Te amo

6


 映画館で遠野先輩を見かけた次のデートのとき、彼の首筋に薄っすらと赤い跡が見えた。だけど私は何も言わない。彼も何も言わない。ただいつものように私に笑いかけて、肩を抱いて、甘い言葉を囁いて、ただそれだけ。髪や額にも先輩の唇は降りてこない。

 彼は何を求めて私と一緒に居るんだろう? どうして私と別れようとしないんだろう?
 そんなこと聞く勇気もないくせに、私は毎日のように胸のうちで問いかけていた。


「んー?」
 講義が終わって騒がしい教室の中、私は唸って自分の携帯電話を睨みつけていた。
「どうかした?」
 隣に座っていたマモちゃんが私の険しくなっているだろう顔を覗きこむように聞いてくる。私はケータイから目を離してマモちゃんの方に向き直る。
「んー……繋がらないの」
「遠野さん?」
 私はコクリと頷いた。
 お金が欲しいと言ってきたのが授業の始まるおよそ1時間半前。いつものように今すぐ持って来いと言った彼に、私は「授業が終わったら連絡するから」とそれを拒否した。
 そしてこうやってわざわざ連絡を取ろうとしているのに、彼のケイタイは「現在電波の届かないところにいるか、電源が切れています」と繰り返すだけ。私は苛立つよりも先に不審に思う。今までデートのドタキャンは数多くあったけど、連絡が付かないことなんて――深夜でもない限り――無かったことなのだ。
 外は既に薄暗くなっているけれど、今はまだ彼の言うところの「夜」ではない時間帯のはずなのに。何かあったんだろうか? それとも……。
 どちらにしても私にとっては悪いことに違いない。私は止めていた手を機敏に動かして道具を片付け終えると、さっさと立ち上がった。
「ごめん、マモちゃん。私ちょっと行ってくる」
「お、おお。何かあったらすぐに言えよ」
 マモちゃんのいつもの優しさにほっとするけど、この時の私に笑顔を返す余裕はなかった。
「うん。じゃあまたね」
 教室を飛び出して階段を下りる。駅までは歩いて5分から10分。走れば5分以内には着く。だけど駅に早く着いたとしても、早く電車に乗れるわけじゃない。1時間に4本しかない田舎なのだ。それでも走ってしまうのはしょうがない。彼に何かあったら私はどうしたらいいのか分からなくなる。
 やっぱり電車はまだ来てなかった。あと5分は待たなければならない。歩いてきたって大して変わらなかった。
 私は上がった息を落ち着かせて、ホーム内にあるベンチに腰掛けた。まだ高校生や中学生の団体がちらほら見受けられる。部活帰りだろうか。あとは私と同じ大学生がぽつぽつと居る位の、閑静な駅だ。
 電車を待つ間に何度も電話をかけてみたけど、結果は同じだった。本当に何かあったのかもしれない。嫌な予感だけが胸を騒がす。
 お願いだから、どうか無事でいて――。  私はまだ彼に解放されていない。それなのに彼がいなくなってしまったら……。
 彼が居なくなれば、私は開放されることになるのだろうか。答えはたぶん、否、だ。彼は強く強く私の中で私自身を縛り付ける。離すことを許してはくれない。そんな気がする。
 と。
 握り締めていた私のケイタイが震えた。着信元を見ると「公衆電話」という文字が表示されていた。瞬間、息が詰まりそうになった。
「も、もしもし?」
『実莉? ごめんな、何度も電話くれてたのに』
 変わらないいつもの彼の声だ。私はほっとして、なぜだか涙が出そうになった。彼に声が震えていることに気づかれているだろうか。
「ほんとだよ。すごく心配したんだからね」
『悪い悪い。でさ、今日の金のことなんだけど、やっぱ要らねぇわ。……ごめんな』
「えっ?」
 お金が要らなくなったということよりも、彼の「ごめん」という言葉に驚いた。その「ごめん」はお金のことを言っているのだろうか? それにしては何だか――声が切なく聞こえた。
『なんか実莉にはいつも迷惑かけてたけど、もうそんなことないからさ』
 急に、何を言い出すんだろう。
「先輩? どうかした?」
 すると彼はハハッと笑った。
『どうもしねぇよ。ただしばらく会えなくなったからさ。感傷的になってんのかも』
――え?
『俺今病院にいるんだ。ちょっと事故ってさ。で、当分帰れそうにもないから。あ、今病院の電話使ってんだ。もう時間なくなるから切るよ。また掛けるから』
「え、待って、どこの病院? お見舞いに行くよ!」
『や、いいって。実莉にはかっこ悪いとこばっか見せてたから、格好まで悪いとこ見せたくないんだ。元気になったら俺から会いに行くからさ。それまで電話でいいだろ?』
「何、そんな、かっこ悪いとか」
 確かにデートドタキャンしたり平気で浮気したり彼女にお金貰うなんて、カッコイイとは言えないけど。でも、そんなの今更じゃない。そんな言い訳、言い訳にならないのに。
『なんていうか、実莉だけは特別なんだ、俺の中で。だからごめんな。まじで、俺から会いに行くから。そん時お前、驚くなよ?』
「驚くわよ、絶対。それから思いっきりひっぱたいてやるんだから!」
 すると彼はまた笑った。控えめな声で、ハハッと。
『楽しみにしてるよ』
 ひっぱたかれるのを? ……マゾ?
 そんなことをふと思ったけど、さすがに口に出すことはなかった。だって彼の声があまりにも、切なくて。
 そんなに酷い事故だったんだろうか。私の嫌な予感は当たったんだ。
――でも。
 無事でよかった。
 ケイタイを閉じて、ほっと息をつく。
 タイミングよく電車が入ってきた。私はベンチから立ち上がる。
 電車から降りたらマモちゃんに電話しよう。そう決めて、ケイタイを鞄の中にしまった。