天つ神のおまじない

就活編


ビルから外に出ると吐く息が白く見えた。

すみれは思わず首に巻いていたマフラーを更に口元へ近づけ、手を覆うようにコートの袖をこれ以上ないほど伸ばした。

凍てつくような天気にうんざりしつつ、半年以上経って履き慣れたハイヒールを鳴らし、滑らないように気をつけながらゆっくりと歩き出す。昨日降った雨は乾いているだろうが、この寒さではアスファルトの道路は氷の上のように滑りやすいに違いない。

曇っている空を見上げても時間は分からないので、腕時計に視線を落とす。ちょうど14時を指したところだった。どおりで空腹感を覚えるはずだ。朝ごはんはしっかりと食べてきたけれど、未だに慣れない緊張感とストレスでかなりのエネルギーを使った気がする。今日は大学の講義もなく、次の予定があるわけでもない。近くで軽く食べることにした。

とは言うものの、ここは滅多に来ない郊外のオフィス街だ。どこに飲食店があるか分かるほど地理を理解しているはずもなく、そんな綿密な下調べをして来たわけでもない。だから駅前に行けばファーストフード店の一つくらいはあるだろう、という安直な考えの下、乗ってきた地下鉄の入り口を通り越して、看板に従い、更に先にある私鉄駅を目指した。路線の地図でしか見たことのない名前の駅名だったが、多少時間が掛かろうとも帰る分には困らない。

黙々と歩き続け、ようやく駅前らしいロータリーが見えた頃には、すっかり足元は冷え切り、靴の中の指先は冷たいという感覚を失っているようだった。手袋はしているが末端冷え性のすみれにはあまり効果がないようだ。手の指先も冷たいというよりはむしろ痛い。

ロータリーを囲うようにして駅ビルが並び、それらを繋ぐ歩道橋がバス停の横から上れるようになっている。駅の中へもそこから上がって入るようだ。すみれは駅への入り口を確認した後、隣の駅ビルへと足を踏み入れた。ちょうど歩道橋と繋がっている階に飲食店が多く入っていて、一周回って見ることもなく、一番手前の大手ファーストフードのチェーン店へは入ることに決めた。

携帯電話が鳴ったのは、注文したポテトとコーラを持って壁際の席に戻った直後だ。セットで頼んだ照り焼きチキンバーガーは後で持ってきてくれるということで、代わりに番号札を渡された。

青いランプが光り、その着信がメールの到着を知らせるものだと分かる。名前を確認すると、すみれは一瞬躊躇し、大きく息を吸って呼吸を整え、恐る恐る携帯を開いた。

『今、電話出れる?』

いたって簡潔な文に、すみれの心臓は一気に鼓動を強めた。

まだ温まりきらない指先が震え、いつもより返信が遅くなる。ただでさえ是か否か迷った挙句の返信だというのに文字を打つことさえもどかしく、そんな自分に苛立ちさえ覚えた。

『大丈夫だよ』

愛想も何もない返事だが、それでも今のすみれには精一杯だった。顔文字の一つでも付ければ良かったのだろうが、それさえも送信した後に気づいたことだ。いつものように一度見返すこともなく送信ボタンを押していた。

通話の着信を知らせる赤いランプが点滅し、マナーモードだった携帯が手の中で震えたのは、すみれが送信ボタンを押して1分も経たない内だった。すみれは慌てて通話ボタンに親指を当てる。

『もしもし、すみれ?』

「うん……、久しぶりだね」

若干声が震えてしまったのは、寒さからではない。数十分前に行なった面接よりも緊張していたからだ。

彼――柴島大河と言葉を交わすのは、いつ振りくらいだろうか。

変わらず“すみれ”と呼んでくれたことは思っていた以上に嬉しかった。

『こんなこと電話で言うのもどうかと思うんだけどさ』

久しぶりに聞く大河の声は歯切れが悪く、彼も彼なりに緊張しているのかと想像すると、すみれの緊張も幾分か和らげる気がした。

『いきなり連絡取らなくなって……ごめんな』

まだ面と向かって言えない気がして。と、小声で続けながら、大河はどことなく困ったような声音で謝罪の言葉を掛けた。ほんとだよ、とすみれは心の中で頷く。




――思えば、今年の春からだ。

まだ桜が舞う季節に、すみれは既に連絡が取れなくなっていた大河と再び繋がりを作ろうと決意した。河川敷にずらっと連なる桜並木の光景を、大河と一緒に見たいと思ったからだ。派手な喧嘩をしたわけではなく、何かを思って離れた大河と、すぐに元の関係のようになれるとは思っていなかったから、いくらでも粘るつもりだった。

それでも自分は来年の進路を決める就職活動真っ只中の身分だ。そう頻繁に大河の元へ足を運ぶことも叶わず、出来ることと言えば、辛うじて変わることのなかった携帯電話に着信を残すくらいだった。が、何もしないよりは良かっただろう。夏の終わり頃、初めて返信のメールが返ってきた。

内容は、自分は元気でやってるから、もう不必要な連絡はいらない、ということだった。愛想の欠片もない事務的な言葉だけが並んでいるそれを見て、すみれは泣きそうになった。大河が本心から自分を拒んでいたからだ。

だが、そのメールを見たのが大学の校内だったから、何とか涙を耐えた。きっと自宅だったら声を殺してでも泣いていたかもしれない。それほどショックだったのだ。こう見えて、人見知りのある性格な分、人付き合いは上手い方だと自惚れていた。今までだって大きないざこざを招いたこともなければ、友人同士と口喧嘩を交わしたこともない。勿論自分を嫌ってた人もいただろうが、そういう人とは、大抵は碌に口を利くこともなく終わる。

初めてだったのだ、すみれにとって、親しい人から拒まれるのは。




『本当は、何度もすみれからのメールや着信履歴を見る度、嬉しかったんだ。すみれはあまり人に執着を見せないところがあったから。俺との関係も、親友とは言ってくれたけど、連絡が途絶えれば自然と無くなるだろうと思ってたから』

ドキリとした。カッと体が一瞬熱くなった気がした。それは図星を指されたからだろうか。

深く考えたことはなかったけれど、確かに人との付き合いにこれほど執着を見せたのは初めてかもしれない。だからこそ今こんなにも――体が震えるほど緊張しているのだろう。

「なんで……? どうして急にいなくなったりしたの。話したいこといっぱいあるのに。いっぱいあったのに」

店内の暖房で随分と温まってきた。そして大河と話しているという事に鼓動が速さを増して体温も上がっている。涙は出ないが鼻水は出てきて、音を立てて吸い上げれば、少しは泣いているように思われるだろうか。

さすがに汚い音は聞かせたくないので、そっとティッシュを取り出したけれど。

『もともと俺がすみれに近づいたのは鬼頭のことがあったからだ。本当はもっと早く離れる予定だった。それこそ、鬼頭が俺たちの前から消えたときにでも、と考えていた』

それは忘れることの出来ない高校3年の夏の頃だ。今から3年以上前のことになる。

きっとその時に大河が離れていけば、きっと自分はこんなにも苦しい思いをすることもなかっただろう。離れていった大河を追いかけるような真似もせず、目の前の出来事をありのままを受け入れ、納得していたに違いない。苦しいと思うこともなく、大河を今以上に大切な存在だと気づくこともなかった。そんな自分が簡単に想像でき、そうでなくて良かったと心から思う。

けれど本音をここで言えるほど素直な性格を持っていなかった。恥ずかしくて、脳裏に浮かんだ言葉は喉の奥に飲み込んだ。

『でも離れることは出来ても、忘れることなんてできなかった。……当たり前のことなのに、俺は……』

大河の言葉を聞いて、胸が苦しくなる。

何だろう、これは。心臓が痛いのは鼓動が早くなっているからだ。それはさっきまでもそうだったけれど、今は、少し違う。もっと奥の方が痛むのだ。

心臓とか、そういう具体的な場所ではない、違うところが痛いのだ。

『――会えるかな、今度。すみれの都合のつく時にでも』

「当たり前だよ、そんなの」

(会いたかったのは、私の方……)

言葉にならない思いを吐息で隠して、溢れそうになる涙を堪えた。仮にも人の目がある所で泣くわけにはいかない。

「あのね、柴島くん。私ね――」

話したいことはたくさんある。

時間は無限にあるわけではない。

すみれは今の時間を精一杯に使おうと必死に話した。今までに無いほどたくさんのことを話した。

どれくらい経っただろうか。店員が運んできてくれた照り焼きチキンバーガーは手も着けられずにすっかり冷めてしまっている。

あ、と大河が声を漏らす。そしてすみれに外を見るよう言う。

窓越しに見える空からは真白い粉雪が降り注いでいた。

≪ F I N. ≫

   

2011/11/14 up  美津希