Te amo

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 私と遠野先輩が付き合うようになったのは、先輩の卒業式の日からだ。
 卒業式の日は、在校生は午後からしか学校内に入れないので、正午になったと同時に部活のためや卒業生に会おうという生徒達が一斉に校門を潜るので賑やかだった。その中に私も居て、文芸部の先輩たちに会おうと必死にもがいていた。先輩達のために買った小さな花束も少し崩れかけそうな勢いだ。
「実莉ちゃん、こっち!」
 突然大声で呼ばれたかと思うと、ぐいっと誰かに腕を引っ張られた。おかげでもみくちゃの中から抜け出せてよかったけど……誰だろうと顔を上げるとにっこりと微笑む遠野先輩がいた。しっかり握られていた腕はすっかり解かれていたけど、先輩が私を引っ張り出した本人であることは明らかだ。
「あ、あの?」
 でもどうして私は遠野先輩に助けてもらったのか、その事態が読めなくて戸惑う私に、遠野先輩は相変わらず甘い声で囁くように言った。
「困っていたみたいだから、ね」
 先輩の微笑みは何だか不思議で、私も釣られてほにゃらと笑う。いつの間にか人波から外れて食堂を横切る桜の木の下に居た。入学式で先輩を初めて見た場所だ。
「あの、えっと、卒業おめでとうございます」
 先輩と二人きりでもドキドキが納まらないのに、じっと見つめられればどうしようもなくなってしまうのは仕方のないことで、だから文芸部の先輩に渡すはずだった花束をつい遠野先輩に差し出してしまったのも仕方ないと思う。先輩は少し驚いた顔を見せたけれど、すぐに笑顔に戻ってそれを受け取ってくれた。
「ありがとう」
 それだけで、その一言だけで私の心臓はこれでもかと言うくらいに波打って、たぶん私の全身は真っ赤に染まっていると思う。
 かちこちに固まった私の体を、先輩がふわっと包みこむ。抱きしめられていると自覚したのはしばらく経って、先輩のトクトクと鳴る鼓動が聞こえてきてからだった。
「俺の彼女にならない?」
 初めて聞く、先輩の震えるような不安そうな声に、私はいつの間にか頷いていた。後にも先にも、これが遠野先輩の唯一くれた告白だった。
「俺の彼女になってほしい」
 耳元で聞こえた先輩の声を、私は今でも覚えている。

 私と付き合うようになっても、相変わらず遠野先輩は皆の知る遠野紀也だった。デートの遅刻は当たり前、他の女性に誘われれば平気で浮気はするし、私が大学生になってバイトを始めるとお金を私から取るようになった。先輩も大学に進学していたけど、単位数が足りないと見切ると、さっさと退学してフリーターになってしまった。でも私には何の相談もなくて、だったら私は何だろうと悩んだ。だけど別れたいと言ったことはなかった。言うことができなかった。言おうか迷っている時に限って先輩は優しくて、何より大事な壊れ物のように扱ってくれて、そのたまに見せる優しさや熱い眼差しが私を離してくれなかった。
「実莉は俺の本命なんだ。だから大事にしたいんだ」
 そう言って、私を抱きしめる彼は、それでも一度だってキスもしてこない。イマドキ中学生だってキス以上のことをしているだろうに、彼は私を包み込んで、手と手を触れ合わせるだけで、何もしてこないのだ。その分他の女性と遊んでいるんだと知ってしまった私は、泣くことも何時の間にかやめてしまっている。
「遠野さんって上手そうだよな」
 ニヤニヤと笑ってからかうマモちゃんにも、私はそのことだけは話していない。話せないでいた。他の誰にばれたとしても、マモちゃんには話せないと思う。
 今のマモちゃんの気持ちは知らないけれど、私は高校時代、マモちゃんに一度だけ告白されていた。私だったらきっと、好きな人のそんな話は聞きたくないと思うのだ。

 マモちゃんに告白されたのは、まだ遠野先輩とは廊下で会うだけの関係だった時だ。いつもの放課後、皆より少しだけ遅く残って、それでも完全下校の時間よりは少しだけ早い、そんな時間帯。そろそろ帰ろうかという雰囲気を破って、いつもと少しだけ違う空気を出して、マモちゃんは言った。
「好きだ」
「え……?」
「好きなんだ、高尾のこと」
 そこにはいつもと違うマモちゃんがそこにいて、私は口を開いていた。
「――ごめん」
 その頃はまだ遠野先輩のことを好きとかいうわけじゃかったのだけど、それでも私の中ではマモちゃんはマモちゃんでしかなくて、恋人の畠瀬衛にはならないのだ。
 そんな私の中を覗いたみたいにすっきりとした笑顔で、だけどやはりどこか切なそうな目で、マモちゃんは「そっか」と受け取ってくれた。
 マモちゃんは本当にイイヤツだ。でもこの先恋人になることはないと思う。男と女の友情は成立しないというけれど、マモちゃんとだったらできそうだと思える。それは私がまだ幼いからなのかもしれないけど。私の中でマモちゃんはそんな存在だ。少なくとも今は、その時は、そう思っていた。誰より信頼できて、何事も静かに大きく受け止めてくれる人。
 たぶんマモちゃんのそれとは意味が違うのだろうけど、出会ってからずっと私もマモちゃんが大好きだ。