ドライブ編
雨が降っている。窓に当たる音が部屋にも響いていた。風はそれほどないようだ。
そこに突然電話が鳴った。新しく買ったばかりの携帯電話の、ディスプレイに表示された名前は家族よりも多く履歴に残っている名前で。
『海に行こうか』
彼からの突然の電話には慣れたすみれだったけれど。
その唐突な誘いにはさすがに驚きを隠せなかった。
「へ? うみ?」
前触れもなく言ってのける大河に、すみれは戸惑って何度も瞬きを繰り返す。今が太陽きらめく夏ならともかく、季節はずれと言うにはこれほど相応しい時期はないと思える肌寒い日に、よりによって潮風の強い海に行こうなどと。
『そう、海。免許取ったしさ、ドライブがてらにどうかなと思って』
「ドライブかぁ」
『それに最近全然会ってなかったし、久しぶりにデートしようよ』
「デートって……」
相変わらずな大河の言動に、すみれは思わず苦笑した。もちろん、大河はいつだって本気なのだけれど。
そもそも数ヶ月前から二人が会わなくなったのは、バイトがあるからという理由ですみれが誘いに乗らなくなり、拗ねた大河が教習所へ通い始めたからだった。
初めはただ良い時間潰しだと思っていた大河だったが、通えば通うほど助手席にすみれが居たらと思うようになってしまった。
「うん。私も海に行きたい」
『だろ? よし、行こう』
久しぶりのデートという割にはあっさりと、いつもと同じような流れになって、大河は満足げに微笑んだ。
――すみれが大河に甘いだけなんだからな。
いつだったか天空に投げられた言葉を頭で繰り返しながら、それでもすみれに甘えられるうちは、それで良いのだと思うことにする。
天空や六合に言われなくても大河は分かっているのだ。
すみれを助手席に乗せて、大河は高速に乗って沿岸まで車を走らせる。運悪く天候は回復しないまま、けれどどうにか雨だけにはならないで微妙な雲行きを漂わせていた。
窓から見える海の波は大きく荒れて、迫力だけは充分にあった。
「窓開ける?」
シートに沈み込むすみれを横目で見ながら、大河はそっと尋ねた。ふるふるとすみれは首を横に振り、さらに腰を沈めてコテンと頭を傾ける。
「気持ち悪い?」
口数が減ったことにも気づいていた大河は少なからずショックを受けたが、それよりも彼女の体調が気になった。六合たちが何も言ってこないことも、気になる要因の一つだった。
けれどすみれはやっぱり首を横に振って、慣れた手つきで車を運転する大河の横顔を見上げた。
「ううん。でもちょっと眠い」
「昨日あんまり寝てなかったの?」
「それもあるけど。柴島君って運転上手いのかな。電車に乗ってるみたい」
そう言われて、大河は緩む口元を隠すように片手で覆った。
『照れてる、照れてる』
からかうように笑う天空の声が聞こえて、けれど大河はそれを無視した。
「すみれ、眠かったら寝てていいよ。着いたら起こすから」
優しい声音はすみれに心地良く届いて、何も考えずにすみれは頷いていた。
「ん。ありがと」
すみれはゆっくりと瞼を閉じる。僅かに揺れる振動がリズムを取って、あっという間に眠りについた。
車を止めた大河はしばらく空を見上げていたが、一向に晴れる気配も見せない雲に嫌気が指した。
視線を下ろし、隣に眠るすみれの髪をそっと掬い上げた。さらりと流れる髪はほのかに茶色に染められている。大河としては漆黒の色の方が好きだったけれど、微かに明るいこの色もすみれにはよく似合うと思う。一見控えめなようで、その実自己主張が強いところなんかはそっくりだ。
春よりも随分と伸びた髪を持ち上げて、大河は静かに口づけた。
すみれは未だ起きる気配を見せない。
本当は気づいているのだろうか。それでいて大河を試しているのだろうか。だとしたらなんと意地の悪い。
そして、こんなにも愛おしい……。
大河は自分の指に絡ませたすみれの髪を離した。
腕を助手席に伸ばし、体ごとすみれを覆う。顔の正面にはすみれの寝顔があり、あと数センチ首を前にすればキスも容易い。
すみれの寝息が微かに聞こえ、なんとも艶かしく感じる。
いっそこのまま彼女の唇を奪ってしまえば――そう思うのに。
「馬鹿だよ、すみれ……」
こんなに無防備な寝顔を俺の前で見せるなんて。馬鹿だよ。
「馬鹿だな……」
もう一度呟いて。
大河は体を起こして運転席に腰を沈めた。
低い天井はどんよりとした外の雲よりも濃いグレイの色をしていた。バックミラーには情けない顔をした男の顔が映っていて、大河はそこから逃げるように目を閉じた。
「あ、あれ?」
目を覚ましたすみれはキョロキョロと辺りを見回して、運転を続ける大河を不思議そうに見上げた。
「海は? ていうかもう夜みたいなんだけど?」
暗くなった窓の外を指差して尋ねてみれば、これ見よがしに溜め息をついた大河が横目にすみれを見やる。
「すみれがあまりにも気持ちよく寝てるから悪いんだよ、馬鹿」
「な、そんな……」
ひどく残念がるすみれに大河は僅かに微笑んで。
空いた手ですみれの髪を慰めるように撫でた。
すみれが大人しくその行為を受け止めている間はまだ大丈夫なんだろう、と大河は車のライトが照らす先を見つめながら思った。
今度ドライブに誘うときは、絶対に晴れた日にしようと決意する。
≪ F I N. ≫
2009/04/13 up 美津希