Cette Place

40


 気だるさを誘う暑い外気から逃れるように入った冷気の溜まった店の中で、目の前の友人はもくもくと湯気を漂わせるラーメンを啜っている。ズズッと美味しそうな音を立てながら、汁を僅かに飛ばしながら食べる姿は、見ていていっそ気持がいい。
「僕はさ、昔からモテてて女なんか選り取り見取りで、今の彼女に会って一途になった、とか。そういうふうに見られてたんだって。坪井が言うにはさ」
「どんな少女漫画だよ」
「いや、でも実際そうなんだって。昨日力説されたし、メールで」
 呆れ顔の尚志に、見る? と大和は自分の携帯電話を取り出した。一瞬躊躇ったが、尚志は手を前に出して丁寧に断った。
「……いい」
 尚志は視線を逸らして首を振った。どんな長文が出てくるのかと思うだけで恐怖した。
 というよりむしろ、そんなメールのやり取りをしているという事実に驚いた。麻耶を本当に振ったという話を聞いたのはほんの数時間前だ。
「千田はどうなの、坂口と。ていうか二人で居る時って何話すの?」
「何って、普通だぞ? 坂ちゃん大人しいけど喋らないってわけじゃないし。話合わせてくれるし」
「ふうん。坪井と二人ってのも不思議だったけど、千田と一緒にいるってのも何か変な感じがする」
「何だそれ」
「よく、分からないけど」
 そこまで言って大和はスープを一口飲み込んだ。塩ラーメンのあっさりとした味が口の中に広がる。
 携帯電話のディスプレイで時間を確認した後、大和が尚志に視線を寄こした。
「あ、もう出る?」
「うん。結構ギリギリ」
 大和の答えに、尚志は「マジで? やべーやべー」と焦りを口にした。
 浮かぶネギをスープごと丸飲みする。
 ゴクゴクと喉を鳴らし、飲み干す。尚志が器をテーブルの上に置いたのと大和が腰を上げたのはほぼ同時だった。会計を済ませて外に出ると、一気に蒸し暑さが服の中まで浸食してきた。
 夏休みの間に尚志とこうして会うのはこれが初めてだ。声を掛けたのは大和からだった。久しぶりに会った彼は少し肌が焼け、髪の色も若干抜けているようだ。聞けばプールの監視員のアルバイトをしているという。尚志によく似合った色だと思った。
 商店街を抜けて僅かに傾斜のある大通りを渡る。横断歩道をいくつか通り過ぎると、東に伸びる河川に架かる橋が見える。それを渡って大通りから逸れるように右へ曲がると、小さな低い黒い鉄の門が現れる。その奥に大き目のグラウンドがあった。
「おお。やってる、やってる」
 横に立つ尚志が目を細めて言った。上から見下ろす二人の視線の先は、グラウンドで走り回る子ども達と、彼らを応援する保護者達の集団だった。グラウンドには青を基調としたユニホームのチームと赤を基調としたユニホームのチームが一つのボールを追っていた。
「少し遅れたね」
 大和が言うと、まあな、と尚志も頷いた。
「でも、まあ、気にすることないだろ。目的はこの後の試合なんだし」
 ちょうどそこへ大和を呼ぶ声が遠くから聞こえた。市立のグラウンドの裏門には人気がまだ少なく、その声は歓声が聞こえる方角からでもよく届く。
「先生!」
 振り返ると元気よくこちらへ向かって駆けて来る一人の少年を見つけた。一丁前に泥のついたユニホームを着こなしていた。
「こんな奥で何してんだ? 思い切り探しちゃったじゃんか」
 嬉しそうに大和の腕を取って晴太が言った。
「昼ごはんを先に食べてきたんだよ。それより良いの? ウォーミングアップとかあるんじゃないの?」
 晴太に引っ張られながら大和は尋ねてみた。僅かに光る汗が額に浮かんでいるのを見たので、もう済んでいるのかも知れない。
「今は自由時間なんだ。そんなことよりも今やってる青い方、10番、すごくねぇ?」
 興奮した口調でそう言った晴太はグラウンドに向けて指を差した。
 味方にボールをパスした10番が追いかけるように走る。この暑さの中よくできる、と思わず感心してしまったのは、大和として少し不本意ではあった。
「あいつ、ここら辺では一番上手いんだ。キーパーは赤の方がデカイし器用だし手強いけど、青の方がフォワードの戦力は上だし屁じゃないね」
「へぇ」
 晴太がグラウンドに向けて指を差したまま青い方、赤い方、と大和に分かりやすいように言ってくれているのが分かり、大和はふふ、と微笑んで相槌を打つ。サッカーは体育の授業でやったきりなので、どの選手がどのように良いのかという目利きはさっぱりだったが、晴太の一生懸命な口調は好感が持てる。
 来て良かったな、と少し早い感想を抱いた。
 晴太に連れられて観客席の中央辺りまで着いた時、反対側から晴太と同じユニホームを着た少年がキョロキョロと辺りを見回しながら歩いてくるのが見えた。大和が彼に気づいたのと、少年と晴太の視線が合ったのはほぼ同時だった。
「あ、晴太じゃん。ユウスケ見てねぇ?」
「いや、見てないけど」
「あぁ、そっか。じゃあ見かけたら声掛けてよ。もうすぐ集合だからって」
「わかった」
 晴太が頷いて、少年は安心したように笑った。それから自力でもユウスケ少年を探さんとしてこの場から離れようとし。
 ふと、晴太の手が掴んでいる大和の腕に気がついて、ゆっくりと大和を見上げた。
「あ……」
 少年は驚いて思わず声を洩らす。
 初めて見た、ゲイノウジン並みに整った顔が、そこにあった。
 少しドキドキする。
「ん?」
 少年に見上げられて大和は小首を傾げた。少年は慌てて首を横に振って何かを否定した。
「晴太、誰、この人? 親戚?」
「オレの家庭教師」
 こっそりと耳打ちする少年に晴太もこっそりと囁き返した。けれど隣に立ってる大和には丸聞こえだ。堪らず苦笑を浮かべた。
「多分、俺の存在なんて影と同じだな」
 ぽつりと呟く尚志の声に、大和はとうとう噴出す。小さく喉の奥で空気が鳴った。
「でも知ってる、千田?」
「あ?」
「“影”は元々“明り”って意味なんだよ」
 可笑しそうに言った大和のセリフの意味が分からず、尚志も晴太もキョトンと首を捻った。

 晴太がベンチへ向かうと、尚志と大和は並んで客席に腰掛けた。日陰になるようなものがないそこは、燦燦と照りつける太陽の下、じりじりと身体を焼かれている感覚に襲われる忌みゾーンでもあった。少年達の保護者……主に母親と思わしき女性達は慣れた様子で帽子を被り、日傘を差し、隣接する体育館の壁に近い日陰のある場所を確保して集まっている。
「で、彼女とはどうなんだ、最近? 向こうに戻ったんだろ?」
 誰も居ないグラウンドを眺めながら唐突に尚志が切り出した。蝉の声が会場のざわめきと共に遠くから聞こえる。
「うーん、どうなんだろう。最初は良い感じだったんだけど、昔みたいには行かないもんだなぁと思うよ」
 時間が経てば経つほど、行動が起こしにくくなる。お互いに遠慮していることが分かっているから、躊躇うことは得策でないことも分かっていて、それでもどうにもできない自分がもどかしい。高校生の時なら迷わずに出来たことも、今はもうだめだった。
 声さえ届けることが怖くなる。
 だからこちらへ戻ってきてからメールどころか電話さえ掛けられないでいた。最悪すぎる。
「おいおい、そんなのでどうするんだよ。まだ大学生活半年目だぜ?」
「でも同じ大学だからって長続きするとは限らないでしょ」
「それはまぁ……そうだけど……。でもヤマトがそんな弱気でどうするんだよ。女が待ってるなら繋ぎとめておくのが男じゃん」
「――そうだね」
 どうせ椿はいつだって自分を手放せるのだ。思いの強さをどう測るのかは知らないけれど、絶対的指数の差で大和の方が彼女に執着しているし、想いを募らせている、自信がある。
 考えたくはないけれどそう思えて仕方がなかった。何がこんなにも自分を追い詰めているのかも分からないで、ただ漠然とそんなことを思っては沈んでいく。どうしようもない程の空虚を感じる。苛立つ。
「ま、難しいんだろうけどさ。そういうのは実際」
 慰めるような口調で尚志が言う。
「僕には難しいか簡単かも分からないよ」
 申し訳なさそうに大和が答えた。
 じりじりと太陽の灼熱が照り付けて、全てを焼き付けている。
 皮膚が燃えそうだと思った。
「あ、おい。その光ってんの、お前のケータイじゃね?」
「え?」
 尚志に指摘されてパンツのポケットから取り出すと、確かに青のランプが点滅していた。着信を知らせる色だ。
 本当だ、と呟いて開くと、不在の文字の横に意外な人物の名前があった。
「……日高先輩だ」
 彼女からの着信は珍しかった。それを知っている尚志も目を丸くした。
「え、まじで?」
「うん。ちょっと電話してくる」
 晴太の時のようにまた何かの緊急事態でも起こったのだろうか。
「ああ。あ、もうすぐ始まるからさっさと済ませよ!」
 一人でこの地獄のような客席に居るのは御免だ、と言いたげな尚志に大和は手を上げて応えながら、観客席の隅に移動した。
 ご婦人たちが集まっている方とは反対に位置するフェンス側はやはり日陰になるものはなく、失敗したな、と自分の無意識の行動に舌打ちした。
 熱い。
 三コール目で繋がる音が聞こえた。
「あ、もしもし。何かあったんですか?」
 蝉の声が響く中、柔らかな関西弁を話す声が届く。彼女の声は涼しげな透った感じがするんだな、と思いながら聞いていたのだけれど。
「――えっ?」
 どこか遠のいていた意識が急にはっきりとする。
 今、彼女は何と言ったのか。
 聞き間違いではないのだろうか?
「え、え、え……?」
 馬鹿みたいに言葉が出ない。だってまさか、と喉の奥に詰まっているようだ。
「――今から、ですか?」
 思わず聞いてしまった大和に、望は呆れたような溜息を洩らした。
『当たり前やろ! 早く戻って来ぃ。待ってるから』
 そこで通話は一方的に切られた。
 照りつく太陽の下、熱い風邪が吹き抜け、試合開始の笛が鳴る。