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そしてすぐにまたりダイヤルボタンを押す。今度は数コールも待たないうちに繋がる音がした。待ち構えていたのが分かる程度には待たせていたのだろう。
「あ、良子ちゃん? 藤崎君にはうちから電話しといたよ」
自分の失敗を敢えて言わず、何事もなかったかのように明るい声で報告した。ほう、と彼女が息を吐き出した声が聞こえた。
『ありがとうございます。あたしからだと絶対ヤマトくん、取ってくれなかったと思うので』
苦笑交じりに礼を述べる良子の表情が目に浮かび、望は眉根を寄せた。
「……まだ喧嘩続いとるん?」
学年や学部は違えど望は二人のことは言伝に聞き知っていた。原因たる要因が何かは誰も知っていなかったが、大和が学部問わず目立つ存在であることに変わりはなく、彼の噂はよく聞こえてくる。一つ気前まではゲイ騒動で賑わせていたが、すぐに否定されたかと思えば、次は坪井麻耶と付き合っているだの、それで坂口良子と絶交しただのと言われている。
真意は分からないがサークルで顔を合わせている限り、喧嘩していることだけは真実のように思えた。
答えない良子の態度が答えのようだ。
「とにかく、良子ちゃんが待ってるっていうのは伝えたけど、今どこに居るん? そっち行こか?」
『あ、はい。今バス停の所です、本館前の。先輩は?』
「うちは音楽館。じゃあそこで待ってて。うちがそっちに行くわ」
『はい。じゃあ』
望は電話を切った。
振り返ってパソコンに向かっている東原に声を掛ける。
「ということでうちは帰るけど、東原君はどうする? 途中まで一緒に行く?」
電話の内容を始終聞いていたであろう彼は、振り返ることもなく首を振って答えた。パソコンの画面には制作途中のポスターが映っており、今は色を決定しているところだ。
「いや。僕はキリの良いところまでやっておくよ。お疲れ」
「ふうん? じゃ、お疲れ〜」
東原にひらひと手を振って望は教室を出た。良子のいる元へ急ぐ。電話では強く言ってみたものの、喧嘩中だと聞いた後では良子の名前を出したのは間違いだったかもしれない、と不安になった。思わず表情を曇らせた。大丈夫だろうか。
携帯電話を閉じて尚志の横へ戻ると、大和は申し訳なさそうに片手を立てて言った。え、と尚志が表情を険しくさせた。
「何かあったのか?」
「坂口が用があるから帰って来いって」
「坂ちゃん?」
尚志は驚いて声が裏返った。まさか良子の名前が大和から出るとは思わなかった。噂くらいは知っているだろう望が直接それを理由に挙げてきたことにも驚いた。
「何があるのか分からないけど、先輩の言うこと無視するわけにもいかないから、帰ってみるよ」
「あ、ああ……」
そうだな、と言おうとして、尚志はハタと口を閉じた。
「いや、だめだ! 俺はどうするんだよ!」
ここに来たのは大和が誘ってきたからで、今フィールドに立っている少年が待っていたのも大和だ。その大和が帰るとなれば尚志にも用はなくなる。少年は悲しむだろうが自分が居たところでどうしようもない。
「ヤマトが帰るなら俺も帰るけど、それじゃあダメなんだろう?」
「千田は残って、結果だけ教えてくれればいいよ。晴太くんには僕から謝っておく」
「そういう問題じゃないだろ! ヤだからな、俺」
「でもさ……」
大和は困ったように顔を歪めて言葉を濁した。電話での口調からして急な用事があるのは感じ取れた。ただ良子の名前が出て驚きが先行して詳しく聞けなかったけれど。ただそれを行っても尚志には通じないように思えた。
確かに尚志にとっては理不尽だと思う。自分勝手な事は充分承知している。晴太に対しても不誠実だ。
「とりあえず約束はこっちが先なんだ。それに一回こっちの約束破ってるんだろ? ここまで来てまたダメだって、それこそダメだろう?」
尚志の言うとおりだ。正論だ。大和は何も言い返せない。
「先輩にはちゃんと断れよ。それか坂ちゃんに直接言うとか」
瞬間、観客席から歓声がわぁっと沸いた。ゴール目掛けて放たれたボールは僅かに横へと逸れて流れていく。
それを見届けてから大和は再び尚志に向き直る。
「無理だよ。坂口は僕を嫌ってるから、掛けても取ってくれないと思う」
眉を下げて悲しそうに言う大和に、あれ、と尚志は首を捻った。尚志が良子から聞いたことと食い違っている気がする。
「坂ちゃんがヤマトを嫌ってるって? 坂ちゃん本人がそう言っていたのか?」
尚志の問いに大和は不機嫌そうに目を吊り上げた。思い出したくないことが嫌でも脳裏に浮かび、ドスンとした重い空気が胸に溜まっていくようだ。
「……気持ち悪いって、面と向かって言われたよ」
それで嫌われていないと思える人間は居ないだろう。あの時は気持悪いと言われて当然だろうと思ったけれど、傷ついたのも本当だ。傷つかないわけがなかった。あの時の蔑んだ視線は忘れられなかった。
尚志は視線をさ迷わせて、おずおずと尋ねた。
「あの、さ……。俺よく知らないだけど、あの日、何があったんだ? 坂ちゃんに聞いても答えてくれないし、麻耶は怒るし。俺だけ知らないって、なんかさ……」
「坂口は僕のこと何て言ってるの?」
「酷いこと言ったからヤマトに嫌われてるって。それだけしか聞いてない」
「……そっか」
それならば本当のことを言ってもいいだろうか。隠さず、変に誤魔化さないで言った方が、伝わるかもしれない。
理解してくれるかどうかは分からないが、信じるしかない。
「僕は、ね、本当は――」
女言葉を使って生活してきたこと、それが全て祖母の影響であること、その時の環境のこと。そしてそれを知った麻耶と良子の反応を、全て話した。緊張と興奮で声がつっかえつつも、気にせずに話すことをやめなかった。尚志には分かってほしかった。
気持ち悪いと言われるかもしれないと思いながらも、受け止めてくれることを願った。視線を自分の手に移すと、僅かに震えていることに気づいた。
話し終えると、タイミングよく再び歓声が沸き起こった。ゴールが一つ決まり、子ども達が抱き合って喜んでいる。
その中に晴太が見えて、こちらに向かって腕を振っていた。大和も笑みを零して手を振り返した。重かった気が少しだけ浮上した。
笛が鳴り、試合が再開される。
尚志の方に顔を向けると目が合った。
「高校の時はこのことを話すの、怖いなんて思ってなかったんだ。むしろ文句あるかって感じで」
「へえ、そうなんだ」
尚志は感心したような声を出した。けれどマイペースな大和らしいとも思った。
「今は怖いのか? 俺は自然のままのヤマトも知りたい気もするけど」
その一言に大和は驚き、嬉さが募った。微笑んで、首を横に振る。
「そのせいで敵を作ることも多かったから……。高校の時転校したんだけど、転校する前にシメた奴らが椿ちゃんに因縁つけてきたことがあって、このままじゃだめかなって思ったんだ。椿ちゃんの前で初めてキレちゃったし、その時は二重で怖がらせちゃって。周りと同じようにいた方が良いのかなって思った」
呟くように紡ぎ出される大和の昔の話。尚志は聞きながら時折ぎょっとした。
一度軽く大和を怒らせたことがあったが、シメるという表現は穏やかではない。あの時の雰囲気を思い出すとぞっとする。本当に彼を怒らせてはいけない、と肝に銘じることにした。
「でもそのためには僕自身でどうにかなることと、そうじゃないことがあるんだよね」
「え? それって……」
グラウンドを見つめているのかどこかを彷徨っているのか、はっきりとしない視線を向ける大和の顔を覗きこんだ尚志は、それ以上何も言えなかった。
既に大和には、問題点が明確に見えているのだろう。
きっと尚志には理解できないことかもしれない、ともも思った。
結局、二人はハーフタイムを挟んで最後まで試合を見ていた。良子に電話をかけることはできず、望に一度電話を鳴らしたが出なかった。
晴太に頑張ったねと労いの言葉を掛けて帰る頃には、すっかり夕陽が沈んでいた。
電車を乗り継いで帰らなければならないのだが、いつもは便利だと思っていた数分おきの待ち時間もひどく長く感じられた。少し混んだ車内が鬱陶しく、苛立っていく。やはり早く帰っておけば良かったと後悔しても仕方がない。嫌な胸騒ぎがするのは当然だと思えた。
きっと怒っているだろうな、と望の顔を想像してみるが、途中でやめた。恐ろしすぎた。
改札を潜って走り出した。駅からアパートまで歩いて10分とかからない道のりが長く、遅くないと思っていた自分の足が重く感じた。周りの風景が変わってくのは確かなのに、静止画のように細切れにしか見えなかった。
息を切らし、腹が痛む。日ごろの運動不足を呪ってみる。
高校の時は部活に入っていなかったものの、意味のない喧嘩は日々やっていたから、そう感じることもなかったのだ。
それも椿と出会う前の話だけれど。
後一つ角を曲がればアパートは目の前だ。その時に、不意に人影が出てくるのが見えた。
「えっ」
「あ」
気づく前にぶつかった。
少しよろけた大和の前で、勢いで尻餅をつく彼女の声が聞こえた。
「大丈夫!?」
彼女の後ろから誰かが声を上げる。大和が顔を上げると望だった。
そして視線を下ろすと――。
「いたたた……」
打った腰の辺りを摩って立ち上がったのは――。
「椿、ちゃん……?」
目の前には、いるはずのない――けれど大和が見間違えるはずのない、椿だった。