お花見編
すみれが通う大学の食堂は2箇所にあり、そのうちの一つは大学敷地内の一番東側にある第一館の3階にある。すぐ目の前に山が広がり、そこから見下ろす景色は四季によって色を変える。すみれは友人達と窓側の席を取ると、緑に挟まれた左右に広がる薄い桜色に目を止めた。
そういえばもうそんな季節なんだ、と感慨深くなるのもそのはずだった。ゼミの論文を仕上げるために2ヶ月近くある春休みの半分を大学で過ごし、気づけば既に新入生を迎える4月に入っていた。それは同時に、今年がすみれにとって大学生活に終わりを告げる年に突入したことを告げるものでもあった。
「あぁ、もう来月かぁ。緊張するなぁ、教育実習」
友人の一人が席に着くなり憂鬱そうに呟いた。
「中学だっけ。長いよねぇ、3週間。高校にしたら2週間だったのに」
「でもどうせ教員免許取るなら多いほうが良いかと思って。中学の実習なら高校の教員免許も一緒に取れるし」
「まぁね」
そう頷く彼女もまた教職課程を取り、5月の最終週から約3週間教育実習へと赴く。学校によって実習期間は異なり、すみれの母校は6月の第一週からの実習となるため、彼女達とはあと1ヶ月ほどでこうして一緒に食事をしたり講義を取ったりすることもなくなるのだろう。尤もこうして集まるのは皆が同じゼミ生であるからに他ならず、大学4年ともなれば講義自体が週に1,2コマあるくらいなので、大学へ来ることさえなくなってしまうのだ。
それは他の大学であっても同じことで、だから大河との連絡が途絶えたとしても、最初の内は特に気にしなかった。
「そういえばすみれに懐いてた立木君も今年実習だよね」
不意に話を振られ、ぼんやりと窓の外を眺めていたすみれは「ああ、うん」と慌てて頷いた。
「教育学部は3年からな上に実習も多いから大変みたい」
「それ、サークルの子達も言ってた。介護実習と養護学校実習も必須だしね。うちらは介護か養護のどっちかで良いけど」
「しかもうちらは1週間程度だけど、あっちは1ヶ月近くあるしね。やっぱ大変だよねぇ」
「そっか、だからかぁ。最近見ないなーって思ってたんだ」
「いや、最近見ないのは春休みだからじゃないの?」
一人が突っ込むと、あとの二人が一斉に笑い声を上げた。すみれも釣られて笑う。けれど、とすぐに心の中だけで呟く。けれど本当に立木がすみれの前に姿を見せなくなったのは本当だった。休みであれ関係なくそう思うのは気にしすぎかもしれないが、告白の後、次第に立木を見る機会が減っていった気がしてならない。
「でもてっきり二人は付き合うのかなって思ってたけど。立木君、なかなか積極的だったし。すみれもまんざらでもなかったでしょ?」
「え?」
「それは無いんじゃないかなぁ」
すみれへの問いに答えたのは別の友人の方だった。彼女とは大学に入ってから仲良くなったのだけれど、実は出身高校が一緒だったという事実がある。
「私は、すみれは柴島くんと付き合ってるものだと思ってたよ。ていうか、付き合ってないって知って驚いたくらいだもん」
「それって学祭に来てた人?」
「ああ、あの焼きそばの人かぁ」
それぞれに大河の認識はあるようで、口々に彼に代わる言葉が飛び交う。彼女達は一昨年に現れたすみれの友人という大河の姿を見ていた。直接話をしたことはないが、遠目で見て、後日すみれに説明を求めたという経緯があった。
「確かに、立木君には悪いけど、焼きそばの人が相手じゃあ勝ち目はないもんね」
「え、え? なんで?」
思わず聞き返したのは、話題の当人であるすみれだった。自分の話をされているというのにまったくその実感が沸かず、その反応に友人達は揃って笑いを零した。
「どう見たって雰囲気が違ってんだよ、普通にそれくらい分かるってば」
呆れながら彼女は言い、すみれは首を捻った。すみれとしては雰囲気が変わって見られるほど二人に対して態度を変えていたつもりはなかった。どうしてそんなふうに言われるのか不思議でならない。
キョトンとしているすみれを横目に、彼女達もすみれがどういう人間かは把握しているので、それ以上は何も言わなかった。どう見ても一緒に居た男の方がすみれに好意を持っていることは明確であり、おそらくすみれがそれに気づいていないことも彼は分かっているのだろう。だから外野がとやかく言うことはない、とそれぞれに判断した結果である。
しかしすみれだけは違った。
立木から告白された後だったからかもしれない。普段であるならば気にせず、次の話題へと移っていく彼女達に乗っていくのだが、その時は思考が立ち止まってしまった。本当に傍から見て分かるほどに、二人に対して自分は違う雰囲気で接していたのだろうか……。
そしてなぜだか照らし合わせたように自分から離れていく二人のことに思いを巡らせ、いつもの2倍の時間をかけてすみれは昼食を食べ終えた。だからと言って何かが分かったわけでもなく、依然としてすみれの中には釈然としないものが残っていたのだが。
日曜日は県内最大級のホールで合同企業説明会があった。教員免許を取ったからといってそのまま教師になるわけでもなく、一応、ということで足を運んでみることになった。中には資格だけを取るだけで、第一希望は一般企業への就職だという友人もいるため、皆それなりに真剣な表情をしている。入学式以来のスーツは、きっとこれから頻繁に着るようになるのだろう。
「やっぱり大手になると人気もすごいね」
それぞれのブースを通り過ぎながら、一人が呟く。基本的にどこのブースも立ち見状態が続く盛況ぶりではあるが、誰もが知っている名前の企業ブースは一段とスペースを取っているにもかかわらず順番待ちの行列ができていた。事前に予約券を持っていれば優先的に入れるのだが、それも先着順なため確実とは言いがたい。すみれは自分の持っている予約券に目をやり、やはり早めに行くに越したことはないだろうと判断した。
「あたし、先に行ってるよ」
すみれが前を歩く友人に声を掛ければ、彼女達は振り返って「分かった」と頷いてくれた。
今居るCブロック側からは反対の位置に目的の企業ブースがあるため、人の波に逆らって戻るよりも、一度外の通路に出て大きく回った方が早そうな気がした。すみれは二人から離れて壁際へ寄ると、そのまま出口を探し、通路へと出る。そこにも似たような考えを持つ学生は多く居るようでそれなりに賑わっていたのだが、休憩している様子も多く見られた。やはり人の多さに疲労するのは同じなんだな、と感心する。
すみれは時間を見て、5分くらいならば問題ないだろう、と更に外へ出るため一番近い出口へと向かった。
外は、まだ春だというのに汗ばむくらいの陽気だった。単にスーツの下に何枚か重ね着をしているからだと言えなくもなかったが、それにしても晴々として良い天気だ。
会場へ入る前に見つけていた売店へと急ぎ、手早くペットボトルのお茶を買う。その横には春らしく桜の木々が植えられていて、美しく揺れている。この辺りは駅名に“サクラ”が付くくらいに桜の木が多く植えられており、花見の名所としても知られていた。尤も、名所として有名なのはここより大分と離れた河川敷の通りだ。
一度くらいはそこの桜を見て歩きたいと思う。それは昼間でもいいし、夜桜を眺めるのも良いだろう。名所として名を馳せているくらいだから、夜はきっと綺麗にライトアップされて、人を魅了してやまないくらいには素敵な桜が見られるに違いない。
そして、可能であるなら、一緒に――。
すみれは思わず立ち止まった。自然と思い浮かんできたその考えがとても良いことのように思える。どうして今までそうしなかったのだろう、と思うくらいに簡単で、当たり前のことだった。きっと今までが奇跡に近いようなことだったのだ。
花見は今までしたことがなかった。花見というと、桜の木の下でシートを引いて良い年した大人たちが酒を飲み、花見弁当を突くイメージしかなかった。しかし、ただそこに居るだけだけでもいいじゃないか、と思う。美しい桜を眺め、その感動を共有できるのは、なんて素敵なことなのだろう。今まで芸術的な鑑賞を好んでしたいと思わなかったが、この桜ならばそれも有りだと思えた。
そうして、できるなら大河と一緒に見てみたいと思った。
この桜を大河に見せたいと思った。
今まではずっと大河からしてもらっていたことだ。すみれが観たいと言った映画に、彼は必ず誘ってくれたし、すみれが好きそうな音楽のCDを見つければ必ず視聴させてくれた。それと同じことを、今度はすみれが大河にしたい。
会わなくなったからかもしれない。
声を聞かなくなったからかもしれない。
メールさえくれなくなって、言葉を交わさなくなったからかもしれない。
どうして急にそんなふうになったかは知らない。大河のことは、すみれにはよく分からない。そもそもどうして今まで仲良くしてもらっていたのかも分からないのだ。
けれど今は、強く思う。
……大河に会いたい。
会って、この桜を見て、綺麗だねと言いたい。綺麗だね、と言って欲しい。
すみれはふと気づいて時計を見た。そろそろ予約していた企業の説明会が始まる時間だった。
「やばっ」
すみれは慌ててホールへと戻ったが、既に満席になっていたようだ。
≪ F I N. ≫
2011/4/9 up 美津希