Cette Place

42


「椿、ちゃん……?」
 大和は信じられない面持ちで立ち上がる彼女を見つめていた。どうして椿がここに居るのだろう。
「……っ大和くん……」
 椿もまさか大和がぶつかってくるとは思わなかっただろう。目を丸くして彼を見上げた。
 大和の手が恐る恐ると椿の頬を撫でる。本物の感触。実感するまでに時間がかかった。
「本当に、椿ちゃん?」
「う、うん……」
 夜の暗さできっと大和には椿の目が赤く充血していることには気づいていないだろう。椿はそう思ってほっとした。そして会えないと思っていた大和にこうして触れられていることに夢見心地だった。
――ウォッホン。
 不意に低い咳払いが聞こえた。
 ハッとして大和の手が椿から離れる。振り返ると腕を組んだ望が所在無さ気に視線を泳がしていた。
「あ……先輩」
 ヒヤリ、と大和の背に冷たい汗が流れた。そういえば望を待たせたまま電話を無視したのだと思い出した。
「感動の再会のところ悪いけど、分かってる、藤崎くん?」
 ギロリと大きな目で睨みつけられ、大和はヒクッと口端を引きつかせた。童顔とは言え美人の怒った顔はやはりどこか迫力がある。
「えぇっと……?」
「うち、早く帰って来いって言うたよね? どんだけ待たせるつもりやったん?」
「いやだって先輩、坂口が待ってるって」
 大和は困惑したように口篭った。さすがに椿がいるなら、何が何でも晴太の応援は切り上げていた。尚志の説得さえ物ともしなかった筈だ。今となっては仮定でしかない事実だけれど。
「あの、とりあえず、ごめん」
 待たせたことに、ごめん。大和は椿に視線を移して謝った。ううん、と椿は精一杯首を横に振る。
「まぁええわ。詳しくは椿ちゃんにでも聞いて。部屋に上げたれへんの?」
「あ、あー、はい」
 大和は未だに事態を把握しきれないまま、とりあえず、と望の言うまま椿をアパートへ連れて行った。おそらくは先ほどまで望の部屋にでも居たのだろう。椿は何も言わずに着いて来た。
 おやすみ、と挨拶を交わして望と別れた。
 望が隣の部屋に入ったことにも特に何も言わず、大和は複雑な気分で部屋に上げる。
 心臓が高鳴って仕方がない。初めてキスした時以来の緊張振りだ。
 電気をつけて、机と本棚とベッドしかない居間に通し、椿には適当に座ってもらう。ああ、そういえば、コップは二つもなかったと気づいた。
 冷蔵庫にあったペットボトルから唯一のコップにお茶を注ぎ、それを椿に渡した。椿は「ありがとう」と受け取って、一口飲んでからテーブルに置く。コップを持つ両手が冷たそうだった。
「あの、なんで、ここに……?」
 椿の正面に腰を下ろして一番気になっていることを聞いた。
 椿も緊張したように俯きながら、小さな声で答えた。
「最初は大学の方に行って、大和くんの言ってた坂口、さん? に、会ったの。それから日高さんを呼んでもらって、ここを案内してもらったの。まさか隣の部屋に住んでる人だとは思わなかったけど……」
 大和はそれを聞いて思わずムッと口元を歪めた。それならそうと先に言ってくれれば良かったのだ。遠回しに良子が用があると言われるよりずっと効果があったのに。
「ご、ごめんね、急に。迷惑だった……よね」
 大和の表情の変化を違う意味で捉えたのだろう。申し訳なさそうに椿が謝った。大和は慌てて違うから、と手を振った。
「ああ、そうじゃなくて。ただ驚いて。……一人で来たの?」
「ううん。さすがに一人で泊まりに来るのは親が反対するから、芳香と彩芽と一緒に」
「えっ!?」
 危うく聞き流しそうになり、思わず身体を仰け反らせた。大和が声を上げたことに椿も驚き、えっ? と顔を上げた。
「と、泊まりにって!?」
「え? うん、近くのビジネスホテルに泊まることになってて」
 キョトンと首を傾げる椿に「ああ」と大和は胸を撫で下ろした。
 ああ、なんだ、ここに泊まるわけじゃないのか――。
「あたしが大和くんに会ってる間は二人で観光するって。あ、でもさっきメールがあったんだ」
「え、メール?」
「うん。あ、今、見てもいい?」
 まだ目を通していなかったらしく、大和が頷くとすぐに携帯電話を開けた。
 カチカチと操作して目を通していく。しばらく静寂が漂うが、大和はその変化に素早く気づいた。
 ディスプレイを見つめたまま次第に赤くなる椿の頬。思わず眉根を寄せた。芳香と彩芽のことだから大和にとって悪い選択はしていないだろうけれど。椿を困らせているのは確かなようだ。
「二人とも、何て?」
 堪らなく聞いてみる。椿は困ったように上目遣いで大和を見上げてきた。ドキリ、と胸が高鳴る。
「遅くなるみたいだけど、気にしないでねって。先に寝てるから帰ってきても明日じゃないと部屋に入れないかもよ、だって。……どうしよう」
 泣きそうな声で「どうしよう」と言われても、大和とて困ってしまう。
「ごめんね。僕がちゃんともっと早く帰ってたら」
 そう言うしかないだろう。
「ううん。あたしが急に来たから……」
 椿はフルフルと首を振った。
 二人して同時に溜め息を吐く。
 静かな部屋でどんよりとした空気が流れた。
「そういえばどうしてここに?」
 今更だけど、と大和が問えば、椿はますます困ったようにして大和を見た。その仕草で何となく分かった気がした。
「だって大和くん、怒ったままこっちに戻っちゃうんだもん。電話もメールもしてくれないし。それに元々ここに来るのは、芳香と彩芽が大和くんを驚かせようって内緒で計画してたみたいで……」
 やはり何もかもが自分のせいだったのだ。大和は知らず、また溜め息を吐いた。反省すべき点がありすぎる。
 成長したいと思って家を出たはずなのに、今はあの頃よりもずっと椿を困らせ、何もできなくなっている。
 大和は姿勢を正して椿に頭を下げた。
「ごめん。もう怒ってないし。ていうか、僕も色々やっちゃったし」
「え?」
「あの、本当にごめん。あの時は本当にショックだったんだ。椿ちゃんのこと信じてないわけじゃなかったんだけど」
 一気に言って、そっと顔を上げると、ふわりと微笑んだ椿と視線が合う。
「もういいよ。あたしこそごめんね」
「椿ちゃん……」
 やはり椿は優しい。そして暖かい。柔らかく包まれる。
 大和は身体を起こして座ったまま椿を抱き寄せた。甘い匂いがした。
「ひ、大和くん……?」
 腕の中で強張る椿の身体を感じる。大和はそっと力を緩めて身体を離した。
 だめだ、と理性の警報が鳴っても、もう止めることなどできそうにない。
 近づく瞳に、胸が熱くなる。
「ん……っ」
 触れる唇は甘くて、蕩けそうで、麻耶とは違う。
 全然違う。そう思ってしまってから咄嗟に離した。驚く椿をもう一度胸の中に押し込め、ごめん、と吐き出すように呟いた。
「ごめん、椿ちゃん」
「大和くん?」
 どうしたの、と問う椿に、大和は更に力を込める。痛みで椿は顔を歪めたが、無理に離そうとは思わなかった。苦しそうな声で謝られたから、ここで抱擁を拒否すれば全てが壊れてしまいそうな気がした。
「椿ちゃん、ごめん。誰かに言われる前に言っておく……」
「え?」
「アタシ、椿ちゃん以外の子とキスしたの」
「え……っ?」
 鼓動が早くなる。耳の奥で聞こえる。どちらの音かは分からない。
「嫌わないで、お願い。アタシには椿ちゃんだけだから。お願い――」
 嘘は吐きたくなかった。黙っておくべきことだとも理解している。けれど真実を全て知っていてほしいというのも本当だった。
 後で誰かに何かを吹き込まれて悲しませるくらいなら、自分の手で傷つけようと思った。椿を傷つける者は誰であっても許さないから、それが自分自身ならなおのこと、己を戒められる。容赦なく。
 だのに嫌わないでと請うのは可笑しいだろう。矛盾している。自分に堪らなく憤った。
「――最低」
 腕の中の椿が低く、小さな声で呟く。
 ヒクッと大和の腕が固まり、力が緩まると椿はその隙を逃さずに腕の中から体を離した。
 大和の顔を見上げない。
「大和くん、最低だよ」
「ごめん……」
 それしか言葉が出てこない。本当に最低だ。分かっている。
「ひどいよ……」
「うん、ごめん……」
「さいてい……」
「うん……」
 だんだんと小さくなっていく椿の声が震えていて、大和はそっと腕を伸ばした。
 頬に手を当て、撫で、顔を上げさせる。
 思わず息を呑んだ。
 椿の目からは大粒の涙が一滴、流れたのだ。初めて見る椿の泣き顔があった。
 そうか、と思う。
 椿は声を出して泣かない。静かに涙を流して、大和を責める言葉も弱々しくしか出せないのだ。
――愛しい。
 心の底から改めて感じた。もう、手放せない。
「椿ちゃん……」
 親指の腹で涙を掬って、唇を寄せた。
 塩辛い彼女の涙を飲み干して、そっと押し倒す。
「ごめんね」
 その声は甘く、どこか熱を帯びていて。
 いったい何に対して謝っているのか。
「大和くん……?」
 静まる空間の中、瞳を潤ませる椿にそっとキスを落として――。
 もう言葉は紡げない。
 ただ、好きだという、その想いだけを伝えたくて。
 彼女の心の奥に、体中に、溢れる感情を刻み付けたくて。