Cette Place

46


 良子と麻耶を会わせたからといって、尚志が思うほど物事は都合よくはいかなかった。これが現実というものなのだろう、と頭では分かっていても、やはり片隅で少しくらいは好転していても悪くはないだろうと尚志は希望を捨てきれなかった。
 少し遅めの大学祭が終わっても二人の関係はあまり変化はなく、ただ以前と違うことを挙げれば僅かながらも視線を合わせるようになったということだけだ。……いや、それだけでも大きな一歩と言えるのかもしれないが。尚志としては年末も近い11月になった今でも、この状態ではやはり納得できないでいる。
 せっかく胃の痛む思いを無視して麻耶と良子を突き合わせたのに。
「なんでお互い意識してるのに向き合わないんだよ?」
 じれったくなった尚志は二人になった時、堪らず良子に言った。相変わらず良子と麻耶は別々に行動し、尚志はそれに痺れを切らしてしまった。
「麻耶は多分、あたしがヤマトくんに謝るのを待っているんだと思う」
「? それが分かってるなら、どうして――」
 首を捻る尚志に良子は困ったように顔を顰めた。
「誤解、だったんだろ?」
 何も言わない彼女に、尚志は確かめるように言う。大和に対して放った雑言は誤解だったのだと、言ったのは麻耶だった。
 良子は深く呼吸を整えて俯いた。
「でもまだ、勇気がなくて……」
「そんな……っ」
 言いそうになって、尚志は咄嗟に続きを喉の奥にとどめた。そんなこと、では決してないということは、良子の傍に居て彼女の性格を把握している尚志は充分に知っていたはずだった。
 いつでも良子に必要なのはそれだった。


『年末はいつ帰って来られる?』
 日曜日、久しぶりの真からのメールは、読んだ瞬間に大和を憂鬱にさせた。来るかとは思っていたが、実際に来られてみると返信に困ってしまう。
 大和はとりあえず待ち受け画面に戻し、携帯電話をジーンズの後ろポケットにしまった。
「メール?」
 大和の動作を見て声を掛けてきたのは望だった。残り少なくなった食材を足しにスーパーへ寄った帰りの本屋で、偶然会った望と共にアパートへ戻ったばかりのことろへ携帯電話が震えたのだった。
「返事はせんでええの?」
「え、ああ、はい。部屋に戻ったら」
 僅かに微笑んだ大和はそれを合図に別れを告げることにした。望も特に何かを感じたわけでもないようで、すんなりとドアの向こうへ姿を消す。知らず、ほう、と溜め息が漏れた。
 後ろ手で鍵を閉めると玄関先に荷物を置く。電気を点けて部屋へ入り、暖房を入れた。11月に入ってから急に北風が強くなった気がして、おそらくガス代も増えているんだろうなと今まで思いもしなかった心配をしてみる。携帯電話をテーブルの上へ置くと、食材を冷蔵庫へ直してから上着を脱いだ。
 再び携帯電話がメールの着信を知らせるバイブを発した。また真からだろうと思った大和は振動だけを止め、携帯電話を元の位置に戻すと腕捲くりをしてキッチンへ向かう。米を研いで炊飯器に入れる。開始ボタンを押して初めて息を吐けたような気がした。暖房の効いた部屋へ戻り、テレビを点けると、モデルと女優のスキャンダルを報道するワイドショーが流れた。大和には興味のないものだったが、とりあえず日曜のこの時間帯に見たい番組もなかったので、そのままそれを眺めることに決める。
 また携帯電話が震えた。大和は仕方なく取り上げ、開いた。真からではなかった。
「……千田?」
 最初のメールも、今の着信も、弟の真ではなく尚志からだった。彼から休日に連絡を寄越すことはあまりないことで、大和は一瞬出るべきか判断に困ったが、友人からの連絡に迷うこともないのだと思い直した。
「もしもし」
 半ば戸惑いがちに電話に出ると、やっと繋がったと安堵の息を洩らす尚志の声が聞こえてきた。
『もしもし、ヤマト! メール見たか?』
「あー、いや。見てないけど」
『あ、そう。お前、もう少年法のレポート出したか?』
「少年法のレポート?」
 メールの内容らしい事を口にした尚志に、大和は記憶の糸を手繰ってみる。少年法Tの講義は大和が月曜の1時限目、尚志たちは別の曜日に入れている。教授は同じなので講義内容も一緒の筈だから、おそらくレポートのことも共通している。何か提出するものがあったかと思い出してみれば、確かにあった気もする。
『そう! 次の講義に提出のやつ。俺まだでさぁ。ヤマトならもうできてるはずだろ? 少しだけ見せてもらえないかと思って』
「そりゃできてるけど――」
 片手に携帯電話を持ちつつ、言いながら反対の手でカバンの中からファイルを取り出した。1ページ目は少年法Tの授業ノートである。そこにレポート内容と提出日、提出先と、提出方法が走り書きでメモしていた。
「――あ」
 ノートのメモを見て思わず声が漏れた。瞬間に鼓動が速くなる。
 どうして勘違いしていたのだろう。
『ん、どうした?』
 大和の零した呟きを拾った尚志が尋ねると、大和は困ったように頭を掻いた。完全にやってしまった。
「これって確か、手書き不可だったよね」
『ああ。原稿用紙じゃなくてレポート用紙必須。それがどうかしたか』
「……印刷、できてない……」
『は?』
 一瞬、大和の言ったことが理解できなくて、尚志は間抜けな声を出した。
「ヤバイ。明日朝一で提出なのに印刷するの忘れてた」
『え?』
 大和が手で口を覆って考え込み、沈黙が流れる。
『学校の自習室で印刷できるだろ?』
「日曜は開いてないし、平日は9時に開くから間に合わない」
『あ、そっか』
 1時限目が始まるのも9時からだ。他のコンピュータ室は自習不可の部屋がほとんどで、あてにできないだろう。
『俺が一緒に印刷して今日持って行こうか? データをメールで送ってくれれば』
「ほんと? 助かる」
 尚志の思っても見なかった申し出にほっと安堵する。が。
『あ……、ちょっと待って』
 ふと何かを思い出したように尚志はそう言って、電話を一旦置いた。
 そして戻ってくると、申し訳なさそうな声で告げる。
『悪い、俺んとこの、インク切らしてた。親父に言って買ってもらってくるわ。俺、よく分かんねえから』
「あ、いいよ、悪いし。他当たってみるから。データだけは送ってあげる」
 そう言って笑い、尚志との通話を切る。こういう時実家だったらと思わずにはいられない。一人暮らしを始めるに当たって色々家電製品を買ったが、さすがにプリンターは高すぎてやめた。学校から近いのだし、学校でやれるのだと思って買わないことに決めたのだけれど、少しだけ後悔をしてみた。
 だから隣の望も同じだろうし、他の地球環境研究会のメンバーも多くが下宿しているから頼ることは出来ない。
 大和は仕方ないか、と息を吐いて電話帳から番号を引っ張り出した。もしかしたらメール以外で連絡するのは初めてかもしれなかった。
『もしもし、ヤマトくん?』
「ああ、坪井? 今大丈夫?」
 電話を掛けてきた大和に驚きながらも胸を高鳴らせる麻耶は、一瞬息を呑んで、コクリと肯定の返事をした。
「実は少年法のレポート、印刷するの忘れててさ、良かったらプリンター貸してくれないかな。千田のも都合悪くて」
『プリンター?』
 思いもしない大和からの頼み事に、自分に頼ってくれているという現実に、麻耶は嬉しくなる。
 だが彼女から漏れたのは困ったような声音だった。
『……ごめん、うちのも今壊れてて、修理に出してて。私も学校で印刷してるんだ』
「ああ、そうなんだ……。僕の方こそ急にごめん」
 大和は思わず微笑するが、落胆の表情は声に出ていたかもしれない。
『あ、市民館は? 望先輩に聞いたことあるんだけど、そっちの市民館のコンピュータ室、確かプリンターもあったって』
「市民館?」
 大和は復唱する。
『うん。開放時間とかは分からないけど、行ってみたら? たぶん出来たと思うんだけど』
 予想外の情報源に大和は感謝し、早速行ってみる、と麻耶に告げて通話を切った。
 大和はテレビを消してUSBと携帯電話、財布、鍵だけを持って外へ出た。自転車を持ってきていなかった大和は急ぎ足で市民館へ向かう。
 市民館はここから歩いて15分くらいの、大きな交差点を超えた所にある。中には消費者センターや図書館や書道教室があり、他にも年中様々な教室やイベントを開いたり催し物をしている、多目的の施設だ。そこにコンピュータ室も完備されているのは知らなかった。
 初めて入る市民館は遠目で見ていたよりも新しい建物らしかった。全体が吹き抜けの構造になっており、まだ明るい太陽の光が直接床に当たっていた。中央にはグランドピアノがどっしりと構えており、なるほどイベント会場にもリサイタル会場にもなるのだと思った。受付口は玄関から左手の方にあったが、大和はそこへは寄らず、螺旋階段を使って2階へ上がる。
 案内図を見れば階段を上りきって真っ直ぐに進むとコンピュータ室があるようだ。円状の廊下を歩き、コンピュータ室を探す。
「あっ……」
 プレートが掲げてあるそのドアを目にし、あった、と呟きそうになった声は咄嗟に引っ込んだ。部屋の明りは点いておらず、中を確かめることは出来なかった。ドアの窓に張られた開放時間を記す紙には、曜日指定はなかった。ただ、午後5時までと大きく書かれており、携帯電話のディスプレイを見やればちょうど5時を過ぎてから15分が経過していた。
 はあ、と大きく溜め息を吐く。
 手すりに凭れかかり、どうしようかと思案する。
 自分のミスとは言えついていない。
 とりあえず麻耶にダメだったと電話しよう、と電話帳を開く。
『もしもし』
 麻耶はすぐに出た。もしたしたら待っていたのかもしれないと思った。
「あ、坪井?」
『うん。どうだった?』
「ダメだった。時間、5時まででさ、遅かった」
『そっかぁ……』
「ごめん、悪かったね。あとは自分でどうにかするから」
『うん……』
 そうして電話を切ろうとした、刹那。
『あっ、あのさっ』
 麻耶が叫ぶように大和を呼び止めた。大和はボタンに掛けていた親指を離し、電話を持ち上げる。
『良子の家のプリンターなら大丈夫だと思うんだけど。一回聞いてみたら……?』
「坂口?」
 大和は戸惑った。尚志からならともかく、まさか麻耶の口から彼女の名前を聞くとは思っていなかったからだ。
 そういえば尚志と麻耶は以前、良子の見舞いに二人で行ったのだ。その時に何かあったのだろうか。
「うん、分かった、そうする。ありがとう」
 今度こそ本当に電話を切り、けれどすぐその手で良子の番号を引っ張り出せなかった。
 しばらく間を置いて、ようやく指を動かす。
 おそらく、こんな緊急事態のことでなければ良子の番号を引っ張り出すこともなかっただろう、と思わずにはいられない。
 この電話で何かが変わるわけでもないだろうけれど――。
 数回のコール音が響いた後、遠慮がちな彼女の声を、久しぶりに耳にした。
『もしもし……』
「ああ、坂口。頼みたいことがあるんだけど、今いいかな?」