Te amo

5


 遠野先輩が遠野紀也である所以の片鱗を垣間見せたのは付き合い始めて間もない頃だった。私はまだ高校生で、遠野先輩は大学生で、時間のズレくらいはしょうがないと思っていた。デートのときの遅刻も、理由が寝坊だからと先輩が言えば、それくらい大変なんだと思って納得していた。その納得がむりやりだったとしても、私には分からない先輩の生活というものがあるんだと自分に言い聞かせれば充分だった。直前になってのドタキャンも、よっぽどの理由なんだろうと思って我慢できた。
 でも。
『え、今日だっけ? ごめん、今俺無理だ』
 人間ってキレると本当にぷっつり切れるんだと分かった。怒っていいのか泣いていいのか分からないまま電話を切った。先輩に何か言った気がするけど、自分で何を言ったのか覚えていない。気づいたらそのままマモちゃんを呼びつけていた。こんな私に付き合ってくれるのはマモちゃんくらいだ。女友達も他にたくさんいるのに、マモちゃんの顔が真っ先に浮かんだ。
『俺にも一応予定ってモノがあるんだけど』
 そんなふうに面倒くさそうに言いながらも、マモちゃんはちゃんと来てくれる。
 マモちゃんは遠野先輩ほど格好良くもないし、背だって高くも低くもない中背だし、女の子をドキドキさせるような気の利いたセリフも言えないけど、フェミニストな先輩とは違った優しさをたくさん持っている。たまにキツイことを言ってくるけど、それもマモちゃんなりの優しさの一つだってことはよく分かる。だから後輩にだって男友達からだって頼られる人なんだろう。
「で、今日はどこに行くの」
 今日は、という部分を強調するマモちゃんの口ぶりは、いつものように私を安心させてくれる。何だかんだと言いつつ、やはりマモちゃんはマモちゃんなのだ。
「へへ。実は観たかった映画があるんだよねえ」
 最近大々的に宣伝しているハリウッド映画のタイトルを挙げると、マモちゃんもけっこう気になってたらしい反応が返ってきた。だからちょうど昼前だったけれど昼ごはんは後にしようってことになって、早速駅の近くに新しくできた映画館へ向かった。休日ということもあってカップルの姿がよく見かけられるけど、当然親子連れや友人同士のグループもいて、それなりに賑やかだった。
 だから気づくなんて、そんな偶然は要らなかった。どうして気づいてしまったんだろうと、目を離せないまま私は自分を責めたりした。でも気づいてしまったのは仕方なくて、例えそれが必然であっても、やっぱり私は自分を責めたと思う。気づいてしまえばそれからずっと気になるのはどうしたって止められないから、気づいてしまう私に腹を立てるしかない。そのこと自体がもう彼を信じていないという事だと分かっていたとしても、そうするしかなかった。
 目の前が真っ暗になった気がした。そうなる前に見た光景は脳に焼き付いて離れない。遠野先輩と知らない女性が腕を組んで列に並んでいた姿は、映画が始まる直前まで私の視界の端にチラチラとしつこいくらいに焼きついていた。
「大丈夫か?」
 よほど心配されるような表情をしていたんだろうか。俯いたままの私の顔を覗きこむようにマモちゃんがそっと声をかけてくれた。気分を悪くしたと思ったのか、マモちゃんは私の背中を何度も摩ってくれる。
「うん、ごめん。……ちょっとお手洗い行ってくるね」
「まじで、大丈夫か? 外までついて行こうか?」
「ありがと。大丈夫だから」
 だからマモちゃんは良いヤツだ。だからマモちゃんを頼って電話してしまったんだ。こんなふうに本気で心配してくれると分かっているから。ああ、私って本当に酷い女かもしれない。マモちゃんのこと完全に利用してるだけだ。
 なんだか自己嫌悪で余計に気分が悪くなった私は、本当に吐き気に襲われた。病は気からって、あながち迷信でもないんだな、なんて思ったりした。そんなふうに別のことだけを考えようとしていた。そうじゃないと映画どころじゃなくなってしまいそうで怖かった。
 分かってたはずなのに。遠野先輩は遠野先輩だって。女たらしで有名で、浮気なんて日常茶飯事だっていう噂がある遠野紀也だって。分かってたはずなのに、どこかで自分だけは違うなんて思ってたんだろうか。私だけは特別だって、思いたかったんだろうか。現実はこんなものなのに。やっぱり私はいい気になってただけだったんだろう。
 吐き気が治まると今度は涙でぐしゃぐしゃになった顔を元に戻すのに時間が掛かって、結局マモちゃんのところに戻ったのは映画が始まって20分も過ぎた後だった。
 これが感動大作と銘打っている映画で良かった。そうじゃなかったらこんなに泣きはらした顔で映画館を出るなんてできなかった。私は席に着くなりそんなことを考えながら、止まったはずの涙をもう一度抑えるのに必死になっていた。……まだ泣くところじゃなんだけどな。

 映画が終わる頃にはだいぶ落ち着けて、クライマックスでは思い切りヒロインに感情移入できた。やっぱヒューマン系は良い! マモちゃんとも交わした映画の感想はその一言に尽きた。