Cette Place

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 麻耶と尚志は駅のホームに降り立つ。急行と連絡するこの駅では乗降客の行き交いが一段と激しい。
「あのさ、先に言っておくけど――」
 尚志から視線を逸らしながら麻耶がぽつりと呟いた。
「私、良子の家に行くのはこれが初めてなんだよね。高校時代からの付き合いだけど」
「えっ、マジで!」
 飛び上がりそうなほどに尚志は驚いて麻耶の方へ顔を向けたが、彼女は全くこちらを見ようとしなかった。どうやら本当らしい。
「俺も行ったことねぇよ。やっべぇ、緊張してきた……!」
 住所を聞くにも随分と緊張していたが、どこかで麻耶も一緒だからと安心していた部分があったのだろう。今はその余裕が奪われたようだった。
 しかしまさか、良子と付き合いの長い麻耶が家に行ったこともなかったとは思いもしなかった。女友達というのは恋人よろしく互いの家に泊まりに行ったりするものではなかったのか。
「あー、あそこのコンビニ寄って行こうかな。麻耶、先に行ってる?」
「ばっかじゃないの! 尚志が無理矢理連れて来たのに、私一人で行けって言うの!」
「だよなぁ」
 いや分かっている。分かっている。最後の悪足掻きなだけということは充分に分かっている。
 尚志は大きく深呼吸をして、背筋を伸ばす。
「よし、行くか」
 麻耶に声を掛けて改札口へ繋がる階段を上がる。少し興奮しているのだろう、いつもより息が上がる。一瞬出口を迷って、麻耶に肘を小突かれた。
 良子の住むマンションは駅の前にある大きな建物で、踏切を越えたすぐそこにあった。けれど正面玄関は東側へ大きく回らなければならない構造になっていて少々不便だ。エントランスはゆとりのある円状で、入って右側に駐輪場へ続く入り口が目に入った。その奥にエレベータが二台並んでいる。良子が住む部屋は確か7階だった。
「坂ちゃん、大丈夫かな」
 エレベータの中で尚志が不意に呟いた。麻耶は敏感に反応して顔を歪めた。
「言っとくけど、尚志が連れて来たんだからね。私が行きたいなんて言ってないんだから」
「え? いや、まずは坂ちゃんの具合の心配だろ?」
 真っ直ぐに尚志の視線を向けられ、麻耶は顔を赤くした。友人の心配よりも自分のことで精一杯な自身が恥ずかしくなる。
 けれど、と麻耶は心の中で言い訳してみる。どうしたって自分の居場所はここにないのだから仕方ないではないか。以前のように普通に心配していたって、良子には伝わらないだろう。良子の性格のことだ、きっと裏があるのだと疑ってくる。だから結局……。要らないことまで読んでしまうのは昔から良子の悪い癖だった。
 エレベータを降りて廊下を数十歩も進まないうちに坂口と書かれた表札の前に到着した。先に歩いていた麻耶の前にインターホンが見える。
「尚志、押して」
「なんで。麻耶のが近いじゃん」
 尚志の尤もな意見に麻耶は口を噤む。
 動揺が声に出ないように喉に力を入れ、ゆっくりとインターホンを押した。
「はい」
 少し掠れた声で応答したのは良子本人で、途端に二人は息を呑んだ。彼女に会いに来たのに、いざその声を聞くとどうしたら良いのか分からなくなる。
「あの……?」
 二人して固まっている中でその沈黙を破ったのは、それを知らない良子だった。ハッと我に返って尚志が身体を前へ乗り出した。
「あっ、俺、俺、千田!」
「千田くん?」
「そう。見舞いに来た。メールで言ったろ」
「あ、うん。待って、今開けるね」
 そう言って良子の声が途切れた。どちらからともなく溜め息が漏れる。ただこれだけのことに尚志も麻耶もひどく疲れた。
 すぐに扉の向こうで鍵の開くことが聞こえる。ガチャリと開かれたドアから出てきた良子は普段どおりの格好で、声が掠れていたところ以外は特に顔色が悪いわけでもなく、ふらついているふうでもなかく、尚志はほっとする。
「ごめんな、突然。坂ちゃんが休むなんて珍しいって聞いたからさ」
 ハハと笑う尚志の隣を、良子の目が捉えた瞬間、彼女の顔つきが変わった。驚きと居心地の悪さが合わさったような微妙な表情を浮かべ、そこから視線を動かせないでいた。なぜ尚志の隣に――自分の家の前に、麻耶がいるのか分からないというような態度だ。
「ああ、そうそう、麻耶もついでに連れて来た」
「ついでって……あのねぇっ」
 尚志に待ってたとばかりに食いかかっていこうとする麻耶に、良子は慌てて口を挟もうとした。が、上手く言葉にならず魚のように口をパクパクさせて「あ、あ、」と声だけを洩らした。
「とりあえず入って? ね」
 上手く舌が回らない子どものようにドアを大きく開けて二人を招く。麻耶もそれ以上何も言えず、尚志とともに素直に従った。
 マンションと言うくらいには充分に玄関は広く、廊下も長く幅のあるものだった。綺麗に掃除されているのだと思わせるほど片付いた、悪く言えば閑散としたリビングが突き当たりにあり、二人はそこへ通された。正面はベランダが見え、右側にキッチン、ダイニングテーブルとソファが並び、左側にソファと向き合う形で大きく薄いテレビが壁にかかっている。
「坂ちゃん一人?」
 キョロキョロと無礼なほど部屋を見回しながら尚志が尋ねた。
「うん。親は仕事だから」
 良子はそう答えた後、ソファに座るよう二人を促し、自分はキッチンへ入ってジュースを用意する。時折息苦しそうな咳が聞こえてきたが、身体が辛そうな態度は見えなかった。
「身体は大丈夫なのか? 風邪とか?」
「うん、大丈夫。朝は熱があったから休んだんだけど、もう下がったし」
 言いながら、お盆にジュースの入ったコップを三人分乗せて良子が戻ってきた。横に並んで麻耶と尚志が座っており、尚志の向かいにクッションを持って来た良子が腰を下ろす。少し寒気がするのか、ストールを膝の上に被せていた。
「……麻耶も来るとは思わなかった」
 テーブルの上にコップを置いた後、ぼそりと良子が呟く。その刹那、尚志と麻耶はどきりと鼓動を速めた。
 麻耶は引きつりそうになった口元を固く結ぶ。今なら罵詈雑言を命一杯浴びせられそうだった。
「誘ったのは俺なんだ。もう年も終わりだし、いつまでも今の状態じゃアレだろ。なんかヤじゃん」
 年の終わりと言うにはまだ早い時期だが、誰もそのことについては触れなかった。確かに尚志の言うとおり、いつまでもこの状態を続けていてもしょうがないと思う。もともと麻耶と良子はタイプは違っても趣味や趣向が似ているところがあって、意気の合う友人としてこれ以上ないくらいだと思っていたのだ。同じ大学を受けて、同じキャンパスライフを過ごせると分かった合格発表のときは、それこそ抱き合って喜んだのに、今はその欠片さえもない。
「お節介だってことは分かってるけど、俺としては四人で仲良くしたいんだよね」
 それからふと気づいたように尚志は立ち上がった。緊張のせいかいやに早口で捲くし立てた。
「っていうか二人で話し合った方が良いよな。つかそうしてほしいし。てことで俺帰るわ」
「はっ!? なんで!」
「え、帰るの!?」
 見事に麻耶と良子の言葉が重なった。
 二人の縋りつくような瞳に尚志は躊躇し、仕方なく腰を下ろした。
「あーあー分かったよ。帰らないよ。帰らねぇから」
 けれどそれからは誰も言葉を放つことなく、短いような長いような沈黙だけが漂う。
 気まずい。
 居た堪れない。
 そんな単語がぐるぐると宙に舞う。
 空気を色に例えるなら絶対にグレーだ。
「ヤマトくんのことだけど」
 麻耶が口を開く。いきなり核心を突いた発言に尚志だけでなく良子も僅かに肩を震わせた。
「良子、謝りなよ。ヤマトくんの彼女、望先輩が会ったって言ってた。私も写メ見せてもらった。可愛い子だったよ。私、ちゃんと振られたよ」
 麻耶は良子を見つめる。
 良子は麻耶を見なかった。
「ヤマトくん、きっと良子が思ってるような人じゃないから。ううん、もしかしたら私よりも良子の方がヤマトくんのこと理解してあげられるかもしれない」
――良子が両親のことで傷ついたように、彼も母親に傷つけられている。愛を欲しがっていた。良子はまだそれに気づいていないけれど大和は既にそれを知っている。それだけの違いだ。
 だけども麻耶はそのことを良子に伝えない。大和の事情を話しても、それは自分のエゴでしかないように思うからだ。自己満足でしかないように思えるからだ。大和も良子もそれを望んでいないと思うからだ。
「だからちゃんと謝って。そうじゃないと私達、いつまでもこんなだよ。それって何か変じゃん」
 言いながら麻耶は気づき始めた。良子を無視していたようで、ずっと彼女のことを考えていた自分がいたのだ。大和に振られたときも傍に良子がいてくれたらと思う自分がいて、そういう仲に戻りたいと望んでいた自分がいた。いざ良子自身を目の前にするとそれがなくなっていたけれど、本当はこんな喧嘩とも言えないような事はしたくなかった。当然のことだ。
 今のこの状態はおかしいのだ。
「良子は先のことを考えすぎなの。深く読みすぎなの。それで今までどれくらい失敗した? 傷ついた? 本当はもっと簡単なことだってあるんだから、いい加減それに気づかなくちゃ」
 つい口調が強くなる。
 気づくと俯いている良子は唇を噛み締めていた。どんな表情なのかは前髪に隠れて見えないけれど、きっと辛いだろう。
 私も同じように辛いのだと叫びそうになったのを喉の奥で留めた。そんな言葉は要らない。
「言いたいことは、……それだけだから」
 良子は何かないの、と言ってみる。
 多分に無理だとは予想できても、それを裏切って欲しかったのだと思う。
「……」
 けれど良子は何も言わず、ただ俯いて。
 痺れを切らした尚志が「帰るよ」と声を掛けるまで良子は下を向いていて。
 バイバイの言葉も交わさなかった。