Cette Place

43


 直に伝わる椿の体温が何とも言い難く嬉しい。
「大和くんて、意地悪だよね」
 腕の中の椿が大和に背を向けながら、ぼそりと呟いた。不貞腐れたような口調も今の大和には可愛い拗ねた仕草にしか見えなくて、柔らかく細い髪に唇を寄せた。
「そう?」
 擽ったそうに肩を竦める椿を抱きしめ、大和は今を満喫する。
 まさか自分のベッドの上でこうして椿と横になるとは思っていなかった。けれどいつかはと夢見ていた。
「イヤだって言ったのに……電気だって……」
「消したら何も見えないでしょ」
「ほら、やっぱり意地悪だよ……」
 椿が顎を引いて身体を丸める。仕方なく大和は身体を起こしてベッドから出る。電気を消すと月明かりも入らない部屋は本当に暗く、目が慣れてもほとんど何も見えない状態だった。椿を潰さないように気をつけながらベッドに戻る。
「ねえ、椿ちゃん」
 椿が頭を乗せている枕の下に腕を差し込んで、大和は彼女の身体を抱き寄せた。恥ずかしそうに椿が向きを変え、大和の胸の中に納まる。
「ごめんね」
「……」
 声を出すことも首を動かすこともしない椿をいっそう抱きしめて、大和はもう一度はっきりとした口調で「ごめん」と呟いた。まだ彼女が眠っていないことを呼吸の音で確かめながら、どうやってこの思いを伝えようかと思案する。もう同じ間違いは繰り返したくない。
「――大学に入って、周りの環境も人間関係も全てが慣れていなくて」
 当然であるその変化を望んだのは、他でもない自分自身だったと、分かっている。
 それでも椿とさえ繋がっていれば大丈夫だと、不安になることはないと、信じていた。
「話し方は普通に戻したのに、なぜか目立つことは変わらなくて」
「それは……っ」
 思わず声を上げた椿は、けれど話の途中だったと思い出して口を噤んだ。それを見逃す大和ではない。
「それは、何?」
 椿の頭に乗せていた顎を引いて、顔を覗き込むように密着させていた体を離した。なかなか顔を上げない椿の頬を撫でて上を向かせる。
 暗くてよく見えなかったが、きっと椿は困ったように眉を顰めているのだろう。
「だって大和くん、カッコイイから……」
 消え入りそうな声で椿がそんなことを言うから、大和は思わず笑った。
「何それ?」
 ふふっ、と肩を揺らす大和に、椿はムッと睨みつけて頬を撫でる大和の手を払った。きっと大和は本気で自分の言葉を受け取っていないのだ。本当のことなのに、芳香と彩芽は自分のことを鈍いだの天然だの言うけれど、彼こそ鈍いのではないだろうか。
「椿ちゃん?」
 振り払われた手を宙に浮かせたまま、大和は椿を見つめて戸惑った。反抗的な椿の態度に驚いた。
「分かってないよ、大和くんは。大和くんはカッコイイんだもん。モテるんだよ、本当は」
 声が細く震えている。
 言いながら、椿の目頭が熱くなる。いつものことだ。
「モテたことなんてないよ。いつも友達で終わる。アタシは、男として見てもらったことなんてないもの」
「違う。そうじゃない。大和くん、全然、気づいてないだけだよ」
 浮かせていた手を下ろす前に、椿が上半身を起こして大和の身体をベッドへ押し付けた。ポスッ、と布団の上に大和の腕が落ちた。
 見上げれば椿の顔がある。顔を歪ませて、泣きそうだと分かるくらいには、椿の顔が見えた。暗くてもきっと彼女の顔は赤くなっているに違いないと思った。大和の肩に触れてる指が震え、掌は熱かった。
「あたし、許してないんだから」
「えっ?」
 搾り出すように吐き出された彼女の言葉に、大和は目を丸くさせて凝視した。
「大和くんはモテるんだもん。高校の時だって女の子に人気あって、でも大和くんがあからさまだから誰も言って来なかっただけなんだよ。けど、大学は違うじゃん。誰もそんなこと知らないのに、知らない所で知らない人とキスするなんて最低だよ……酷いよ……っ」
 肩を掴む椿の小さな指が、痙攣を起こしたように引きつっている。力を入れられるたびに爪が皮膚に食い込んで、痛い。
 でもそれ以上に痛いのは多分――。
「……ごめん」
 自分を見下ろす椿の顔を両手で挟みこんで、髪を指に絡ませた。耳まで熱くなっている椿の体温に、胸が苦しくなった。
「絶対許してないんだから……」
「ごめん」
「絶対……あたし……」
 腹に力を入れて身体を浮かす。自ら唇に触れた。
 まただ。
 また、苦しくて、締め付けられる。
 椿が静かに泣いている。
 キスをしたまま身体を入れ替え、椿をベッドの上に寝かせた。
「いいよ、許さなくても」
 暗くても椿の表情なんてすぐに分かる。
「ずっと許さないで。ずっと傍に居て」
 額と額を引っ付ける。
「あたし本気で……怒ってるのに……」
「ごめん……」
 甘い吐息を飲み込んで、柔らかな感触を味わう。
 背中に回された腕が、ひどく心地良かった。
「嫌いにならないで……離れていかないで……」
 願うのは、それだけだ。


 日の光を浴びて部屋に明りが伴う。甘い朝を二人で迎え、大和が軽く朝食を作った。手早く食べ終えた椿がそろそろホテルへ戻ると告げたのは、大和がシャワーから上がった途端だった。
「もう出るね。ありがとう」
 すっかり身支度を整え、荷物を両手に持って椿が言った。タオルを肩に掛けたまま大和は不満そうに顔を顰めた。
「もっとゆっくりしてくれても良いのに」
 椿は苦笑して肩を竦めた。
「そういうわけにはいかないよ。家族に夜ご飯までには帰るって言ってあるもん。それに少しくらいは遊びたいし」
「じゃあ僕が案内してあげる。って言ってもこっちで遊んだことあんまりないんだけど」
「え、本当に?」
 キョトンと驚いた顔をする椿に、今度は大和が苦笑した。
「それくらい頼ってくれても良いんじゃない? ヨッシーと榎本さんも一緒でしょ。良いよ、僕も行く」
「でも……」
 遠慮がちに口篭る椿を見て大和は肩を竦め、そのまま椿の両手から荷物を取り上げた。一泊分の荷物にしては軽く感じたが、それも何だか椿らしかった。
「ほら、荷物持ちも必要でしょ、女の子には」
 だからちょっと待ってて、と言って椿の荷物をベッドの上に置くと、濡れた髪をタオルで勢いよく拭き、クローゼットから手早く取り出した服を着る。数分も経たない内に支度は出来たらしく、再び荷物を手にすると椿に外へ出るように促した。
 鍵を掛けてアパートを出る。日差しはまだ強くないが、心地良い暑さが風に乗ってやってきた。
「榎本さんとは夏祭りで会ったけど、ヨッシーとは久しぶりだなぁ。相変わらず?」
「うん。K大を無事に倒したみたい」
「倒す? 何それ」
 歩きながら笑う大和の横で椿もくすっと微笑んだ。
 春のようだ、と柄にもないことを思う。
「でもきっとびっくりするよ。髪型とか結構変わってたから。あたし、最初全然気づかなかったし」
「ふぅん? それは楽しみかも」
 そんなふうに他愛のない話をしながら駅へと向かった。夏休みとはいえ平日の朝はやはり混雑しており、小さな切符売り場では僅かな列が出来ていた。
 大和が二人分の切符を買って改札を通る。ホームへ出ると更に人の列は数を増した。これでも学生が少ない分、マシな方なのだ。
「ねぇ、椿ちゃん」
「うん?」
「手、繋いでも良い?」
「うん……」
 小さく頷く椿に、大和は満足げに微笑んで荷物を持ち替え、彼女の細い指を絡ませた。
 あんなにキスをしたのに、まだ身体が覚えているほど抱きしめたのに、ただこれだけの行為で今、すごく幸せな気分になれる。
 心が満たされているからだ、きっと。
「好きだよ」
 他の誰にも聞こえないようにそっと囁く。
 椿の肩が揺れ、絡まった指に力が入り、耳まで赤くして俯く。
「……許さないもん」
 大和だけにしか聞こえない椿の声。大和は目を細めて微笑んだ。
「知ってる」
――可愛い自分だけの椿。
 いつか本当に自分だけのものになればいいのに。そう思いながら、けれどずっと一緒に居てくれるとも限らないのだ。
 だからせめてこの瞬間だけでも、椿の心を独り占めできたらと思う。伝わったら少し困る感情だな、とも思った。