Te amo

3


 ちょっと浮かれすぎていたのかもしれない。かっこいい先輩と知り合って、彼女ではないけれど構ってもらえるようになって、舞い上がっていた私は周りの視線を気にしながらも全然気づかなかった。先輩を慕う彼女たちにどんな目で見られていたかなんて。それともわざと気づかない振りをしていたんだろうか、小心者の私は。
「紀也が優しくしてるからっていい気になってんじゃないわよ」
 生物室へ向かう廊下の途中、すれ違うはずだった女子生徒の一人に、面と向かってそんなことを言われた。たぶん遠野先輩と同級か、それとも三年生かもしれないその人は、それだけを言って通り過ぎていった。私は呆気にとられて何も反応できず、動くこともできないでいた。ただ周りにいたマモちゃんをはじめ、他の友人達が言いたいことを全部言ってくれたので特別苛立つことはなかった。
 でも、あの人の言ったことは少し当たっていたと思う。確かに私はどこかいい気分だった。近づきたくても近づけない女子生徒はたくさんいるだろうに、私は先輩から話しかけてくれるのだ。小さくとも優越感に浸っていたことに違いはなかった。
「あまり遠野さんに近づかない方が良いかもな」
 マモちゃんはそんなふうに忠告もしてくれていたのに、私はその意味の重さなんていうのを全く理解していなかった。考えもしなかった。気づいたのは大切な友達が傷つけられた後だった。
 ただ私と仲が良かったというだけの彼女に、遠野先輩の取り巻き達は酷い傷つけ方をしたのだ。肉体的にも精神的にも傷つけられた彼女は私の前で泣いた。泣いて、でも、私を責めたりはしなくて。ただ、悔しい、と呟いた。
 それから私は遠野先輩を避けるようになった。遠くから見つめることはあっても、なるべく休み時間の廊下や下校時に会わないように、わざと回り道をして玄関を出たりなんかしていた。それでも先輩に嫌な印象を与えたくなくて、嫌われたくなくて、なるべく意図的に避けてると思われないように気をつけていた。――はずだったけれど。それは簡単に見破られてしまった。
「実莉ちゃん、最近俺のこと避けてるでしょ?」
 表面上はニコニコと微笑んでいるのに、目は全然笑っていなくて、そんな遠野先輩を見て、初めて恐いと思った。そんな表情をする先輩も、そんな表情にさせてしまった私自身も。怒っているんだ、と分かったと同時に背中に冷たい汗が流れた。
「何かされた?」
 まるで今までもそんなことがあったような確信を持っていそうな口調で、先輩は言った。全て知っているんだと思わせるような雰囲気に思わず肯定の返事をしそうになった。でも言ったら言ったで先輩に迷惑をかけてしまうだろう。そう思うと簡単に頷けなかった。本当は全部を言うべきなんだって分かってるのに。大切な友達が傷つけられたって、そう言って当然のはずなのに。なんで言えないんだろう。
 そんな自分に嫌悪して、涙が出てきた。今泣きたいわけじゃないけど、涙は止まってくれなかった。どうして泣いているのか自分でも分からない。泣く場面じゃないと分かっている。
 でも、嫌だった。辛そうな遠野先輩の表情も、そうさせてしまう自分も、何もかもが嫌だった。
 ぽろぽろと涙を落とす私に先輩は困った顔をして、優しく私の髪を撫でる。
「まぁ、色々あるけどさ、人生にはね。でも実莉ちゃんが落ち込む姿は見たくないんだよ、俺は。だから困ってどうしようもなくなった時は遠慮なく連絡して? 電話でもメールでも良いからさ。そしたら俺が一番に駆けつけて助けるから。な?」
 優しい声音と大きく暖かな手が私の心を静かに落ち着かせる。まるで魔法みたいにすぅっと私の中に溶け込んでいく先輩の言葉は、今まで聞いてきたどんな言葉よりも絶対的な安心感があった。
 そうして得た遠野先輩のケータイ番号とメールアドレスは、何度か変更していき、その度に私の元へやって来ていた。回数を重ねるごとに私から行くことはあまりなくなって、今ではどちらかというと私が彼を助けている。彼は覚えているのだろうか、あのときの言葉を。私がその言葉にどれだけ救われたのかを。少しでも覚えているのだろうか。
 そんなふうに考えて、ふと思い出す。時々忘れそうになるのだけど、遠野先輩は女の子が大好きなのだ。だからきっとあの時の言葉だって女の子を落とす口説き文句の一つだったのかもしれない。マモちゃんに言わせればそれ以外に考えられないらしいのだけれど。そうだとすれば私はあの時、間違いなくその文句にやられてしまった。他の女性達と同じように、遠野紀也の手の中に丸め込まれてしまったんだろう。
 そうして好きになってしまったのは、私。
 でもやっぱり高校生の幼い私は一線を引いて彼を見ていた気がする。遠野先輩が美人でもグラマーでもない私に本気になるはずがないと、例え遊び相手にさえもならないと、そう思って疑わなかった。だから先輩が動かない限り私達の関係は先輩と後輩のままだったと思う。
 それを変えたのは、彼。
 いつも変化をもたらすのは、彼からだった。