Te amo

2


 私――高尾実莉が、彼――遠野紀也に出会ったのは高校の入学式の後だった。式典も、新しいクラスでのホームルームも終わって、あとは帰るだけと言う時間。同じ中学だった子達とは別に、私は一人で学校内を歩いて周っていた。気分はちょっとした探検隊だった。我ながら子供じみていると思ったけれど、実際、その時の私はまだ何も知らないコドモだったのだ。
 体育館の裏側に近い、食堂を横切る道の脇には桜の木が並ぶようにして何本も立っていて、桜の花びらがひらひらと舞っていた。駐輪場に続くその道を歩いていると、彼が桜の木に体を向け、空を見上げているのに気づいた。学生服姿の彼は確かにそこにいるのに、その時の私はどこか違う世界にいるような感覚がした。
「綺麗だろ」
 不意に彼が口を開いて、聞こえてきた声は低く、甘い囁きのように私の耳に届いた。私は急に何だかどうしようもなくなってその場を離れたのだけれど。
 彼が私より一学年先輩の、女たらしで有名な遠野紀也だと知ったのは、それから間もなくした頃、仮入部しようとしたバスケ部の中でだった。彼は他の先輩達と同じユニフォームを着て、皆と同じように汗を流していたのに、私も、その他の女子生徒(主に新入生)たちを釘付けにしていた。それくらい彼は……イケメンだったのだ。
 女たらしと悪評判なのに次々と彼女ができることが頷けるくらい、彼は顔も体も仕草も全てがかっこよかった。男子バスケ部マネージャーに人数制限が設けられるほど入部希望者がいたらしいことも納得できた。――私は彼女たちの勢いに負けてバスケ部ではなく、全然別の文芸部へ入部したのだけれど。彼女たちの輪の中に入れるほど強くない小心者だった。
 だから私と彼の接点はそれだけだと思っていた。そうして何事もなく日々を過ごしていて、新しい環境にも慣れていって、新しい友人達も出来ていった。その中に当然マモちゃんこと畠瀬衛もいて、私は初めての男友達というものに少しだけ浮かれていた。そんな日常の端で、彼との再会は呆気なく果たされる。
「あ、桜子ちゃん」
 バレー部に入った友人に連れられて二年生のクラスに行った時、突然私の目の前に噂の絶えない遠野先輩がやってきた。視線からどうやら私が「桜子ちゃん」らしいのだが、なぜ私が「桜子ちゃん」なのか分からなかった。私と友人はキョトンと目を点にして先輩を見上げる。人懐こい笑顔を向けられて二人してドキドキした。
「あの……?」
「入学式の時、俺を見て走って逃げてった桜子ちゃんだよね?」
 あ。
 覚えてたんだ、あんな一瞬のこと。それだけで私のドキドキはさらに高まり、少しだけ感動してしまった。遠野先輩がどうして女たらしと言われて、彼女たちがそれでも遠野先輩を好きになるのか、少しだけ分かった気がした。ただ見た目がカッコイイからだけじゃなかったんだ。
「私、桜子じゃないです」
 勇気を振り絞って出した声はどうやっても震えているのが分かった。でも怯えてるわけじゃないと分かってるのか、先輩はそんなこと気にもせずに少しだけ首を傾げた。
「え、そうなの? 俺ってけっこう人の顔って忘れないんだけど」
「わっ私の名前、桜子じゃなくて、実莉です。高尾実莉ですっ」
「ああ」
 途端に先輩はふわっと笑って、私の頭をくしゃっと撫でた。まるでペットの猫を可愛がるみたいに。
「それじゃあミノリちゃん、またね」
 ……それからだ。私が彼と話すようになったのは。
 最初は廊下ですれ違う度の挨拶だけだった。私から声をかけると周りの女子生徒(他学年含め全員)たちの視線が恐いのであまりなかったけど、遠野先輩はちゃんと声をかけてくれた。「おはよう」から始まって、放課後は「バイバイ」「またね」という単純なものだった。その内「元気?」とか「次は何の授業?」とか、世間話をするようになっていった。もちろんたまたま会った時だけだから、会わなくて一言も話さない日の方が多かった。でも本当に偶然会った時はちゃんと声をかけてくれるから、それだけで特別な気がしていたんだ。
 話さない日の方が多いと言っても、私が勝手に先輩を見つける日は毎日のようにあった。グラウンドで3オン3をやってる先輩達や、放課後彼女と並んで帰る姿とかは、日を追うごとに見つける回数が多くなってきていることも、何となく分かっていた。
「最近遠野さんを見つめる率高まってないか?」
 だからマモちゃんにそんなことを言われた私は心臓が飛び跳ねるほど驚いた。その口調からからかい半分で言ったんだろうとは分かっていても、あまり意識していなかったことをズバリ言われて冷静でいられるほど私は大人じゃなかった。
 でも反射的に否定するほど子供でもなくて、私は素直に納得した。
「そうかも。だってカッコイイし」
 すると言った本人は私よりも驚いた表情をした。私が素直に肯定するとは予想していなかったんだろう。
「え、まじ? 遠野さんはやめとけよ? どうせ泣かされて捨てられるのがオチだって」
 本気で心配されてしまった私は、マモちゃんには申し訳ないけれど、心配してもらえることが嬉しくて頬が緩んでしまった。
「大丈夫だよ。先輩だって私なんか相手にしないし。第一憧れと恋愛の違いくらい分かってるつもりだから」
 そうなのだ。このときの私はまだ恋に恋する状態で、遠野先輩のことはマモちゃんが心配してくれるような感情の相手ではなかったんだ。
 ただ彼はかっこいい先輩で、ちょっとだけ浸れる優越感に私は舞い上がっていただけだった。恋とか愛とかの言葉の意味を全然知らないでいる子供だったんだろう。
 でも。
 年月がそんな私を少しずつ変えてしまったんだ。