした。どんなに粋がっても自分は小さく臆病で情けない人間だということも。
「でも、それだけだった。さっき分かった。やっぱり坪井は坪井なんだ」
「意味……分かんないんだけど」
怒ったように首を傾ける麻耶に、大和は小さく笑った。
「うん。ごめん」
何度も言った言葉を大和はもう一度ゆっくりと口にした。
「これからも友達でいよう。それ以上には絶対なれない」
「椿ちゃんがいるから?」
「それもある」
ということは、それが全てではないということだ。麻耶は掴んでいた手を離して、項垂れた。
けれどすぐに顔を上げて背筋を伸ばす。まだ、数ヶ月前のような絶交状態へ向かっていないことだけは確かで、あの時よりはずっと良い関係だと思える。
それに、大和のたくさんの一面を見れたのは役得だったかもしれない。気づいているだろうか。大和の口調がアタシになったり俺になったり僕になったりしている。きっと感情によって変わってくるのはどんな人でもあることかもしれないけれど、これほどはっきりと区分けているのは彼だけだと思う。たぶん彼自身は無意識なのだろう。でも麻耶はそれに気づいている。その事実だけで麻耶は満足した。
「分かった。もう誘ったりしないわ」
言って、冗談めかして片目を瞑って見せた。お願いね、と大和も軽く笑って、教室を出る。
きっとまた誘っても、大和が応えることはないだろうと分かった。
閉じられた扉。
麻耶はふっと身体の力が抜けるのを感じた。今度こそ本当の意味で振られたのだ。
椿がいるから。いなくても、大和は麻耶を選ばない。
静かに涙が流れた。
両手で顔を覆い、溢れる涙を流れないように天井を向く。それでも頬を伝う雫は止まらなくて。
――ああ、どうして……。
どうして傍に良子がいないのだろう――。
学校を出て駅に向かう途中で、そういえば晴太に何かあったらしいということを思い出した。望が何と言っていたのかはよく覚えていなかったが、電話をしてみると自分が言ったことは記憶していた。
大和はアパートに戻ると早速登録していた自宅の番号にかけた。今は調度夕方だから、買い物に行っているかも知れない。晴太が直接出てくれれば一番手っ取り早いのだが。
『はい、もしもし』
数コール目で出たのは母親の方だった。良かった、と安堵しつつ僅かに背筋を伸ばす。
「もしもし、藤崎ですが」
大和が名乗ると途端に更に高い声が返ってきた。
『あらぁ、先生? どうかなさったんですか?』
「あの、晴太くんに何かあったみたいだと日高さんから聞いたもので……。何かあったんですか」
『晴太が?』
キョトンとした声が返ってきたので大和は首を捻る。別に望が言うほど大したことではなかったのだろうか。
しかしすぐに夫人は「ああ」と思い出したような声を出した。
『あの子ちょっと拗ねてるんですよ。先生、晴太にサッカーの応援に行くと約束しましたでしょ』
「え、ええ。しましたけど」
あれ、そういえば日付までは聞いていなかったなと思い出す。というか椿に会えたことですっかり忘れていた約束だった。
『その試合が先日あったんですけど先生ちょうどご実家に戻られていた時で。晴太にもちゃんと説明したんですけどねぇ』
困ったものね、と小さく笑い声が聞こえた。ハハッと大和も乾いた声で笑ってみたが、正直笑えない。晴太のことだ。望が暴れていると言っていたのもあながち過言ではないような気もする。
「今晴太くんはいますか? できたら直接謝りたいんですけど」
『そうね。ちょっとお待ちいただけますかしら? 呼んできますので』
「はい。お願いします」
大和の返事の後、少しの間を置いて保留音が鳴った。
暫く待って出た声は、予想とは違って大人しいものだった。
『先生?』
「うん。ごめんね、応援行けなくて。日程聞いてなかったの気づかなくて」
『ううん、オレも言わなかったのが悪いし。あ、でも勝ったからさ、次は来てよ、絶対!』
晴太の声が明るくなって大和は胸を撫で下ろす。思ったより深刻でなくて良かった。
望が暴れているなんて言うから自分で思っていたよりも緊張していたのかもしれない。
「うん、行くよ。今度はいつなの?」
『二十日と二十三日! 絶対だからな!』
「うん。絶対」
宿題も忘れないようにと付け加えることを忘れずに告げ終えて、大和は電話を切った。
切ってから、ふと思い出す。
そういえばいつか、椿が日にちを聞いてきたけれど――あれは何日だっただろうか。