Cette Place

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 良子は突然の大和の電話に動揺した。通話ボタンを押すのに幾分か躊躇い、それでも無視することは出来ずに、震えそうになる手を抑えながら耳を受話口に当てた。
『ああ、坂口。頼みたいことがあるんだけど、今いいかな?』
 思いの外普通に、まるで仲の良い友人に言うように自然な口調で、大和は話しかけてきた。
 良子の動悸も心持ち、落ち着いてくるようだった。
「う、ん……。どうしたの?」
 自分だけ声が上擦ってないだろうか。裏返ってないだろうか。震えていないだろうか。この緊張感が伝わっていないことを心配しながら、良子は問いかける。尤も、大和ならばそんな良子の心配さえ無視してくれているだけかも知れないが。そこまで思うのは傲慢のような気もする。
『実は明日提出のレポート、印刷するの忘れててさ、良かったらプリンター使わせてほしいんだけど』
「プリンター……?」
 再び良子の鼓動は速度を増した。プリンターを使わせるということは、大和をこの家に呼ぶということなのだろうか。
 人を家に呼ぶことに抵抗はないが、相手が大和なら話は別である。
「あの、メールで送ってくれたら明日、印刷したのを持っていくけど?」
 ちょうど月曜の1時限目は別の講義がある。少し早く家を出ることに何の問題もなかった。
 意外に自分の口調が普段どおりだったことに安堵しつつ、変わらず緊張した面持ちで彼の答えを待った。
『それは……助かるけど。いいの?』
 大和の言葉に良子の心臓がトクン、と高鳴った。こちらから提案したことなのに、良子の手数に心配りを見せてくれる彼は、本当に良い人なのだろう。
 今、これが電話で良かった、と思う。
「うん、あたしはいいよ。……正面玄関のとこで待ってたら良い?」
『うん。ありがと』
「ううん。それじゃあ、明日」
 通話を切って、肺に溜まっていた息を吐き出す。まだ鼓動が早いままだ。
 そして慌ててパソコンの電源を入れた。そして五分後、早速メールボックスに初めてのアドレスから添付ファイルが届いた。

 普段よりも一本早い電車に乗り、20分も早く学校に着いた。大学の正面玄関には総務部の受付口と、待合室のような一角にソファがあり、廊下を挟んだ奥には談話室のようにソファとテーブルが設置されていた。頻繁に職員や学生が行き交うこのスペースで寛いでいる人は滅多にいないが、大和は総務部の向かいに置かれているソファに腰を下ろし、良子を待った。
 彼女は大和がここへ来てから数分もしない内に姿を現した。急いで来たのだろうか、僅かに鼻や頬を赤く染め、息が上がっていた。
「お、おはよ……っ」
 意を決して、というように良子から、しかし一度もこちらを見ないで、挨拶の言葉を投げかけてきた。
「おはよう」
 大和はふわりと微笑むが、良子は視線を逸らしたまま、それに気づかない。
 良子はがさごそとバッグからクリアファイルを取り出し、ホッチキスで纏められたレポートを差し出した。
「ありがとう。助かった」
「ううん」
 受け取る大和の手を見ながら良子は首を振る。男の手なんだな、と当たり前のことを思う。
 意外に、会ってみれば何てことはない。動悸も息切れもせず、やや普段よりは早い鼓動だけれど、この緊張感に思っていたような気まずさは感じられなかった。
「……麻耶が、言ってたんだけど」
「うん?」
「彼女、可愛いんだってね」
「あ、うん」
 大和は驚きながらも即座に頷いた。どうしてここで椿のことが出てくるのか大和には分からなかったが、良子から話を切り出してくれたことは嬉しかった。写メあるんだ、見る? と調子に乗って言ってみれば、難しい顔をして振られてしまったけれど。
「……付き合ってどのくらいなの?」
「んー、今2年目かな」
 実際に椿とともに過ごしてきた時間はほんの僅かだと思っていたのに、口にすると案外月日は経っているものだ。
「あたしの両親は10年付き合って、結婚して2年で別れたの」
「……」
 目も合わせないでそんなことを言ってくる良子に、大和は思いきり険しい表情を作った。
「母はそれからも新しい恋人を作って、あたしはそれが嫌だった。母は恋人が出来るとその人だけになるから。あたしが家事を一通りこなせるようになると、家に帰ってこない日も増えていって……」
「……」
「どうして、結局一人だけを愛すことはないのに、その人だけなんて言えるの」
「……」
「麻耶が言ってた。ヤマトくんも親に愛されていないんだって。なのにどうして、それが愛だなんて分かるの? 彼女の愛を信じられるの? 4年も離れて、何も変わらないなんて思えるの?」
 顔を上げ、今日初めて、良子が大和の目を見た。
 大和は怒ったような、困ったような、難しい顔をして良子を見ていた。
「――変わらないものなんてないよ」
 大和の普段とは違う、低く重い声音が静かに放たれる。
「確かに坪井は、僕は親の愛が欲しかったんだと言っていたけど、昔から愛されてなかったわけじゃないよ。親も人なんだ、気持ちも変わるし、態度が変わることもある。それって当然のことじゃない?」
 言葉にするとこんなにも簡単なことなのに。
 良子も馬鹿だけど、そう言っている自分もかなりの馬鹿だ。大和は心の内で苦笑した。
「長い目で見れば人は何人もの人間と惹かれ合うのかもしれなけど、確かにその瞬間だけは一人だけなんだ。当たり前のことだよ。坂口に好きな人が出来たら、きっと分かると思う」
 変わらないものなんてない。仏教思想に無常という言葉があるように、永遠に不変のものなんてないのだ。環境も、人の愛も、動物達の営みさえ、時とともに変化していく。そんな当たり前のことに、大和自身、今更に気づいた。ずっと昔から知っていたようで、その実、全く分かっていなかった。
 何度も気づかされる。そして知っていく。だから人は変わっていくのかもしれない。
 椿を想う気持ちも、決して同じ時などないのだ。良い意味でも悪い意味でも、変わらないものなどありはしない。

――結局。
 良子は「ごめん」の一言も言えないままだったけれど。

「ヤマト! こっち、こっち」
 ゼミのことで研究室へ寄っていた大和とは別に、先に食堂へ行っていた尚志が入り口付近でキョロキョロと首を回している大和を見つけて、腕を振って呼んだ。大和がそれに気づくと、尚志の隣と向かいに麻耶と良子の姿も見えた。そうか、今日からこのメンバーなのか。
「昨日は悪かったな。結局坂ちゃんに頼んだんだって? 家に行ったのか?」
 大和が席に着くなり尚志が聞いてきた。いや、と首を横に振る。
「朝届けてもらったんだ」
「ふうん、そっか」
 それだけでこの話は終わり、弁当持参の麻耶と良子を残して尚志と大和はカウンターへ並びに席を立った。
 カウンターには既に数十人の列ができあがり、その最後尾に着くと、思い出したように大和の後ろに立つ尚志が話しかけた。
「そういや冬休みはどうすんの? 実家に戻るのか?」
「うん、一応。晦日には帰ろうかなって思ってるけど。なんで?」
「忘年会、いつやろうかと思ってさ。あんまギリギリだと下宿組みが居なくなるからリサーチして回ってるとこ」
「へえ、忘年会か。いいね」
 一つ二つ前に詰めながら相槌を打つ。
「だろう? でさ、実は内緒で坂ちゃんの誕生日も祝おうかって企んでるんだよな」
 僅かに声を潜めながら、楽しそうに尚志はそう打ち明けた。
「坂口、誕生日もうすぐなの?」
「12月20日だって。ちょっと誕生日は過ぎるかもしれないけど、サプライズにはなるだろ」
「なるほど」
「もう麻耶にも言ってあるんだ。ヤマトも協力してくれるよな?」
「うん、いいよ」
 大和がすんなりと頷いてくれたので、尚志は安堵の息を洩らした。内心、良子と大和がいつまでも膠着状態だったなら、自分から無理矢理付き合せるように動くことも厭わないと思っていたのだ。けれど無理矢理付き合ってもらっても意味のないことは分かっていた。本当に良かった、と思うと同時に、こんな些細な事で嫌な雰囲気がなくなるものかと感心する。まだぎくしゃくとはしているものの。
 ランチをトレイに乗せて戻ってきた二人を待って、麻耶と良子も弁当の蓋を開けた。大和が遠目から見ていた限り、会話はなんとなく弾んでいたようだ。
「さっき話してたんだけど、ヤマトは結構ギリギリまで残るって。授業もあるし、クリスマス辺りで良いんじゃね、忘年会」
「あ、そうなの? いつ向こうに帰るの?」
 尚志のそれを聞いて麻耶がもう一度尋ねてくる。
「晦日にはと思ってるんだけど」
「ホントにギリギリなんだね。どれくらい居るの?」
「まだ分からないけど、三箇日は向こうに居ようかな」
 大和は僅かに苦笑を浮かべる。それより気になっているのは明日の授業のレポートだ。時間がなくてまだ半分しかできていなかった。
「短っ! 実家って結構遠いんだろ?」
 驚いた声を出した尚志に、そういえば大和は家事情を話していなかったかもしれないと気づいた。
「あんまり自分の家って好きじゃないんだよね」
 僅かに浮かべていただけの苦笑を深くして大和は言った。そうなのか? と尚志は首を傾げて見せた。
 それまでほとんど発言しなかった良子がややあと口を開く。
「あのさ、あたし、思うんだけど――」
 尚志はそれを聞きながら、ふと半年前の、麻耶と大和をくっつけようとしていた良子を思い出した。
 人間は変わらないものだって多く持っているものだ。きっと、変わらないものの方が多い。