バレンタイン編
デパートでの買い物の帰り、エレベータを一つ降りた所で不意にすみれの足が止まった。
天后は見目麗しい気色でキョトンと瞬きをした。
「あ……、そっかぁ……」
ようやく呟いたすみれを見て首を傾げる。
「どうしましたの?」
「うん……バレンタインなんだなあと思って」
「バレンタイン……」
そう言ったすみれの視線の先には、ピンク色の看板に装飾されたロゴで「チョコレートフェア」の文字があった。
そういえば昨年もこの時期に大河が何人かの女性からチョコレートを貰っていたけれど、これと同じ理由からだったのだろう、と天后は納得したように頷いた。
「でも本当のところ、バレンタインってどういうイベントなの?」
後ろから買い物袋を両手に抱えた六合が聞いてきた。
「元々はバレンタインって人が殉教した日で、海外では男性が恋人にプレゼントを贈る日、かな。花束とか本とか。日本では女の子が好きな人にチョコレートをあげたりするんだけど」
「あー、そういえば大河も貰っていたっけ」
ぼんやりとした声で六合が言った。天后はその声に鼓動を速くさせるが、恐る恐る見たすみれの表情に特に変化はなかった。
「やっぱり柴島くんってモテてたんだ?」
顔は良いもんね、と相槌を打つすみれの言葉に、ようやく六合も天后が危惧していた事態を理解した。
「あ、いや、でも、今年はすみれがあげるんだよね、チョコレート?」
六合は焦った表情ですみれを見上げる。すみれは首を捻ってチョコレートフェアのポップを見つめ、どうしようかなと呟いてみせた。
「柴島くんにはお世話になったし……買って帰ろうかな。……柴島くんって甘いもの平気だった?」
「えぇと……嫌いな食べ物は無かったはずだよ」
「もちろん、すみれから貰ったものなら尚更喜びますわ」
天后が六合の言葉に重ねるように慌てて言う。正直なところ、大河はあまり菓子類を好んで食べる人間ではない。けれどそれをすみれに伝えてしまえるほど彼らも愚かではなかった。
「そっか。良かった」
にっこりと微笑んだすみれの顔を見て二人はほっと肩を下ろす。
「買ってくるからちょっとここで待っててね」
「うん!」
六合と天后は大きく頷いた。人ごみに混ざっていくすみれの背中を見届けたあと、天后は六合を軽く睨みつけた。六合は肩を竦める。
大河が甘いものをあまり好きではないことは、すみれは式神に聞くまでもなく知っていた。いつだったか、映画を観に行った帰りに寄ったファーストフード店にて、セットで出てきたアップルパイをすみれに寄越してくれたことがあった。その時に大河の口からそういったことを聞いたのを覚えていた。
ガラス越しに並べられたチョコレートを眺めながら、どうしようか、とまだ渡すかどうかで悩む。基本的に優柔不断な性格は直っていない。些細な事だとは思うものの、感謝を言葉以外で伝えることに慣れていないのだ。
「どうぞ、良かったら一つ食べてみてください」
何度も同じガラスケースの前でうろつくすみれに、グレイの制服の上から可愛らしいピンクのエプロンを着けた女性店員が、柔らかな口調でチョコレートの試食を勧めてきた。見れば、細かく刻まれたチョコレートが小さなケースの中に詰められて、前に差し出されている。粉末でコーティングされたそれらは、見ただけで美味しそうだと思った。
「珍しいでしょう。きなこを塗しているんですよ。甘さも控えめで、オススメですよ」
食べるのはタダだ、とすみれは手を伸ばす。
やはり美味しかった。確かにチョコレートの濃い目の甘さはきなこによって抑えられていて食べやすい。けれどきなこの味が勝っているというわけでもなく、ほのかに風味として口の中に広がるだけだ。
値段も、小さめのサイズなら消費税を含めても、千円を少し超えるくらいだ。決めよう。
すみれはいつもより少し高めの買い物をして、僅かに興奮しながらいつもより高級そうな紙袋を受け取った。
「食べてくれるといいんだけど……」
天后と六合の待つ場所まで戻る間際、ふと呟いたすみれの耳の奥で、天空がカラカラと笑う声が聞こえた。
『大河がすみれからくれるものを受け取らないわけねーじゃん』
百貨店と直結している駅のホーム。大河は向かう足を止めた。すみれがここを通ることを青龍から聞き、やって来たのだが、事態が変わったことを天后が伝えてきたからだ。
今日駅の近くまで来たのは偶然だった。そこへ青龍が大河の気配を察して教えてくれた。だから迎えに行くつもりだったのだが。
『何かあったのか?』
『あの、いえ、上手くは言えないのですけれど……』
朱雀や貴人のようにはっきりとものを言わないのは、言えないからであって、天后がもともとそういう性格であると分かっている。だから大河は彼女が口篭る理由を無理矢理突き止めるような態度は取らず、ゆっくりと目を閉じた。
『焦らないでいいから。何かあったんだな?』
他の式神が動かないということは、厄が来たわけではなさそうだ。とりあえず最悪の事態ではないことに安堵しつつ、やはり来るなと言われると好い気はしない。
『ちょっと寄り道してるだけだから、大河はそこで待ってて! すみれが行くまで来ないで、ね!』
聞こえてきたのは六合の声だ。
『どういうことだ?』
すかさず大河が問いかけるが、ちょうどすみれが彼女らの元に戻ってきたのだろう、返事はなかった。
「くそ、なんなんだよ……」
来るなといわれても理由が分からなければ行くしかない。見たくない光景がそこにあったとしても、知らないよりはずっとましだ。
大河は彼女らの忠告を無視して、再び足を進めた。
重いガラスのドアを開け、エレベータのあるコーナーへ向かった。電光板に映る数字を目で追いながらエレベータが下りてくるのを待つ。ボタンは押していない。待っているのは乗るための箱ではなく、その中に居るすみれだからだ。
チン、と短い音が鳴り、扉が開く。
「あ、あれ? 柴島君?」
驚くすみれの後ろには、困ったように表情を歪ませる二人の式神の姿があった。大河はそんな彼女達に目もくれず、ただすみれに柔らかく微笑んだ。
「おお、偶然だな。買い物?」
「うん。今バーゲンやってて。柴島君も?」
「いや、俺は帰るところ。途中まで一緒に帰るか」
さりげなく大河はすみれの持っていた紙袋を手に取る。思いのほか軽く、少し驚いた。
「あ、本当は全部六合たちが持つって聞かなかったんだけど、さすがにそれじゃあ悪いと思って……」
「ふぅん。まあ、いいんじゃないか。ていうかこれ、何? チョコレート?」
昨年渡されたチョコレートの中にもこの店のロゴがあったことを思い出した。そういえばもうすぐバレンタインだ。
「う、うん。それ、柴島君にと思って」
「え……っ」
急激に大河の鼓動が速くなる。思っても見なかった展開だ。まさか、ほん――。
「いろいろお世話になったから。式神のこととか厄のこととか、最初は驚いたけど、今は凄く感謝してるの」
あ――、なんだ。義理か。
「いや、厄師として当然のことをしたまでだし。じゃあこれ、ありがたく貰うよ」
そう言って大河はにっこりと微笑んでみせる。しかしショックを隠しきれているかは不安だった。
「あ、あの、さぁ」
「うん?」
「すみれは今年、本命とかいないの?」
「本命? うーん……」
困ったように視線を傾けるすみれに、大河はさらにショックを受けた。
悩むのかよ!
暗にすみれに本命がいることが発覚してしまったこの日を、大河はきっと忘れないだろう。
「……帰るか」
「うん」
僅かにテンションが下がった大河を横目で見ながら、すみれの頬が仄かに赤く染まっていたことに、大河が気づくことはなかった。
≪ F I N. ≫
2009/02/27 up 美津希