天つ神のおまじない

束縛編


起きたら目覚まし時計が止まっていた。

「なんだ、まだ7時か……」

すみれはのろのろと体を起こした。けれど確か昨晩は、7時に鳴るようにセットしたはずである。

「え……7、時――?」

さっと血の気が引くのが分かる。まじまじと時計を見つめてもウンともスンとも云わず――それどころか秒針の音さえ聞こえてこない。

止まっていた。すみれの体も、思考も、秒針さえも。

「な、あ、ああっ――!!」

「煩いわよ、すみれ!」

絶叫するすみれに、一階から母の怒鳴る声が聞こえた。

しかし今はそれどころではない。完全に時計は電池切れを起こしていて、その機能を完全に停止させていた。

すみれは急いで充電していた携帯電話を拾い上げると、ディスプレイにはきちんとデジタル文字で8:50と表示されている。

完全に寝過ごした。

すみれは声にならない悲鳴を上げると、半分泣きそうになりながらクローゼットから着替えを取り出す。本当はゆっくりと選びたかったが、もはやそんな時間は許されていない。結局着やすいジーンズに白のインナーとボーダーのニットという、いたってラフな格好になる。本当は髪もしっかりセットしたかったが、櫛で軽く梳かし、二つに分けただけ。ドタドタと洗面所に向かい、化粧はファンデーションを塗って軽めにアイラインを引き、チークとリップを手早く済ます。

約束は9時に改札前だった。

ケイタイを覗くと既に9:30である。

着信はない。

『すみれ、急ぐなら手伝うぞ』

耳の奥で青年の声がした。ちょうど玄関を出たところだった。

「ありがたいけど白虎、町の中でソレは勘弁して!」

白昼堂々空を飛ぶわけにはいかない。しかも白い虎に跨る姿など見られた日には大変な事になる。もちろん式神の気配に敏感な人間は稀なのだが――今はあるかも分からないリスクを負うよりは素直に謝るべきだろう。

すみれは全力疾走した。時々足元が軽くなる違和感は、この際気にしないことにした。


大河はようやく現れたすみれの姿を見て安堵した。

「大丈夫?」

倒れこむように前屈みになって息を切らすすみれに、大河はあくまでも優しく声を掛けた。肩で呼吸をする彼女の息づかいは尋常ではなかった。思わず本気で心配になり、大河はそっと背中を摩った。

「ごっ……ごめ……ん、ね……っ」

「いや、仕方なかっただろうし。何か買ってくるよ。水でいい?」

すみれの返事を待たず、大河は近くのコンビニで冷えたペットボトルの飲料水を買ってきた。

蓋を開けてすみれに渡すと、すみれはそれを頬に当てて熱くなった体を冷やす。それから少し口に含んだ。

幾分か落ち着いてくると体温が急激に高くなっていくのが分かる。溢れる汗をハンカチで拭いながら、ようやく大河と正面から向き合った。

「ごめんね、柴島くん。起きたら9時前だったの……」

俯いて申し訳なさそうに謝るすみれに、大河は気にした様子もなく首を横に振って見せた。

「いいって。それよりもう少し休もうか?」

「え……、でもせっかく映画のチケット当たったのに。早く行った方が良いんじゃ」

「せっかくのデートだし、落ち着いて楽しみたいだろ」

デート。その言葉にすみれは思わず硬直した。

確かに傍から見ればこれはデートなのかもしれない。今更それに気づくなんて。

すみれはなんだか恥ずかしくなってきた。自分と大河とは別にコイビトという関係でもないのに。

ただ少しの縁があったというだけの、同級生にしかすぎないのに。

「とりあえずどっかに入ろう」

大河の提案で近くのファーストフード店へ入る。まだ朝だと入っても日曜の今日は、どこか子連れ客が多かった。

すみれのために大河が全て注文し、代金も彼が払った。席に着くとすみれが財布を出そうとするのを、大河はそれとなく拒否し、すみれは何度目かの「ごめん」を口にした。

「こういうときは普通、ありがとう、だろ?」

「あ、うん。ありがとう」

人懐こい笑みを浮かべられ、すみれはようやく肩の力が抜けた気がした。今日は朝から情けない姿しか見せていない気がする。

「柴島くんって優しいね」

すみれがぼそりと呟く。大河は驚いて、え、と彼女の顔を覗き込んだ。

「そうかな?」

優しいと言われたのは初めてかもしれなかった。幼い頃から特異な体質を自覚していた大河には、そんなふうに言ってくれる人間がいるとは思いもしなかったし、実際今まで付き合ってきた人間は皆、私利私欲に塗れていた。

「うん。初めはびっくりしたけど、式神たちを憑かせてくれたのも結局は私の厄払いのためだったし。今もこうしてご馳走してくれてるし」

純粋にそう思ってくれているのだと彼女の雰囲気から分かり、大河はどう反応していいのか困った。もう一度「そうかな」と曖昧に笑ってみせる。

『それはどうかなぁ』

突如あっけらかんとした声が響いた。大河もそれに気づいたようで、微笑む顔を少し引きつらせた。

「て、天空!?」

すみれは驚いて思わず声を上げる。天空は何も気にするふうもなく『だってさぁ』と面白そうに笑って続けようとした。

『そもそもすみれの厄払――』

その言葉は大河がすみれの手の甲に自分の掌を重ねたことで遮られた。固く手を握り締められ、すみれは自分の体が熱くなるのを感じた。しかしそれとは逆に、当てられた手の甲は寒さを感じるほど冷たい。

「煩いぞ、天空」

低く重い声で大河がすみれの耳元に囁く。すみれはドギマギとしながらも、体の奥で『へいへい』と天空が引いていくのが分かる。

「なに、今の?」

不思議そうに尋ねてくるすみれに大河は静かに微笑んだ。

「何でもないよ」

大河はそう言って握っていたすみれの手から自分の掌を離した。

『知らなくていいこともあるものよ、すみれ』

途端に少女の声が小さく聞こえた。おそらく大河に聞かせないように、という六合の配慮なのだろう。

なんとなく腑に落ちなかったすみれだが、せっかくの2人の時間なのだ、と思い直すことにした。

大河の優しさは本物なのだから、と信じている。



そして式神たちはそんな彼女を複雑な面持ちで見つめる。天空が言おうとしていたことは、全ての式神たちも気づいていたことだった。

「そもそもすみれの厄払いが完了した時点で式神の役割は終えている」

「それでも未だ式神をすみれに憑かせているのは、全て彼女の行動を大河が把握するためだ」

大河のそれは優しさではなく、ただの男の束縛に過ぎないのだということを――。

≪ F I N. ≫

   

+++ あとがき +++
ご精読ありがとうございました。
時期としては高3の秋-冬辺りでしょうか。
というか。
す、すみませ…っ!
どうぞ石は投げないでください(汗)
2008/07/18 up  美津希