Te amo

9


『実莉のこと、好きだったよ』
 途中で切れたあの電話を最後に、彼からの電話はなくなった。それから数日して、彼が亡くなったということを人伝に聞いた。お葬式は家族内だけでやるのだそうだ。私は行かないつもりでいたのだけど、マモちゃんは「顔を出すだけでいいから行こう」と言ってくれた。だけど私は彼の家を知らなかったのだ。彼は一度も教えてくれたことなどなかったし、そんな素振りも見せなかった。
 人の死はなんて呆気ないんだろう。
 私は講義を受けながら、それでも考えるのはやはり彼のことで、全く講義に集中できなかった。涙は出ないのに、どうして彼のことばかり考えてしまうのだろう。
 ……私も好きだった。
 好きだったのに。
 私の気持ちも、彼も気持ちも、どちらもすでに過去のものなのだろうか。

「ねえマモちゃん、今日ちょっと付き合ってもらえない?」
 講義が終わってノートやら筆箱やらを鞄の中に詰め込んでいくマモちゃんを、私は意を決して誘った。マモちゃんは私の真剣な表情に少し目を丸くして、だけどすぐに動作を続けて「いいよ」と優しく言ってくれた。
「俺もちょうど話したかったんだ。高尾とちゃんと」
 今度は私が目を丸くした。一瞬息を飲み込んだ。
「え?」
「遠野さんのことだろ」
 どうして――。
 どうして彼の名前を聞いただけでこんなにも胸が熱くなって、涙が出てきそうになるのだろう。さっきまでは大丈夫だった涙腺が、とたんに弱くなっていく気がした。

 いつもより二つ先の駅で降りて、マモちゃんに案内されたのは小さな喫茶店だった。ウィンドウには可愛らしい小物が並べられていて、一見雑貨屋に見えなくもないその店は、ドアのところに木製のメニュー立てを立てていて、控えめながらも飲食店であることを主張しているように見えた。
「なんか、意外……。カノジョにでも教えてもらったの? ここ」
 マモちゃんからは居酒屋のイメージしか浮かんでこない私は、席に座りながらも店のあちこちを見回してそう聞いてみた。女の子が好きそうな小物ばかりが辺りに散りばめられていて、どうしてもそうとしか思えない。けれどマモちゃんは表情も変えず「別に」と素っ気無く否定する。
「高尾ってこういうの好きそうだと思っただけ」
「うん、好き。この醤油入れなんて最高」
 私が持ち上げたのは、やっぱり木製らしい醤油入れで、クマの人形になっている。クマが持つジョーロから醤油が出るようなデザインだ。きっと子供にも受けるに違いない。思わず顔が綻んで、慌てて緩む頬の筋肉を引き締めた。今は笑ってる場合じゃないのに。……先輩は私がこういうファンシーなものが好きだってこと、知っていただろうか。
「俺はさ」
 注文をする前にマモちゃんが話し出して、私は醤油入れから顔を上げた。注文を聞きに来たウェイトレスさんに急いで答えると、マモちゃんは気まずそうにもう一度真剣な眼差しを向けてくる。
「俺は、一度だって高尾をただの友達として見たことはないよ。こんなこと言うと困らせるのは分かってるんだけど」
 私は何も言い返せなかった。
 というより、言われたことを頭の中で整理するのに時間がかかってしまった。今マモちゃんから何を言われたのか、その意味するところは何なのか、ようやく分かったときは感じたことのないほど私の驚きと緊張が走った。強く打ちつけた鼓動は速さを増して、耳の傍でその音が響く。
「それでも良いなら、高尾の話を聞くけど」
 どうするの、と問われて、私はどうしたらいいか分からなくなった。
「え……っと……?」
 分からなさすぎて頭が可笑しくなったみたいだ。知らず私はハハッと笑った。至極真面目なマモちゃんの視線に、それはすぐに引っ込んだけれど。
「俺はいつだって、高尾が幸せならそれで良いと思ってた。でももう無理なんだ。次に現れた男になんか、高尾を持っていかれるのは我慢できない。高尾がどんなことを言っても、遠野さんから俺の方を見てくれるように俺は仕向けるよ」
――それでも良いなら話を聞くけど、どうするの。
 それはとんでもなく優しそうで、難しく、意地悪な言い方だと思う。
 つまりは、マモちゃんはずっと私を想ってくれてたわけで。……でも、それじゃあ今までの彼女たちは何だったの? マモちゃんも先輩と同じだったのかな。よく分からない。けど、何となくショックだった。
 私はどこかで、マモちゃんだけは絶対に安全だと思ってたのだろうか。“安全”って何?
 考えがまとまらなくて、私は余程困った顔をしていたんだろう。マモちゃんの表情がふっと和らいで、苦笑している。私もその顔を見てふんわりと力が抜けた。
「なに、それ」
 ふふっと笑いながら、私はそれでも困ったままに言った。
「ずるいよ、そんなの」
「うん。ずるいよ」
「確信犯?」
「まあね」
 何年我慢してたと思うんだよ、とマモちゃんは笑った。
 こんな時にこんなことで笑えるなんて、私は不謹慎だろうか。先輩が居なくなったというのに、どうして笑顔なんて見せられるんだろう。
「そんな人、だったんだ……マ、モちゃん、って」
 ぽろぽろと自然に、涙が静かに流れて、私はどうしようもなくてそのまま流し続けた。こんなに静かに泣いたのは久しぶりだった。悲しいとか、つらいとか、そういう強い感情がなくても、涙は流れるんだ。こんなふうに、胸のもやもやを流せるんだ、人間の涙は。
「そうだよ。俺はずるいんだ。ずっと高尾の隣で隙を狙ってたんだよ」
 そう言うマモちゃんの苦笑にも似た笑顔は、だけどマモちゃんの今まで見せてた優しさが嘘じゃないってことを表すかのように、どこか辛そうにも見える。自分はずるいんだと言っておきながら、そういう自分を肯定しきれていないマモちゃんは、やっぱり優しいんだと思う。そして私はそういう優しさに、ずっと寄りかかっていたんだ。
 流れる涙に濡れる顔を手で覆って、私はずっと泣いていた。声も嗚咽も出さずに、ただ流れるままに流した。涙も、もやもやも、全部なくなればいいのにと願いながら。
「……マモちゃん」
 飽きもせずに涙は流れる。声も震える。それでも私の小さな声をマモちゃんは聞き取ってくれる。
「なに?」
 きっと大丈夫だ。
 ね、先輩。どうしてあの時、マモちゃんを選んだの?
「明日先輩の家、一緒に行ってくれる?」
 先輩はいつからマモちゃんのことを知っていたんだろう。